珈琲と葉煙草、原稿用紙と万年筆さえあればいい。ずっとそう思っていた。この見た目だし、歳だし、職業も不安定だし。わざわざ私を今更選んでくれる子がいるとは思えなかった。
家と珈琲館を往復する日々の中で出会う異性などマンションの清掃婦くらいのものだった。時折、珈琲館の女の子が物珍しそうに私を気に掛けてくれたけど。
「お前、もう誰とも付き合う気はないのか?」
「付き合うって、もうそんな歳でもないでしょうに」
「先日の件だが、昨日解雇処分にしたから安心しろ」
「…そう」
今回のウエイターは愛想が良く、よく喋る子だった。私の素性を随分と熱心に聞いてくるとは思っていたけど、まさか家まで付いてくるとは思わなかった。
「迷惑を掛けた」
「こっちこそ、また一人にしてしまって申し訳ない」
「そう思っているのなら、いい加減過去と向き合え」
「過去?」
「山本シナのことはもう忘れろと言っているんだ」
「何を今更…」
シナとの関係はもう何年も前に終わっているのに。
小説家になって大きな賞を貰った。これで幸せになれると思ったんだけどなぁ。まさか直木賞を取るだけでミリオンセラーになるなんてね。だけど世間からは次作を期待され、金銭感覚は次第に鈍っていった。…やめよう。昔のことはもう何も思い出したくない。
重い溜め息を吐いてから珈琲を口に含むと、ドアの鈴が静かに鳴り響いた。カウンターの方へ来て、私に会釈をしてから彼女は幾つか離れた席に座った。
そこから先のことはあまり覚えていない。ただ、彼女に惹かれたのは間違いなくこの日のことだった。それが恋だと認めるのはもう少し後のことだったけど。
なまえちゃんに会うのが楽しみだった。大した話をするわけでもない。それどころか彼女の年齢も職業も知らない。恋人がいるのかさえ私は知らないというのに、気付けばなまえちゃんの笑顔を見て、取り留めのない話をすることが私の日課であり生きがいになっていた。だけど、この時はまだなまえちゃんと付き合いたいなんて思っていなかった。というより、彼女の心を私のような人間が得られる日が来るとは思わなかった。
「どうしてですか?」
「歳だし」
「その分、同年代にはない魅力がありますけどね」
「顔半分が包帯で覆われているような見た目だし」
「つまり雑渡さんは私が見た目で判断するような子だと思っていたんですね?」
「いや、そうじゃなくて、えっと、一般論として…」
慌てて否定しようとした私の空のカップを下げながらなまえちゃんは微笑んだ。
「…私の初恋は雑渡さんなんです。だからこうして側にいられて私は幸せです」
「初…えぇ!?」
「だから、自分を卑下しないで下さい。雑渡さんは私の大切な人なんですから」
予想だにしていなかったことをなまえちゃんに言われて動揺していると、照星が買い出しから戻って来た。
「なんだ。顔が赤いぞ」
「…そう?」
「お前も」
「…何でもありません」
「…まぁ、いいが。なんなら早退しても構わないぞ」
「そういうことならなまえちゃん、一緒に帰ろうか」
「え。いや、その…」
「その分、明日働いてもらうから今日は休んでおけ」
照星に気を利かせてもらってなまえちゃんを連れて珈琲館から出た。まだ15時だ。
困ったような顔をしているなまえちゃんの手を握って駅の方へと足を進める。
「雑渡さん、どちらへ?」
「下り電車に乗って花見に行こうよ。ハナミズキが綺麗な所を知っているんだ」
「ハナミズキ?」
「とても綺麗な花だよ」
なまえちゃんに大切な人なんて言われて、ましてや私なんかが初恋の人だなんて。そんな風に誰かから想ってもらえる日が来るなんて、あの頃は思わなかった。ずっと一人で生きていく、そう信じて疑わなかった。
なまえちゃんが私を救ってくれた。過去に囚われていた私を解放し、私の全てを受け入れてくれた。その想いに応えたい。私がなまえちゃんに出来ることは限られているけど、彼女と共に季節を巡り、喜びも悲しみも分かち合いたい。
出来ることなら、永遠に。
「わぁ…」
「よかった。満開だね」
「凄く綺麗…雑渡さんと一緒に見られて嬉しいです」
「うん。私もだよ」
本当に嬉しそうに微笑むなまえちゃんがあまりに可愛くて、そうっと口付けた。白いハナミズキの花びらが風で舞った。私の動悸を誤魔化すように音を立てて。
来年もなまえちゃんと此処に来たいなぁ。再来年も、その次の年も、ずっと。あぁ、恋は難しいな。自分の気持ちを相手に伝えることが怖いだなんて、そんな気持ちはとうの昔に忘れてしまっていたはずなのに。
「ねぇ、なまえちゃん…」
こんな日が来るなんて思わなかった。思えなかった。だから今がとても幸せだ。
どうか、私を受け入れて。私はなまえちゃんがいないと駄目なんだ。陳腐な言葉だけど、愛してるんだ。
「私と結婚して下さい」
ハナミズキ
花言葉:永続性、返礼、私の想いを受けてください
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