艶っぽく笑うシナさんを見た途端、雑渡さんは怖い顔をした。今まで見たこともないような冷たい顔。結婚を考えていた人に裏切られるなんて並大抵の衝撃ではないだろう。だけど私にはシナさんが悪い人にはどうしても見えないのだ。
病室の張り詰めた空気を壊すように、なるべく明るい声を出して私はマスターと病室を出た。雑渡さんは止めたけど、二人きりで話をすべきだと思った。私は立ち入ってはいけないような気がした。二人がどんな話をしているのか気になったけど、どんな結末があっても私は雑渡さんに会えてよかったと思える。だから、平気だ。
涙を堪えていると、マスターが苦笑いをした。マスターにも迷惑をかけた。


「あの、ごめんなさい…」

「いや、構わない」

「私、クビ…ですか?」

「どうしたい?」

「私は…」


戻りたい。いつものあの空間に帰りたい。でも、もしも雑渡さんにフられてしまったら私はあの空間に耐えられるのだろうか。百面相をしていた私を見て再びマスターは苦笑いをした。マスターから見れば私は幼い子供だろう。
ぼんやりと病室の扉を眺めていると、不意に扉が開いた。いつもと変わらない顔をしたシナさんは私に微笑みかけ、今日は店に出なくてもいいわと言い残して一人帰ってしまった。
面会終了まであと10分。私は意を決して雑渡さんの元へと行った。雑渡さんは暗い顔をしていたけど、私の顔を見るなり柔らかく笑いかけてきてくれた。


「よかった。シナと行ってしまったのかと思った」

「雑渡さん、私…」

「なまえちゃん、本当にありがとう。今までずっと触れないで過ごしてきた私の過去が一つ思い出になった」

「…シナさんと、ヨリを戻さなかったんですか?」

「まさか。私が好きなのはなまえちゃんなのに」


本当に不思議そうに首を傾げた雑渡さんは優しく笑って、私の手を握った。


「好きだよ、なまえちゃん」

「……はい」

「ねぇ、なまえちゃん。家に戻ってきて。私はなまえちゃんがいないと駄目だ」

「早く退院して下さいね」

「戻ってきてくれるの?」

「でなきゃ、雑渡さん食事も摂らずにまた小説を書き続けちゃうでしょう?」

「あぁ、うん、そうだね。なまえちゃんが戻ってきてくれるまで何度も倒れちゃうかもしれないね」

「脅さないで下さい」


くすくすと笑う雑渡さんを見るのはどれだけぶりだろう。とても懐かしい空気が病室に流れた。私、雑渡さんが好き。彼の醸し出す雰囲気も、優しさも、この眼差しも。
そっと雑渡さんの唇にキスをしたら、目をぱちくりさせて驚いていた。そしてその後、本当に幸せそうに笑うから私は溶けてしまいそうだった。
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