病院を出ると、星が綺麗に見えた。昨日まで見ていた空と同じはずなのに、何故だかいつもよりも綺麗に見える気がする。夜風がすっと染みて心地よかった。
「少し、いいか?」
「あ、はい…」
「場所を移そう」
珈琲館に向かって無言で歩いていくマスターの後ろを私も黙って付いて行った。
怒られる、のかな。それはそうだろう。勝手に勘違いして嫉妬して、無断欠勤した上に他所でマスターに黙って働いていたのだから。
「あの、本当に…」
「謝罪ならもう聞いた。それより、山元シナについてどう思う?」
「どうって…」
素敵なひと。綺麗で優しくて、マスターから聞いていた「雑渡さんの元彼女」のイメージとはかけ離れている。
出された珈琲を飲みながらマスターにそう言うと、マスターは頷いた。そして、すっと私に頭を下げた。
「私はお前に嘘をついた」
「嘘?」
「あいつは雑渡に貢がせて一方的に捨てたわけではない。雑渡は自分の意思で山元に貢いでいた」
「…どういうことですか?」
雑渡は幼少の頃から周りから疎まれて生きてきた。醜い火傷、施設育ちという偏見、親の愛情を一度も受けたことがないせいで歪んだ価値観。それを初めて受け入れてくれた女性が山元だった。雑渡は彼女から嫌われたくない一心で、出来る限り尽くした。初めは小さなことから始まったが、金が手に入ると次第にエスカレートしていき、気が付けば山元の気持ちに目が届かなくなっていた。金でしか山元を繋げないと勝手に勘違いして、勝手に自滅していったのは雑渡の方だ。山元は日に日に病んでいく雑渡を側で見ていられなくて離れただけで、雑渡を騙したわけでも何でもない。むしろ、被害者だ。
珈琲を口にしながら遠い目をするマスター。以前にもこんな顔をしていた。
「…離れて、雑渡さんはどうなったんですか?」
「しばらくは廃人のようになっていた。あいつは賞を獲って変わったが、山元を失うことで元に戻った。お互いを想うあまりに二人の関係は終わった」
「辛いですね…」
「そうだな。見ていられなかった」
きっと雑渡さんは必死だった。私が雑渡さんの全てを欲しかったように、雑渡さんはシナさんの全てが欲しかったんだ。私もマスターが迎えに来てくれなかったら雑渡さんを失っていた。私が幼かったように、雑渡さんも幼かったのかもしれない。
恋って難しい。相手に気持ちをぶつけ過ぎても駄目になるし、遠慮し過ぎても駄目になる。適切な距離を保ちながらもお互いを深めていくなんて、私にできるんだろうか。
「…私、雑渡さんが好きです」
「そうか」
「マスター、私たち…まだ、やり直せると思いますか?」
不安をマスターにぶつけたら、マスターは薄く笑った。
「お前はこれから雑渡とどうしたいんだ。それを決めるのは私ではない」
「私は…」
「雑渡が好きなのだろう?だったら、道は一つしかないのではないか?」
新しく珈琲を注ぐマスターは静かに言った。お前なら雑渡の「特別」になれる、と。
背中をゆっくりと、だけど力強く押されたような気がした。私が好きなのは雑渡さんで、側にいたいのも雑渡さん。うまくいくかどうかではなくて、私の心に素直に従えば答えは自ずと見えて来た。
「私、シナさんと話をしてきます」
「そうか」
「あの…その、また…」
「ああ。山元と話が済んだらまた戻ってこい。お前がいないと煩い小説家の常連がいるからな」
マスターと目を見合わせて笑った。
私は恵まれている。優しい人達に囲まれて今を生きている。例え失敗しても、受け入れてくれるような、そんな素敵な人達に出会えたことに感謝して、私はシナさんの元へと走った。
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