月夜の狩り

 鳴る電話にナマエが叩き起こされた午後四時、プロシュートに外へ呼び出されたのは、久しぶりのことだった。ナマエらの仲間が普段行く近所のバールとは違う店だった。かつて、直接お互いの住まいにやましいことをしに行くことはよくあったが、今も昔もそうやって二人きりであたかも友人みたいな関わりを持つことはあまりなかったので、ナマエは面食らった。
 行く、と率直に言わないナマエに、プロシュートは無理を言わなかった。
「ペッシは?」
「大人の話すんのにマンモーニは邪魔だから、うちに返したよ」
 プロシュートの冗談にナマエは固まった。そんなナマエを放ったままプロシュートは笑って、まあ気が向いたらでいいから、とさっぱり言ってさっさと電話を切ってしまったのだった。電話をおいてしばらくの間、ナマエは悩ましげな顔で黙っていた。
 一人カウンターでエスプレッソをちびちびやる想像上のプロシュートが、なんだか無性に哀愁を漂わせていた。そんな孤独なプロシュートを見ることになるのは久しぶりだな、とナマエは思った。引き止める者がいなかったので、ナマエは出かけることにした。

「おう、ナマエ」
「チャオ」
 プロシュートのいるバールは隣町にあった。古めかしい元の看板を活かしてシックな装飾がしてあるようなしゃれたバールで、プロシュートが好きそうな店だとナマエは思った。夕飯前の時間帯で、今はそこそこ賑わっている。
 プロシュートはカウンター越しに店主と打ち解けたらしく、綺麗な口を豪快に開けて笑っているところだった。満足そうな顔をナマエのほうに向けて手招きする。プロシュートが想像よりもずっと一人の夜を楽しんでいて、ナマエは騙されたような気になって物陰で一人眉をひそめた。
「……ずいぶん飲んだね」
 プロシュートの白い頬が真っ赤に染まっているのを見てナマエはそう言った。いつもはぴっちりと整髪料で整えられている前髪も、少し乱れて顔のほうへ垂れてきている。目の前にはナマエのぶんのワインがもう置いてあって、これはプロシュートが先に注文しておいたものだった。彼のすぐ隣には、ナマエにかけるのに使ったらしい、これまたレトロな黒い電話機があった。
「チャオ、シニョーラ」
「チャオ、カプチーノで」
 孤独なプロシュートの相手をしてくれていた話のうまい店主は、おずおず座ったナマエに愛想のいい笑顔を向けて下がっていった。
「カプチーノだ?ナマエ、ペッシに似てきたな。マンモーナめ」
 プロシュートがやにわにナマエの腰を抱き寄せて、顔を顔にぐりぐりくっつけた。ナマエは、熱い頬がくっついてくると、ホルマジオに抱かれる猫の気分だった。
 店主はすぐにチンバリのエスプレッソマシンに取りかかっていた。エスプレッソを落とし、その間にミルクを泡立てると、みるみるまにナマエのカプチーノができあがる。
「聞いてた通り、美しい女性だね、プロシュート」
「はあ」
「そうだろ、え?おお、ベッラ・ミーア・フィアンマ(いとしい人よ)」
 プロシュートの声が大きいので、向かいのカップルが好奇の眼で二人を見た。プロシュートが、ナマエの頬に思い切り音を立てて酒くさい接吻をしたところだった。あちらの二人も酔っているらしく、今夜は酔っ払いが多いなとナマエはうっとうしく思った。
「ごゆっくり」
「……グラッツェ」
 店主はウィンクしてカプチーノを渡すと、二人の顔をさりげなく見比べてからすぐに離れていった。
「……ペッシがいないから止めるのがいなくて飲み過ぎたのね」
「誰かさんにずいぶん待たされてな」
「私のことそんなふうに思ってたなんて初耳」
 ナマエがとげとげしく呟くと、プロシュートがむっと口を尖らせて隣を見てから、残りの赤ワインをあおった。
「そんな減らず口叩けるのも今のうちだぞ」
「いつから飲んでるの?」
「さぁ……」
 こんなプロシュートを放って弟分のペッシが帰るのはとても珍しいことで、以前まではこんなプロシュートのお守りも自分の役目だったことを、ナマエは久しぶりに思い出した。
 プロシュートはけして中毒者のたぐいではないが、浴びるほど飲んで前後不覚になることが数年に一度、地震と同じぐらいの頻度であった。
 女のナマエが一回りも二回りも大きいプロシュートの体をせっせと働きアリのようにアパルトメントまで運んだこともあった。その時は、二階のプロシュートの部屋のソファまでやっとの思いでたどり着いて、ぐったり垂れた手にコップを渡そうと押し付けると、プロシュートはそんなものいらないと言ってナマエの腕を引いた。
 そこまで思い出したところで、プロシュートがちゃっかりナマエのワインにも手を出した。
「もう飲まないほうがいいんじゃない」
 プロシュートはちらっとナマエを見た。見せつけるようにワインをあおってから、「リゾットはおまえになんの用だった?」と尋ねた。
 用件とはそのことであったかと、ナマエはこの場へのこのこと現れたことを大いに後悔し始めた。
「あんたには関係ない」
「おい」
 プロシュートはそれまでの穏やかな表情をころりと変えると、苛立った声でナマエをとがめた。
「……言いたくない」
「はん、少なくとも仕事の話じゃあねーようだな」
「恋人でもないのに何妬いてんだか」
 ナマエの買い言葉に、プロシュートは珍しく黙り込んだ。
「ビールもらえます?」
 店主は頷いて、他の客にエスプレッソを出してから、こっちにモレッティのビールびんをよこした。まだなみなみ残ったカプチーノの隣に、ナマエはなんとなくそれを並べたりして手元を遊ばせる。プロシュートがその間ずっとだんまりなのがナマエにとってはかえって不気味だった。
「そんな話するために呼んだの?」
「……おい、おれもビール」
「まだ飲むの?」
「まだ全然酔ってねー、見りゃわかんだろ。何笑ってんだ、バカ」
「どうして私がリゾットに会ったことをプロシュートが知ってるわけ?」
「さあな」
 ビールはやはりすぐにプロシュートの元にも届いた。
「ここだけの話、あいつはおまえに関してはマジに、予測のつかねぇ動きをしやがるからな……」
 プロシュートはごにょごにょと口の中だけで独り言のように言って、頬杖をつきながらナマエを見ている。
 ナマエは、プロシュートの顔を正面から見つめるのをいつも避けていた。勘のいいプロシュート相手に心理上の駆け引きを挑みたくなかったからだ。ごまかすように横顔だけを見せて、並んだカプチーノとビールを無意味に見つめた。
 プロシュートはまた、唐突にナマエの頬にキスをして、すぐ離れた。これが、こっちを見ろという合図だったことがあるのをナマエはふいに思い出した。なんと言えばいいか迷って、結局は黙ったままカプチーノとビールを交互に飲み進めるはめになった。
「普通でしょ、誰にも一緒じゃない、リゾットは」
「そう思ってんのはおめーらだけだろうな」
「そんな、くだらない……」
 ぞわぞわして、胃のあたりが重たく感じた。プロシュートが腹を立てているのかもしれないと思うと、大人になったはずの私は反抗期の子どものようにそわそわしてきて、ビールをあおった。
 プロシュートが、空いた手を沈黙で持て余したのか、ナマエの腰にまた手を回した。
「あんまりくっつかないで」
「いまさらなんだよ」
「何か嫌なことでもあったの?」
「わかってて聞いてやがんな。オメー」
「……わからない。プロシュートはわかりにくい」
 プロシュートは鼻で笑って横目で彼女を見た。アイツのどこがわかりやすいんだよ、と目が言っていた。
「そりゃ、リゾットは大したヤツだ。信頼できる男でおれは好きだよ」プロシュートはタバコをくわえて続けた。「だがおまえのこととなれば話は別だ、ナマエ」
 ゆっくり言い切ってから、吸っていーか。とプロシュートは一応尋ねた。どうぞ。とだけ答えて、今度はナマエが黙る番だった。
「わかってねーな、おまえは」
「プロシュート、それを吸ったらもう帰ろう。あんたは飲み過ぎだ」
「おれがおまえを好きだってことを、本当は昔からちゃんとわかってるはずなのに」
 プロシュートは、突如舵を切ってずんずんとナマエの心の中に分け入ってくることにしたようだった。このことは、何年もずっとお互いに避けてきた核心の部分で、確かに、到底ペッシにはついてこられない話だった。
 ナマエは、喧騒がわんわん頭に響くような気がしながら、またしても以前のことを思い出していた。腕を引かれてソファに倒れた後は、オレンジの皮でも剥くように気軽に服を脱がされて、もしもその一晩が存在しなかったなら、今頃自分とプロシュートはどうしていただろうかと詮無いことを思った。今日は、やたらとプロシュートとの思い出が鮮明によみがえる日だ。そして、それはプロシュートも同じらしかった。
「おれがどんな気持ちで、おまえの仕事にくっついていってたか、おまえにならわかるだろ」
「でもあんた……あの日、私の電話に出なかった」
 しゃべると、思ったよりも自分の声が震えていた。平静のつもりで言い出したことだったので、ナマエはその後を続けるかどうか少し迷った。
「あの日ってなんのことだ」
 プロシュートは容赦なく、表情一つ変えずに尋ねた。
「あの日は……」
「話してみろ」
「私にとっては大事なことだった。大人らしくないから、あんたには言いたくないんだよ、こういうことは」
 後ろの立ち席の連中が親しげに抱擁をかわしている横で、二人は沈黙した。特にナマエは暗い顔で、カプチーノの時間が経ってしょぼくれた泡を見ていた。プロシュートはしばらくタバコをくわえたままぼうっとしているように見えたが、タバコが終わると灰皿に押し付けて、ナマエを見ないままついによく通る声で言った。
「悪かったな」
 向かいのカップルが、また二人を面白そうに見ていた。ナマエはカプチーノを飲みきり、まだだいぶ中身のあるビールびんをテーブルの上から半ばひったくるようにして、金を雑に置いて、席を立った。ところがプロシュートが、おいと落ち着いた声で呼び掛けていとも簡単にナマエの手首を捕まえてしまった。
「行くなよ。ナマエ」
 ナマエは向かいの二人に今にもソーサーを投げようかというくらい頭に血が上っていたが、プロシュートはそれを理解していながら気にも止めずそう言った。相変わらずケロリとした顔でタバコをくわえていて、ナマエにとってはそれが余計に腹立たしかった。
「離せよ、プロシュート」
「いいや、離さない。怒ってる怒ってないとかどっちが悪いとか、そんなことはちっとも問題じゃあねーよ。おれは今おまえを捕まえないと必ず後悔すると思ったから、かわいい手首を掴んだんだ」

 ナマエは、プロシュートに正面から見つめられる機会を与えたことをやはり後悔した。
 感じのいいバリスタも生意気そうなカップルも、他の客も、二人にとっては死ねばただの物体だった。そんな業界にどっぷり浸かって染まっているくせに、とナマエが自分を情けなく思うのは、一番最初にこの人殺しの男にすっかり心を寄せてしまってからずっとだった。こんなことで動揺したりさせられている自分がこっけいだったから大事に閉じ込めておいた気持ちを、今まさにこの男がほじくり返して暴いてやろうとしているのを、ナマエは拒むことができなかった。

「……場所を変えよう」
 まんまと怒りのやり場を失ったナマエがなんとか口にしたのは、事実上の降参だった。プロシュートは立ち上がって、ナマエが想像していたよりもしっかりした足取りで先を歩き始め、顔の赤みもだいぶ引いていた。外の空気がひんやりしている。ナマエはまだ未練がましく、底から数センチ中身の残ったビールびんを持っていた。

「まあ……そんなわけだ」
 プロシュートは、そう言ってナマエの言葉を待っているらしかった。歩きながら、またタバコに火をつけている。
「おまえが決めなきゃいけないことなんてないんだぜ、ナマエ」
 プロシュートがまた、逃がさないと言わんばかりナマエの手首を掴んだ。
「ちょっと」
 さっきまでリゾットに撫でられていた手が、たった今プロシュートにひっつかまれていると思うと、ナマエはなんだか、長いこと沈んでいた底無し沼から意を決して抜け出ようとやっと頭を出したら猛獣の檻でした、というような、そんな絶望的な気分だった。
 とはいえ、思えば当然だった、プロシュートは自分のものを横取りされて黙っている性格でないことを、自分もちゃんとわかっていたはずなのにとナマエはヤケ気味にビールを飲んだ。
「でも、酔いがさめたら、いつものプロシュートに戻るんだ、きっと」
「何言ってんだ、おまえ」
 子供のように言ったナマエを見てプロシュートは呆れて笑った。プロシュートのこういう顔は見ていてばつが悪くなる、とナマエは思った。
「ナマエ、おまえは昔からなまじっか気が強いんだから、少なくともおれやリゾットくらいにはしっかり甘えとけ」
「もう私、大人だから」
「オイ、うちへ帰るんだろ。こっちだぜ」
 まっすぐ進もうとしたナマエを、手首を掴んだままのプロシュートが引っ張った。よろけたナマエはそのまま肩を抱かれて引き寄せられた。ナマエが見覚えのある景色を見てうろたえるのを、プロシュートがじっと見降ろしている。
「いや、うちには来ないで」
「わかってるから、おれは今日だけはおまえを送ったら引き返してやる」
「え?」
「そんな不安そうな顔するんじゃねえよ」
 プロシュートがタバコを捨てて、青ざめた女の顔をぎりぎり逆らえない程度の力で正面に向けさせた。
「ナマエよ……おまえ、まだわかっていねーようだが」
 プロシュートは今日、ナマエの目の前でこの穏やかな顔をよくしていた。ナマエはそれを見るたび、この男はなんて恐ろしい男だと思った。
「ナマエ、そんなことは小さなことだ……。おれは、おまえに殺したいほど嫌われても離れるつもりはないし、おまえに殺されるまで死ぬつもりはないんだから」
 わかってるよな、と髪をかきあげられ、おでこに何度もキスをされた。プロシュートはまだ酒臭いし、今は燃えたてのヤニの匂いも混じっていた。人気のない落書きだらけの、月明かりだけの道路の真ん中で、ナマエは頭のおかしくなったようなことを言うプロシュートに何も言い返せず呆然と抱えられていた。一体全体何がこんなにプロシュートを執着させるのか、リゾットのことをちらっと考えたけれど、プロシュートはそれを見透かしたようにナマエの頬をつまんだ。優しい力のはずなのに、ナマエはぶたれる前の子どものように身を固くした。
「すまなかったな。おまえをここまで我慢させたことは、すまないと思ってる。おれの責任だ」
 プロシュートには、自分が何も言えない理由も全部わかってしまっているのだろうと、ナマエは思った。でもナマエのほうも、プロシュートが自分の気持ちに嘘をつくような男じゃないことだけは辛うじて知っていたので、それだけを頼りに口答えせず黙っていた。プロシュートは半分ぐらい笑って、ナマエの肩と腰をほんの少し抱きしめた。

 それきり黙ってしまった二人が歩いていくと、ナマエの家のすぐそばの路地に戻ってくるのはすぐだった。まだ大して遅い時間ではないはずなのに町はすっかり暗くなって、なぜだか誰ともすれ違うことはなかった。
 プロシュートはつま先をかつかつならして立ち止まって、ナマエを斜め上から見た。
 暗闇でタバコの火が光る。
「それじゃあ、ここで」
 酔いは夜風に当たってずいぶんさめたようだった。まるで、初めから少しも酔ってなどいないようだった。プロシュートが相変わらず優しげな顔をしているのが、ナマエのぼんやりと慣れた目で見えた。
「見ててやるから、帰りな。何かあったらすぐに叫べよ」
「……どうも」
 じゃあおやすみ、と頬にキスをした。

 結局、せっかく取り返した獲物の味見もせず巣に返すような男ではなかった。ナマエは正面からしっかりと口元に噛みつかれた。こちらを見つめる光る目にすくみあがっていると、胸ぐらを掴まれて引き上げられる。真上に体が引っ張られ、申し訳程度に腰に手が回るが、爪先はぴんと立った。息苦しくて腕を押し付けると、プロシュートはにやにや笑って舌を離して、すぐにナマエの首元に取りかかった。
 頸動脈のあたりに、声が出るほどの痛みがあった。路地に嬌声が響いても、誰の耳にも届かなかった。しっかりと血の跡をつけられて、ナマエの口から漏れたのは快感の吐息ではなく、自分の行く末を案じる嘆息だった。だから、恐ろしい男なのだ、この人は。諦めたような境地で、ナマエは壁に押し付けられてしばらくの間なすがままだった。
 胸元にまで軽く顔をうずめてから、プロシュートはナマエを突き飛ばすように解放して、ぎらぎらした目でナマエの顔をじっと見た。夜だというのに、両目が猫のようにらんらんとしていた。
「リーダーによろしく」
 プロシュートに肩をとんと叩かれて、ナマエは暗い路地から月明かりの下へ放り出された。
 黙ったまま歩きながら部屋の古びた窓のほうを見上げた。カーテンは閉まっている。ああこれは困ったことになった、と他人事のように茫漠と考えてみるも、自分以外の誰を責めることもできず、そのままとぼとぼと歩を進める以外にできることはなかった。首に夜風が吹き付けてひりひりすると、傷の形がよくわかった。
 家の真下にたどり着いて、来たほうを見ると、プロシュートの姿は路地の影の中にすっぽりと入ってしまっていた。タバコの煙の残りだけが、暗闇を背景にゆらゆらしていた。


2019.03.10

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