「了、見?」

 目を覚ますと、見慣れた広いベッドの上だった。……自分の部屋の匂いじゃない。ひどく、胸を絞るような甘い痛みに首を動かせば、冷たい指先が頬を包む。
「どうした。悪い夢でも見たか?」
 タイムのやさしいハーブ香に混じる、シダーウッドのような汗の香り。深い森の中にいるような雨の匂い。バターのように溶けそうな思考を目覚めさせてくれる、洗いたてのシーツに染みたパルマローザ。
「了見」
 背中に腕を回して抱き付けば、懐かしい了見の匂いが肺を満たす。子供の面倒でも見るかのように髪を梳いてくれる指先が肌に触れるだけで、首筋や背中を甘痒いものが全身に駆け巡る。
「なまえ、……」
 悪夢のあとで抱き寄せる最愛の人は、自分の中の覚えている限りの了見と理想の全てを凝縮しているようだった。薄い唇がまぶたをみ、頬から髪の生え際へ、おでこへと伝い、次第に体を覆い被せて正面に向き合う。
 キスをしてくれる、そんな期待で見つめ合えば、端正につり上がった目尻と眉の端を今は緩やかに伏せて─── きっとなまえ以外の誰にも見せたことのない顔で、了見はほんの僅かに口元を緩ませた。
「(あ、───)」
 久しぶりにその顔を見た。そう言おうとした唇をおし包まれ、もう少しその顔を見ていたいと惜しむ気持ちを飲み込んで目を閉じる。

 でも、……あれ?
「(了見がこんな風に笑ってくれたの、……いつぶりだっけ?)」


 ガクン、と階段を踏み外したような衝撃に飛び起きる。
「いだっ」
 ごち、と頭をぶつけた衝撃に転がった体を少し起き上がらせると、ひどく懐かしい、黄金色の夕陽に染まるあのリビングのソファが目の前にあった。そこへ少し小さな、日に焼けた肌の手が差し出される。
「ひらがなでなまえ、ほんとうにネゾウが悪いな」
「りょうけんくん」
 断崖のように聳えるソファから手を伸ばす了見。手を握って引き起こされるまま膝をつくと、床やソファの上に散らばったカードが目に付く。そしてソファの上で、もう1人男の子が眠っているのを見た。
「来いよ」
 背を向けて眠るその男の子を見ていると、了見から手を引かれて、急かされるままにソファへ登る。「起こしちゃうだろ」と言われてから男の子と反対の方へ座り直せば、少し乱暴に引っ張られるまま了見の膝に寝転ばされた。
「ほら、これならもう落ちないだろ?」
「(───あ…)」

 泣いてはダメ。……どうして泣きそうなの?
 ゆっくりと思い出していた。悪戯っぽく笑う8歳の了見を、18歳のなまえが見上げる。ぼろぼろと涙を零しながら。


 そう、了見が心から笑ってくれたのはあれが最後だった。だからこれは夢。私の中の覚えているものと、理想を固めたもの。
「なまえ?」
 閉じていた目から溢れた涙に了見が唇を離す。朝日が登る、薄く霞んだ空色の瞳。そしてそれと同じ色に滲む、了見の寝室。私の好きな匂い。私の好きな場所。……私の好きなひと。
 理想的な夢なら永遠に続いてくれればいいと思うかもしれない。だけど、あなたはあなたじゃない。私は、───了見に会いたい。



 理想の世界が砕けて、なまえはまた電子の海へと放り出された。事ここに至ってこの程度では悲鳴さえ上げる気力も起こらない。ただ、大切な了見の存在さえもが悪夢の一端にされたことに、少し絶望しただけ。
『思い出した? たとえば、鴻上了見が隠れ家に使いそうな場所とか』
 また女の人の声。この声、大嫌い。
 思い出したよ。……彼が、本当にとても優しい人だってこと。
「ぎゃうッ」
 背骨を砕かれるような電撃のショックに思わず声が上がる。
『あなたの思考は完全にモニタリングしてるわ。たとえ言葉として発声処理しなかったとしても、少しでも逆らうような事を考えればすぐに分かるの。あなたがいま見た記憶の海も私たちの解析が追いつけば、いずれは映像として見る事だって可能になる。今のうちに、ハノイに関して、そしてイグニスに関して思い出した事を吐きなさい』



「データを見る限り、やはり彼女は“シロ”です。一刻も早く、この実験を中止すべきです」
 顔を見せるたびに同じことを繰り返す財前に、いい加減クイーンもわざわざ反応を示さなくなっていた。タブレット端末をすぐ脇に控えていた研究員に預けると、腕を組み直して財前を睨む。
「話しはそれだけ?」
 そんなに暇じゃないの、と含みを持たせた口ぶりに財前はまた顔を歪める。この会社でクイーンに面と向かって反対するのは、財前ただ1人だった。その威勢の良さだけは、クイーンも認めてはいる。だが今この状況でその熱意を向けられることには鬱陶しい。
「わかってないわね。彼女が本当にリボルバーの交際相手なら、彼がこのSOLテクノロジーのコンピューターに乗り込んでこないわけがない。うまくいけば、イグニスを持っているプレイメーカーだって釣り上げられるチャンスなのよ」
「……! それだけのために彼女を苦しめているのですか。もし……」
 そこまで言って財前は口を噤む。何を言いたいのかすぐに察したクイーンが、ニッと笑って財前を覗き込んだ。
「もし、……彼女がリボルバーに利用されていただけで、ハノイの誰からも助けに来なかったら。……あなたも随分と残酷な事を考えるのね」
 フフフ、と笑うクイーンに、財前は目を背ける。
「もちろんその可能性は考えてるわ。むしろ、リンク・ヴレインズを容赦なく破壊した彼なら、邪魔な存在となれば自分の彼女ですら切り捨てるでしょうね」
「ならどうして」
「言ったはずよ、彼女から新たなる意志を持ったAIプログラムを誕生させると。誰も来なければ、このまま対イグニス用AIの作成を続ける。でももしハノイが乗り込んでくれば、彼女と交換でイグニス・アルゴリズムの解析プログラムを要求できる。仮にそれを拒否されても、彼らと闘わせて時間を稼げばさらなるデータが集められる。……合理的でしょ?」
 クイーンが顎で指図しただけでモニターが下され、集積したデータの進捗が映し出される。予想外の進み具合に、財前は目を見張った。
「我が社が独自開発した意志を持ったAI、……《エルピス》。《イグニス》とは、神々の世界から持ち出された『知恵の灯火』。でも神々は人間が知性を持つことに反感を持ち、災いをもたらす為に1人の女を作り上げて男に贈った。そして女は男の持っていた箱を開け、世界に混沌と災厄をばら撒く。……その箱にひとつだけ残ったもの、それが《エルピス予兆》。“彼女”は間違いなくイグニスに劣らない優秀なプログラムになる」
「彼女自身が“パンドラの箱”にならない事を祈るしかないとでも?」
「フッ……生まれてくるAIがエルピスなら、私たちのパンドラの箱は、彼女を閉じ込めているあのキューブよ。《エルピス》の原型である最新AIは、順調に彼女から分解した精神データを蓄積・学習し、既に75%の知性をコピーしている。これからハノイの連中が侵入してこようと、闘わせるにはもう充分な域に達しているわ。財前、あなたはせいぜいセキュリティスキャンに精を出してなさい」




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