兎の昼寝

電子音で目が覚めた。
意識と共にのろりと上げた瞼を擦りながら、意思を持つことを拒むように緩慢な動きで右手が周囲を探る。ほどなく、ソファの隙間に落ちていた携帯を手繰り寄せ見もせずにアラームをリセットした。

薄く息を吐く。

電子音が消えれば静寂が、寒さと共にのし掛かってきた。
生え際をコリコリと掻けば、指先の冷たさが不快だ。仕方なしに、上半身を起こす。とうに電気が消えた室内は、磨りガラスより侵入した街灯の光で夜の帳に影を深める。今時珍しい箱型テレビ8が、ざあざあと音をたてて抗議していた。

どうやら、テレビを観ながらソファで寝てしまったらしい。

ふわぁと欠伸をこぼしながら、握りっぱなしの携帯を見る。3:59。やばい、そろそろ出なくては。
二人掛けのソファより立ち上がる。身体中がバキバキ音をたてた。油を差し忘れた自転車のようだ。慣れた様子で手早く乱れた髪を整える。顔を洗おうと歩きだし……、結局、テレビの電源を落とすだけでやめた。季節は冬。寝起きにこの寒さのなか冷水を顔面に叩きつける勇気はない。己の怠惰を季節のせいにして、センターテーブルに転がるグロスを手に取り寝起きに乾いた唇を染めた。伸ばすように唇を動かすも、グロス自体も寒さに硬さを増していてなかなかうまくいかない。
冬は面倒だなぁと、ぼんやり思いながらテーブルに散らばるチラシと鍵をかき集めた。







まだ明けない夜に、鍵を閉める音が響く。暗い踊り場で息の白さが眩しい。ザリザリと砂っぽい階段を下りれば外は更に寒く、頬の産毛が凍るようだ。どんどん、夜がキツくなる。スーツの上に羽織ったコートのポケットに鍵を捩じ込み、チラシの束を抱え直せば、


「おっとなになーれ!おっとなになーれ!」


突如として降ってきた声にびくりと震えて、チラシを落としかけ慌てる。やたらはっきり聞こえたそれは、己が下りてきたビルの隣。大家さん宅からのようだった。
思わずまじまじと見上げるが、どこも明かりは消えていて住人が就寝なうだと察せられる。
なんだったんだろうか。空耳?
いやいや、あんなにはっきりした空耳なんてあるかーい。
自身にツッコミながら、かの家に背を向ける。
はて。大家さん宅はみな、成人していたような…。
首をかしげながら、行く先々のポストに刺さる朝刊の、その中心へチラシを突っ込んでいく。それ単体で入れるより、朝刊と共にあったがほうが読んでくれる確率が高いと気づいて早三年。
だがしかし、この寒さになれるかと言ったらまた別だ。
ブーツ欲しいな。
人一人入りそうな大きな袋を担いだ男とすれ違う。
前の成功料が振り込まれたらブーツ買おう。 シャツも買いたい。靴下も穴があいてたなそういや。
隣に大家が住んでいる少し古びたビル。その二階で事務所を構えるいわゆる探偵といった職業の彼女ーー…姓は海野、名は鯖江というーー…は、次から次へと郵便受けという郵便受けに自身の売り込みチラシを突っ込みながら思った。









それに気づいたのはパチンコ店の近くにある自販機の前であった。
この自販機だけ未だにドリンクが百円なので贔屓にしている……、脱線した。なけなしの百円で購入した熱々の缶コーヒーに口をつけたあたりで気付いた。
しまった、と。
忘れてきたのだ。数日前から探しているホシ(猫科)の写真を。飼い主から預かったそれをいつもはスーツのポケットに入れているはずなのだが、そういやクリーニングに出すからとデスク置いたままだった。
面倒だなぁと缶コーヒーの縁をかじる。特徴は覚えている。だが別に動物好きと言うわけではない。間違える可能性もある。仕事である以上、「間違えました」では済まされない。信用第一がこの職業の命だ。
もう一度、コーヒー口に含む。ミルク増量とか嘘だろと思うような苦さが舌に広がった。
チラリと腕時計を見る。6:16。この時間ならおそらく在宅しているだろうが、朝の準備に追われているはず。チラシはすでに配り終えた。すぐホシの捜索にのりだそうと思っていたが、しょうがない。
いったん、戻るか。
寒さに背を丸めながら歩く。この時間でもまだ空は墨を流したようで、街灯は煌々とアスファルトを照らしている。
高架線も中央に差し掛かれば、すぐ下に昼間はわりかし賑わう釣り堀が墓場のように静かだ。水面がスナック凡人の看板を鏡のように映して、端の方がキラキラ輝いて見えるのは、氷が張ってるからだろうか。
もう、そんなに冬が深まったかと感慨深げに見下ろしながら先を急いだ。











寝床兼事務所である三階建てのビルが見えてきた辺りでほっと息を吐き、海野はギクリと足を止めた。まだ薄暗いがビルの横、大家宅の玄関前に人影をみとめたからだ。
四角くないポストの隣、飾られた盆栽の前で蠢く影。あれはーーー…、


「おや、鯖江ちゃんじゃないか」


やってしまった。
避け続けてきた人物とがっつり目があったのだ。