臆病者の火は燃える

 私たちを見て馴れ馴れしく道を聞いてくるヤツといえばせいぜい中国人観光客くらいで、ホルマジオはいつも面倒そうな顔をしながらもいたって丁寧にビーチへの出方を教えてやっていた。私が、そこまでしてやる必要はないのに、と言うと、剃り込みの跡を少しはにかみながら触った。ホルマジオは、なんと言ったらいいのか、そういうヤツだった。
 ホルマジオ行きつけのタヴェルナは、観光客でいっぱいの表通りを右に行った角、アジトのすぐ近くにあった。なんとなく喧騒から外れていて客入りの悪いのに彼は目を付けたのだ。何よりアジトからはヒールを履いた私の足でも徒歩五分圏内という行きやすさだった。店主は、最初こそ強面のホルマジオを相手に卑屈にしていたらしいが、次第にギャングの金払いの良いのを見て気をよくしたのか、専属のコックのようにホルマジオの望み通りの料理を出す理想の店になっていった。店自体は流行っていなかったが、店主とホルマジオは気が合ったらしかった。
 その、ホルマジオが密かに隠れ家としていた店が、結局のところチームの他の人間にとっても行きつけになったのは言うまでもないことだった。初めはギアッチョとイルーゾォが愚痴りながらなんやかやとホルマジオにくっついていって、メローネがギアッチョに引っ張られ、騒ぎたいだけのペッシがプロシュートを引っ張り込み、ついには今日、リゾットまでがこの蟻地獄じみた店に引きずり込まれることとなった。
「おまえはいいのか? ナマエ」
「……煙くなければ行くんだけどね」
「オレが言って聞かせてやる」リゾットは私をからかっているらしく、心なしか楽しそうだった。「ほら、行くぞ」
 この冷徹な男がレディの手を引くわけはなく、優しく口説くなんてもっての他で、静かに扉を閉めてさっさと出ていくリゾットは、さすがに私の天邪鬼な性質をよくよく見抜いているらしかった。
 不用心にも、さっきまで熱心に眺めていた書類は誰もがテーブルの上に無造作に放り出したままで、どこからその自信がわいてくるのか、男たちは煙草も吸いさしのままで夜を楽しみに行ってしまった。耳鳴りがするほど静まり返る私たちの隠れ家の中で、私はぽつんとそこにいた。
 気休めに書類をまとめ、テーブルのど真ん中に放り出されたままの名も知らぬ組織の男の写真を、たばの中ほどに押し込んだ。この写真を撮ってきたのはメローネだった。後で会った時に、文句のひとつでも付けてやらねばなるまい。
 部屋を出てカビ臭い階段を降りていくと、リゾットがまだ、ぐちゃぐちゃにゴミの突っ込まれたポストのそばに寄りかかって立っていた。こちらを見る黒い目が、ほら、とまた急かしていた。
「何?」
 驚いて尋ねた私に、リゾットが肩をすくめてみせる。
「道案内がいないとな。それとも、場所なんてとっくにご存じでしたか、シニョリーナ」
「……前をよく通るだけだって」
 リゾットはほとんど表情を変えずに、喉の奥でくっくと笑った。

 店は、案の定、まだ彼らが押しかけて数十分のところだろうに、外から見てもはっきり分かるほど煙が充満して白く霧がかかっていた。手前に追いやられた客二人が煙たそうにしているのが後ろ姿だけで分かった。リゾットは構わず扉を開けて入っていったので、私もそれに続いた。店内の光に照らされて、煙が外に漏れだしたのが見えた。
 店の中には、その手前の客以外には私たちしかいなかった。これは誰が見ても明らかに物騒な集まりで、ギアッチョの後ろではもうビンが一本割れていた。後ろの客はまだ食事の途中らしかったが、彼らが表へ逃げていくのもそう先のことではないだろうな、と私は思った。
「やっと来やがった」
 プロシュートは私たちを見るとすぐ立ち上がって煙草を灰皿でつぶし、狭い店内を細い体で縫って私の目の前まで来た。リゾットは私との口約束を破って煙草のことなどプロシュートに言わず、そのまますいっと音もなく進んで奥のほうへ腰かけてしまった。その時にはメローネとギアッチョが椅子を寄せ道を開けて、もう酔いの回ったイルーゾォが何やら叫びながらリゾットの肩に馴れ馴れしく腕を回した。
「煙草ひどいわよ。外まで煙が漏れてる」
「オメーも吸えよ。いつの間にやめた? ほれ」
「ホルマジオのをもらう」
「ナマエ! こっちこっち! その、ホルマジオの横が空いてるから!」
 ペッシがワインの瓶を携えて奥の厨房から意気揚々戻ってきたところだった。私は、つれない顔をして、目の前に差し出されたプロシュートの手をとった。
 ホルマジオは体をのけぞらせて、なんとも横柄に座っていた。ちょうど新しい煙草に火をつけているところで、組んだ脚を座ったまま片方ひょいと上げて、私にあいさつした。上げた脚をぱちんと叩くと、品悪く笑っている。
「しょーがねーなあ、おまえは。リーダー命令になるまで意地張って来ねーんだから」
「めでたくもなんともないのに呼び出されるこっちの身にもなってほしいわよ」
「ホルマジオ、お嬢さんがオメーの煙草をご所望だぜ。オレはふられちまったよ」
「そいつァー光栄ですね」
「バカ言ってないで早くして」
 ホルマジオは高級そうなシガレットケースとライターを雑にこっちに寄越した。プロシュートがライターをとって細い指で火花を起こすと、私がくわえた煙草に手を寄せた。
「いやにサービスがよくって不気味だわ」
「ああ、オレは機嫌がいいからな。おい! ペッシ!」
「なんですかァ〜〜、兄貴? あ、ナマエ、何か食べるかい?」
「ナマエはムール貝が好きだから、トマトたっぷりで煮込ませとけ」
「じゃあ五人前!」
「ちょっと」
 やたらと世話を焼いてくるプロシュートを笑って制すると、向こうもいたずらっぽく笑って、その後は向かいのギアッチョにちょっかいをかけ始めたようだった。
 ホルマジオが煙を空中に吐き出してから、勢いよく私の肩を抱いた。
「結局寂しくなって来ちまったかぁ」
「煙いったらありゃしない」
「大金が手に入りゃこの店ごと買い取って、こぉーんなにデッカい空気清浄機を十個ぐれー取り付けてやるさ」
 文句を言いながら、やはり私も店内の煙害に一役買うことになった。
 ホルマジオは身の回りの物に関して妙に凝っていて、あれやこれやと選んで買ってくる品物が何かと上等なものばかりだった。ブランドがいいというのではなく、どこで見つけてくるのか、この店と同じように、実は掘り出し物をちゃっかり手に入れてということも多いマメな男だった。その光るセンスを横目で見ながら、女というのはこういうものにやられてしまうものなのだろうかと、女のような生き物の私はいつもぼんやり考えた。
 そして彼の愛飲する煙草も、私たちの祖父世代なんかが吸っていそうなとても古い銘柄で、……私のようなライトスモーカーがハッキリと率直に言うならばこれはただマズイのだが、ホルマジオはいたくこれを気に入っていて、私までもが今夜に限ってはなぜだかこれに限る、なんとなく、という気分だった。
 天井のほうには雲のようなものができていて、確かにこれは早急な設備の見直しが必要だと考えながら、だいぶ濃いままの副流煙を上向きに吐いた。
「出てるもん早く食わねーと、ギアッチョに全部食われるぞ」
 ホルマジオは笑って向かいのほうを顎でしゃくりながらこっちを見た。
「仕事の前日に食べると動きがにぶくならない?」
「今日ぐらいはなんか入れとけって。最後の飯になるかもしれねーんだから。ヒヒ」
「はいはい」私が嫌な顔をするのを見て、ホルマジオは満足そうだ。「ま、あんたや私なら、どうやったって逃げ帰ってこられるでしょ」
 煙草の煙を吐きながらそう言った。私の妙に焦ったような気分は、煙草の煙を吸って吐くとすぐに強いニコチンが血流に乗ったのか、わずかに落ち着いてきていた。肩に乗ったままの存外重たいホルマジオの腕のことには文句を言わなかった。人間の腕というのは、私たちが生きて肩にぶら下げているときにはあまり感じないけれど、こうやって何かに寄りかかったり乗っけたりしてすっかり脱力すると、大体赤ん坊一人ぶんぐらいの重さになる。ホルマジオはすっかり気を許して自分の右腕を私の肩のこちらからあちらまでべったりと乗せて、たまにろくでもないことを話しては考え事をして、持てあました指先で二の腕の中ほどを引っかいていた。
「重たくねえの?」
「重たい」
「このまま引っかかれて、ちっさくされて、誘拐されそ〜とか思わねーの?」
「どこに?」
 煙を吹きだして笑った私を見て、ホルマジオはなんとなく得意げだった。
「しょーがねーな」
「小さくなる前にブン殴るから大丈夫」
「おー、怖えー」
「大体、あんたに誘拐なんてされたところで知れてる」
「知れてるって何が」
 ホルマジオが私を見た。別に、と答えると、ふうん、と意味ありげにうなった後、唐突に話を本題へと運んでいった。
「今回のことが片付いたら本当にさらっちまおうかな」
「自信ありげ」
「ちゃちゃっとこのオレがブチャラティの野郎から聞き出してやるさ」
「ふうん」
「まあ、任せとけって」
「ビビってるクセに」
 ホルマジオは笑ってグラスの酒をあおった。ホルマジオの体が動くと、私の体も引っ張られた。
「オメーは部屋でテレビでも見てな」
 そう言ってホルマジオはグラス越しにこっちを見た。言いながら見つめるその目が優しげなのを、私はあざとくも見逃さなかった。そしてすぐに見ていられなくなり、顔をそらして、そのまま今度は二、三度、煙草の煙の吸って吐いてを繰り返した。私がしばらく黙ったころ、ホルマジオの腕がぴくりと動いた。
「ちょっと出るか。煙草、切らしたわ。一緒に来いよ、ナマエ」

 厨房でぐつぐつ温められて今にも提供されるであろうムール貝がちっとも名残惜しくなく、私はペッシに声をかけるのも忘れて、ホルマジオについて店を出た。最寄りのタバッキはさっきリゾットと店の前を通ったときにはとっくに店じまいを済ませていたが、ホルマジオも嘘をついて口実を作ったことを隠すつもりはさらさらないらしかった。外に出てからまた彼が取り出したシガレットケースには、さっきと同じでまだ中身がたっぷりと残っていた。しかも、私たちは店のすぐ外で、示し合わせたわけでもないのになんとなく立ち止まっていた。もう春だというのに、今晩はよく冷えた。
「リゾットに何か言われたか?」
「いや、なんとなく機嫌が良かった感じはしたけど」
「ははは! しょぉーがねぇな」
「気にしてくれてるの?」
 ホルマジオは、ちらっとこっちを見たが、何も答えずに爪先で石畳の間をなぞっていた。
「今さら、ごちゃごちゃ言うつもりはないって」
 我がチームのやり方は、もともと民主主義的でこそなかったが、私が威勢のいい多数の力に半ば押し通されたようになったのも、まあ事実だった。
「私だってもう決めたんだから」
「けどよ、オメー、金が手に入りゃ。どこだって行けるしなんだってできるんだぜ」
 ぱっと顔を上げて、当たり前のことを子供のように、少し気前がいいぐらいで大した浪費家でもないくせにホルマジオは言った。顔色に明日への恐れがみじんもないのは、この男以外もそうだった。私は決意を口にはしたしまんざら嘘でもなかったが、言うたびに、リゾットが自分に与えた役目がかえって重く感じられて、あのときにちらりと思っただけのことなど黙っておけばよかったのにと思い返してはほぞを噛んだ。
「リゾットは、私に最後に行けと」
「最後?」
「万が一の時にはチームにつながりかねない手がかりを私の能力で処理しろと」
 この告白に大変勇気が要ったことを、この男は果たして分かっていたのだろうか。
 暗い顔の私がよほど面白かったらしく、ホルマジオは大きな口を開けて風船が割れたように笑い出した。数少ない道行く人が一斉にこっちを見て怪訝そうな顔をした。あまりの笑いように私はどんどん気恥ずかしくなってきて、空いたままの大口に濃い煙を吹き込んでやった。ホルマジオは咳込んでやっと笑うのをやめた。
「あんまり……笑かすな……」
 ホルマジオは心底おかしそうだった。私はまた、自分が余計なことを口走ったのだと気が付いた。
「もういい」
「いや、いや。スマン! おまえがあまりにも……」
 ホルマジオが黙ってこっちを見たので、私は続きを自分の頭の中で続けて、いじけたように睨み返した。ホルマジオは存外それ以上笑わず、頭を振って、煙草を一口、味わいながら吸った。

「オメーは、何かやりたいことってねーのかよ? ナマエ。……オレはキレーな姉ちゃん車の助手席に乗っけて、いろんなところへ行きてーなァ。海のないところとか、寒いとこは、ゴメンだけどよォ……」
 私は気をつかって少し微笑んで見せた。だけど私のほうは、あれがしたい、これがほしい、そういうことを次々思いついても、臆病がたたってなかなか口には出せなかった。美しい映像たちは、思いついた端からもやもやと霧に包まれて、うまく言い表せなくなってしまう。私は美味しいものや楽しいことの他に、額縁にぴったりはめられたソルベの断面図も思い出していた。いつも、顔のあたりだった……。舌の付け根でななめにさっぱりと切れていて、この時にちょんぎられた舌先は一度床に落ちたり、処刑人に拾われて丁寧に口腔内に戻されたりしただろうかと思った。ホルマリンにふやけたそれらがそれまで生きていたのだと思うとなんとも不思議な気分になって、私はなんと貧弱なことか、食欲が失せたりするのだった。もう二年も前のことだったが、自分で殺人を犯すたびにあの舌が描くいびつな曲線を思い出していた。
「煙草が好きなときに好きなだけ吸えればそれでいい、私は」
 ホルマジオの手の中から煙草を一本つまみ出してくわえると、ホルマジオは「無欲だねぇ」と言って肩をすくめ、ライターを差し出した。受け取って自分で火をつける。煙草の先をちかちかさせて返事をした。
「違うわよ」ぜんぜん違う、と言って、また煙を肺いっぱいに溜める。「ビビってんのは私のほうね」
「ま、そう重く考えんなって」
 ホルマジオが私の肩をぽんぽん叩くと、二人の煙草の灰が一緒に地面に落ちていった。ぐずぐず言って励まされている自分がいかにも頼りなくて。
 ……情けなくて、これまで覚えてきた仕事など、全部すべて何もかもなかったもののように感じるのだった。
 不意に、無性に誰かに前後なく甘えてしまいたい気分に駆られて、私は戸惑った。動物は死を身近に感じると本能的に子孫を残したくなるらしいという話を思い出して、こういうことかと、納得がいってしまった。
 それを自覚すると、今度はとたんにうまく笑えなくなってしまった。煙草を持つ手で口元を隠したまま、目の前の男の顔をうかがった。
「今回のことがうまくいったら、あんたのそれ、連れてってもらおうかしら」
「あん?」
 ホルマジオは分からないフリをしてにやりと笑った。
「……海があってあったかい、ネアポリス以外のところへ行って、おいしいモンをたくさんおごってもらえるって話」
「そんじゃ、車とキレーな姉ちゃんは揃ったから、あとは金だけだな」
 旅先で食いすぎてあんま太んなよ、と目を伏せて笑うと、ホルマジオは私の頬を軽く右の手で撫でてから、店に戻っていった。細長い煙のような爪が名残惜しそうに髪に触れていくのを感じた。
 いい加減な私たちのことだから、どこか遠くへ行くつもりで車に乗り込んで、行く先々でなんでもないことに興味を惹かれ、結局は案外大きなネアポリスの中の見慣れないどこかで一日を終えてしまいそうだと思うと、それはなんて普通っぽい日々だろうかと途方もない感じがした。たとえば街角で二人でジェラートをつついていると、今度は気の弱そうな日本人に声をかけられて、ビーチへの行き方を教えるだけじゃなく写真まで一緒に写ってやるかもしれない。笑顔で手を振ってスリに気を付けなよと忠告してやり、彼らの幸福な旅路を心の底から祈るかもしれなかった。そこまで考えても私はやっぱり笑えずに、味の濃い吸いさしの煙草をつま先に放った後もしばらくはじっとそこに立って、あまり光らない月をぼんやりと眺めた。

2019.04.20

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