なまえちゃんと喧嘩した。もう何日も口をきいていない。家でも外でも会うのに、無言のままだ。
何が原因だと照星に聞かれたけど、原因らしい原因はない。多分、どちらも疲れていたから言い合いになっただけ。ほんの小さな言い合いから、こんな大きな喧嘩になるとは思ってもみなかったし、それはなまえちゃんも同じだろう。ただ、仲直りをするきっかけを掴みきれずに何日も経ってしまったから気まずいというのが今の私たちの状況だった。
今日も無言のまま出勤したなまえちゃんを追うように私も珈琲館へ出向いた。いや、元々私は珈琲館を仕事場としていたのだけど。


「あれ?なまえちゃんは」

「今日は研修だ」

「研修?何それ」

「都内で珈琲の淹れ方の研修会があってな。参加させた」

「ふーん…」

「お前、30を過ぎてくだらん喧嘩をするのはやめろ。見ていて痛々しい」

「あのね、私だって好きで喧嘩しているわけじゃないんだけど」


仲直りしたいさ、そりゃあ。一緒にご飯を食べて、一緒に眠りたい。正直、寂しい。
何度かなまえちゃんに話しかけようとしたけど、なまえちゃんは私を避けるから進まない。正直、そんな態度を取られたら私だって腹がたつ。研修会があるなんてなまえちゃんは一言も言っていなかったし、それを照星から聞かされるのも実に不快だった。


「御託を並べていないで早く迎えに行ってやれ」

「何で私が」

「会場はお台場だぞ?お前ら、今度行こうとか言っていなかったか?」

「………」

「仲直りするまで帰ってくるな。何度も言うが、見ていて痛々しい」


痛々しい、ね。「夫婦喧嘩は犬も食わない」と先人が言ったように、確かに見ようのいいものではないだろう。
今から向かえば終わる時間に間に合うから、と飲みかけの珈琲を下げられ、追い出されるように珈琲館を出た。お台場…確かに今度夜景を見に行こうってなまえちゃんと話をしていた。だけど、もし断られたらどうしよう。またいつものように避けられたら、もう修復出来ないかもしれない。
自然と足が向くとはよく言ったもので、私はなまえちゃんを迎えに行かない言い訳をいくつも考えながらも電車に乗っていた。大きな会場の前で、すれ違う可能性など考えずになまえちゃんと喧嘩した夜のことを思い出していた。どんなに思い出してみても、何故喧嘩をしたのか思い出せない。ただ、なまえちゃんを泣かせてしまったことだけが頭から離れなかった。


「…雑渡さん?」

「…お疲れ様、なまえちゃん」

「どうしたんですか?こんな所で」


此の期に及んで「取材で」と言おうとしたけど、やめた。酷いことを言われたけど、私も酷いことを言った。お互い、感情的になって言っただけなのだろうけど、それでも私は大切な女の子を泣かせてしまったのだ。
久しぶりになまえちゃんと会話らしい会話をした私は意地になることをやめて謝った。なまえちゃんにとってみれば予想外のことだったらしく、驚いたような顔をした後、泣きそうな顔をされてしまった。


「…本当はずっと寂しかったんです」

「うん、私もだよ」

「ごめんなさい、雑渡さん。その…これからも一緒にいてくれますか?」

「もちろん」


そっと小さな手を握る。なまえちゃんに触れるのは久し振りだったからか、初めて手を握った時のようにドキドキした。
お台場なんて詳しくないし、私のような人目につく風貌の男と一緒にいてなまえちゃんは楽しいのだろうか。こうして二人で出掛けたことなんて数えるくらいしかないのに、なまえちゃんは私なんかでいいのだろうか。そんなことを考えていたら不意に喧嘩をしたきっかけを思い出した。


「恋人が私なんかでいいの?」

「…またその話ですか」


私が喧嘩の発端を蒸し返したらなまえちゃんは嫌そうに溜め息を吐いた。
あの時、私は言い間違った。照星のように気の利かない男でごめんね、なんて子供っぽい嫉妬を含んだ卑下をしたけど、本当は言いたかったのはそんなことじゃない。少なくとも、泣かせたり怒らせたりしたかったわけではない。


「私の側にいてくれてありがとう。なまえちゃんと一緒にいられて私は幸せだよ」

「き、急にどうしたんですか…」

「さて。日が暮れるまでまだ時間があるから街を見て回ろうか」


過去に戻ることは出来ない。喧嘩をしたという事実は残るけれど、あの時に本当は言いたかったことを伝えることは出来る。なまえちゃんとなら、たくさん喧嘩をしたって何度でも仲直り出来る。立ち止まらずに未来に向かって歩き続けられる。
翌日、なまえちゃんと手を繋いで珈琲館へ行った。照星に「いい歳して見せつけるな、痛々しい」と昨日と同じように毒を吐かれたけど、昨日と違って笑っていた。
そしてまた、穏やかな空間で一日が始まる。
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