呆然としている雑渡さんにお茶を淹れた。おめでとうございます、と言っても特に返事はない。
雑渡さんの本が発売されて一ヶ月。二度目の増版では部数を増やしたのに未だに品薄状態、ドラマ化のオファーも既にきているし、続編を望まれていた。作者である雑渡さんのインタビューのオファーも何社からもきていて、ここ最近ずっとバタバタしている。さらに、私は直木賞と芥川賞くらいしか知らなかったけど世の中には文学賞が何種類もあるらしく、雑渡さんの新作は二つも受賞していた。
売れる作品に仕上げると病院で言っていたけど、まさかここまで売れるとは思っていなかったのだろう。雑渡さんは呆然とニュースを見ていた。
「インタビュー、受けるんですか?」
「…ううん」
「苦手そうですもんね。でも、本当によかったですね、雑渡さん」
「うん…」
雑渡さんは今の状況を喜んではいないようだった。シナさんの時と同じような結末になることを恐れているのかもしれない。
きっと、これからたくさん印税が入ってくる。仕事に追われて二人で過ごす時間は今よりも減ってしまうかもしれない。だけど、私たちは何も変わらない。そんな想いを込めて、私は雑渡さんの手を握った。
「今日はお休みだから、のんびり過ごしましょうか。それとも、お仕事しますか?」
「…それより、欲しい物とかないの?多少高くても、買ってあげられるよ」
「もう雑渡さんには買ってもらいましたから」
「え?」
「雑渡さんと一緒に生きていくことが出来る権利です。2億円もしたんですよ?」
私がいたずらっぽく笑うと、呆気にとられた様子だった雑渡さんも笑ってくれた。
元々私は好きでもない人と生涯を共にする予定だった。なのに好きな人と一緒に過ごすなんて贅沢を雑渡さんに与えてもらったのだ。これ以上の贅沢をしたらバチが当たる。
ぎゅっと雑渡さんに抱き着くと、雑渡さんは優しく抱き返してくれた。
「なまえちゃんが側にいてくれてよかった」
「雑渡さんが側にいてくれてよかった」
雑渡さんはにこっと微笑んでから、そっと優しいキスをしてくれた。初めて会った時はこんな関係になれるなんて夢にも思わなかった。ただ話が出来るだけで幸せだった。こうして雑渡さんに肩を抱かれることは夢のまた夢だったのだ。そんな素敵な日々をくれる雑渡さんに私が出来ることは何だろう。
私がぼんやりと考え事をしていると、雑渡さんは気まずそうに言った。
「もしなまえちゃんがよければ、なんだけどさ…なまえちゃんのことを書いてもいいかな?」
「私のこと?」
「うん。私小説でなまえちゃんと出会ってからのことを書いてみたいなぁってずっと思っていて…でも、もちろんなまえちゃんが嫌なら書かないよ?」
私のこと…かぁ。雑渡さんと初めて珈琲館で会った時、寂しそうな背中をした人だと思った。気付いたら私は雑渡さんを好きになっていたけど、雑渡さんはどうだったんだろう。きっと雑渡さんなら素敵なお話にしてくれる。今のこの幸せな気持ちを文字にして残してくれる。
「読んでみたいです!」
「本当?よかった」
「楽しみにしていますね」
「うん」
あ、でも私の失踪事件は恥ずかしいから書かないで下さいね?と雑渡さんに念を押したら笑われた。
シナさんと生活していたことが今となっては懐かしい。しばらく会っていないシナさんに雑渡さんに内緒で久し振りに会いに行ってみよう。そう密かに決めて、私は冷めたお茶を淹れ直した。
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