終わりを知らない子どもたち

 ゲージュツは立派なものなのだと誰が言い出したのか、ナマエは豪奢な額縁をのろのろと目線でなぞりながら昔の人間に想いを馳せた。
 遥か古代、自分のご先祖は、ラスコーやアルタミラの壁にウシの絵など描きはしただろうか。無邪気なものだ。ナマエは自分が今朝、イルーゾォからの電話をとりながらなんとなしにペンを遊ばせてできあがった代物を思い出して鼻で笑った。それは、一度いい加減に引いた線をどうにかしようと引いた線がまた別の線を蹴飛ばすなどして、とにかく誰かに見せてやりたいぐらい大変出来が悪かったのだった。ピカソの絵と私の絵、何が違うんだ。ナマエは強くそう思った。

「私のほうがうまく描けるな」
「ハァ?」

 先のほうで何やらやっているイルーゾォが、声だけを誰もいない館内にわんわん響かせた。

「ひとり言だし……」
「おまえ、さては芸術のわからん女だな」

 声を聞いただけで、イルーゾォが勝ち誇ったような顔をしているのがわかった。
 ではおまえのような性格のねじくれた男は、ゲージュツ様とやらのなんたるかを本当にわかっておいでですか?ナマエは心の中で軽やかに言い返して、額縁の値踏みにも飽きたので、イルーゾォがしゃがんでいるほうへ歩み寄った。

「まだ?」
「先に帰ってていーぞ」
「……やだ」
「めんどくせー女だな」

 しゃがんだり立ち上がったり横に回ってみたり、いろんな角度からパチパチ写真を撮るイルーゾォのほうが、ナマエからすればよほどめんどくさいヤツであった。
 ナマエはこの絵の名前も作者も知らないし、ナマエは文字が読めなかったから、絵の下にある金色の札に書いてあるのはただの暗号だった。絵も文字もわからないとくれば、これはもう宇宙人と話しているのと同じである。未知との遭遇。ナマエは、ニュースで見た、現代人に発見された洞窟で文明的なライトに照らされるウシやシカのほうが、よっぽどわかりやすいし立派だと思った。

「だってリゾットに必ず私と一緒に帰ってこいって言われてるんでしょ」
「はん、言われなくたってそうするってんだよ」

 リゾットの名前を出すと、イルーゾォは下唇を突き出してわかりやすく拗ねた。

「何がいいのさ、こんなヘッタクソなの」

 二人が立っている場所の西側は現代アートの展示になっていて、そっちまで見てしまうと、ナマエはいよいよわからなくなった。
 仕方がないので、イルーゾォの足元には小さな手鏡が落ちていて、持て余したナマエはそこを覗き込んだ。だが、今は真っ暗だ。

「誰かの靴の底かな……あっ!」

 パッと鏡面が明るくなったかと思うと、すぐに見えたのはストッキングに覆われた白い脚だった。その脚もすぐに動いて、まるで下着を見せつけるように鏡の真上で粘ってから、今度は浅い青の履き古したジーンズが現れた。床と耳がくっつくぐらい顔を鏡に近づけると、後ろのほうに遠足で来たらしい子供の顔がたくさん見えた。
 なるほど、これはエジプトの壁画に似ているかも。でも、ヘタクソが描いた絵みたいに不細工な子供ばかりだな。とナマエは思った。

「うーん……よく見えないや」
「何やってんだよ、バッチいな……ほら、立てよ」

 イルーゾォは左手のインスタントカメラを胸元にしまいながら、ナマエに右手を差し出した。大きな手に大理石の床で冷やした手を重ねてぐいっと引っ張った。イルーゾォはちっともよろけずに、ナマエをしっかりと立たせて、手をつないだまま屈んで手鏡を取り上げた。

「大体の女は、こうやって誰もいないところへ連れてくるとヘラヘラ喜ぶんだがな。不細工な顔して外の人間見てるのはおまえくらいだぜ、ナマエ」

 イルーゾォは馬鹿にしたような顔をしながら、肩をすくめる。ひざを払うナマエの様子を横目でうかがいながら続けた。

「おれだって絵は別に詳しかねーけどよ……なんかスゲーってことは分かる。だが女ってのは普通、アレだな……男が隣にいると、そいつに合わせちまうよな」
「はぁ……」
「で、おれはそいつらの媚びた顔を見て、それはそれで満足だ」
「あら、ごめんあそばせね。思ったような反応じゃなくって」
「くっくっく」

 ナマエは、たかだか同い年ぐらいのイルーゾォが女のすべてを知ったような言い方をするのがおかしくて、空いた手で頬をかいた。自分だって、イルーゾォのいいと思うものを同じ気持ちで眺めたいけれど、学もなければ感性が貧相であることにも自覚があった。知ったかぶりしてピカソを褒める自分をイルーゾォに見られるのが恥ずかしいのかもしれないとナマエは思った。

「……シニョリーナ、君はそのままでいいんだぜ」

 イルーゾォは少し考えてから、ナマエの頬に手を添えて目線を合わせた。吊り目が少し緩んだかと思うと、明るいブラウンの瞳がナマエを見つめながら、血のりの付いた手の甲にそっとキスをした。長いまつげに誘惑されるのがなんとなく悔しくて、ナマエは目をそらし、壁のキュビスムを見つめた。

「カッコつけすぎだよ。帰ろう、イルーゾォ」
「まあ、そう照れるなよ。二人っきりだぜ、ここなら」
「はいはい」

 回されそうになった両腕をすり抜けて、ナマエは二歩、三歩とイルーゾォから離れる。イルーゾォは心底気に入らなさそうにため息をついて、ポケットに手を突っ込んだ。

(だって、他の人と同じは嫌だな)
 ナマエは振り返って歩き出す。イルーゾォは後ろから黙ってついてきた。
 わけのわかっていない大衆にちやほやされる絵画のように押し黙って、ただそこにいて欲望を受け止めることは、ナマエにはできなかった。だって、イルーゾォがもし自分のことを特別だとそう思っているのなら、彼がただの女を見る目は見たくない。もっと誠実な眼差しでナマエの精神を見つめて、本心で同情しながらあごについた血を舐めとってほしいと考えて、ナマエは眉をしかめる。
(人の道から外れているくせに、こうやって欲望を抱いてる私を神様が見ていたら、きっと私は地獄に落とされる)
 ピカソがひどく恋愛にとらわれていたことを国営放送のドキュメンタリーで見たことがあったナマエは、彼もこんなことを考えたろうかとふと思った。
 思ったが、すぐにピカソは人殺しなんてしていないことに気が付いた。ゲージュツと人殺しを同列にして考えるなんて、なんて私は麻痺しているんだろう。だが、大してショックではなかった。彼女らのいままでを考えると、こうして大衆に交われない生活を送ることは当然の帰結だった。しかも、地獄がどんなに恐ろしいところだと伝え聞いても、自分の目ん玉で、テレビでもなんでもない生きている人間の命乞いを見ていると、こっちのほうが断然ツラそーだと思うことのほうが多かった。

「わかった。悪かったよ、おれが。おれからは何もしねーって」

 ナマエの死んだような脳みそにビリッと電気が走ったようだった。
 不思議なことだが、イルーゾォらしくないことが、大変イルーゾォらしいように感じられて、ナマエはついつい振り返った。イルーゾォはさっきまでよりも少し離れたところで、手を後ろに組んでぴっちり立っていた。大きな体が小さく見えて、ナマエの不機嫌顔がほんの少し緩む。
 手ごたえを感じたとみえるイルーゾォが、小股でじりじり距離を詰めてきた。もっとおかしくなって、ナマエはついにふふっと声を出して笑った。

「あ……笑ったな、てめー……こっちは必死だぜ」
「ふふふ、しょーがねーなぁ」

 ナマエは、これは私のせいじゃない、イルーゾォが私に触りたがっているから、仕方ないんだと自分に言い訳をした。神様、人を殺す人でも人間だから、絵や人を愛する気持ちは持ってしまうのは仕方がないと思います、だから私とイルーゾォを地獄につれていかず、ちゃんと救ってください。
 でなきゃ、あんたが私たちに心を与えたのが悪いんだ。
 いつものことだった。こうやってお祈りが済んでしまえば、あとはナマエがぐいっと近付いて、イルーゾォの胴体に手を回すだけだった。イルーゾォは兵隊のように手を組んだまま、真下に見えるナマエのつむじをちらっと見ている。ささやかな、触れるだけの抱擁とはいえ、ナマエの胸元でイルーゾォのインスタントカメラがごつごつしているのがわかった。

「これで明日も、お仕事がんばれるね。イルーゾォ」
「ま、おれらならがんばらなくたって殺せるけどな」
「……」
「……がんばれるよ、愛してるぜ。これでいいか?」
「あはは」

 今更こんな純粋ごっこになんの意味があるのか本人たちにもさっぱりわからなかったが、それでも二人でだらだらと実りのない恋愛をするのはたまらなく楽しかった。そして、イルーゾォの鏡の中は、そうするのにあまりにもうってつけの場所なのだ。時が止まった鏡の世界にいると、死の匂いも漂っては来なかったし、仲間たちもイルーゾォの意思で現れない。それに、薄暗い美術館はまるで洞窟の中のようだった。

「明日のしごとが楽しみだなぁ」

 ナマエがそう単調に言うと、一瞬間をおいて、イルーゾォの手がそっとナマエの頭に触れた。

「何もしないって言ったじゃん、嘘つき」
「うるせぇ、黙ってろ」

 ナマエはそれ以上何も言い返さず、イルーゾォの言うとおり黙った。イルーゾォの声色は静かで優しかったが、どこかピリッとしていて、なにか考え事をしているようだった。
 男心はわからないなぁ。と心の中でぽそりと漏らしたが、血の通うイルーゾォの体が暖かくて、ナマエはこの快楽に身を委ねることにした。いつかこの体に傷がついて冷たく真っ青になってしまっても、ナマエはイルーゾォのことをちゃんとイルーゾォと呼んでやろうと思った。



2019.03.02

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