世界中の誰も、近づけない。


  holiday

『いまどこにいるの』

 淡々と抑揚のない声に、海馬の下瞼が少しだけ動いた。人は怒ると感情的になるのが相場らしいが、妻の場合、それすらも通り越すと感情は頂点から急降下し、こんな感じになる。
「ニューヨークだ」
『へえ』
 ライブカメラでの通話ではなく、あえて旧式の音声のみの通話。間違いなく彼女が怒っていると察しても、海馬は決して態度を改めはしない。
『一応聞いておくけど、カイロに滞在してたんじゃないの?』
「それは5時間前の情報だ」
『どこの時間で?』


『カイロの空港を出たのはそこの時間で22時56分だ』
 私に握力が無くて良かった。手の骨がギシギシ言ってるけど、ステンレスフレームのスマートフォンにヒビが入ることはない。
「私がドバイで給油している間、連絡したわよね?」
『フン、いい加減時差を覚えたらどうだ』

 俺が返信したのは───。耳から離した携帯から漏れ聞こえる海馬の声を無視して通話を切った。今すぐ携帯をナイル川に投げ捨てたいところだったけど、もう大人だからそんな事はしない。
 真珠をばら撒いたように星が広がる群青色の空。遠くの街明かりで薄明るく照らされた青白色の川面には、反射した金色の細波が煌めいている。
 海ほども広大なナイル川に泊めてある、海馬邸よりも大きな客船と、見飽きた海馬コーポレーションの社印。見飽きた青眼の白龍ブルーアイズ・ホワイト・ドラゴンのオブジェ。見飽きた側近の真っ青な顔。

 ドボン、と音がして、振り向いた先にあった船上プールに自分が携帯を投げ捨てていたのに気が付いた。
「あ……」
 まあいいや、川にポイ捨てしたわけじゃないし。防水性だし。前にもお風呂に沈めたり海に落としたりしたけど“彼”は無事だった。どうせ今回も無事。何事もなかったかのように私の手の中へ戻ってくる。
 どうせ、夫もそう。


 切られた通話に、暫く画面を眺めていた。念のためもう一度画面を指で撫で、《なまえ》の名前をタップする。1コールもしないで『NO SIGNAL』の文字が現れて、やっぱりか、とため息をついた。
 妻を怒らせるのはいつものこと。飽きもせず真摯に向き合ってくれているからこそ、なまえは怒ったり泣いたり笑ったり、人に見せない顔をする。……試しているつもりはない。どうせ今回も無事。何事もなかったかのように俺の元へ戻ってくる。
 どうせ。



 こく、こく、と規則正しく肯く腕時計の秒針。居眠りをする頭をもたげた秘書が、船内へ続くデッキのベンチに座り込んでいる。可哀想だから「もう家に帰りなさい」と声を掛けたいところだが、ここはエジプト。どっちにしろ連れて帰るのは自分の役目だ。
 カイロは10月25日の3時36分。ニューヨークは10月24日の21時36分。……まだ大丈夫。海馬は日付け変更線から逃げているだけ、そう思えば可愛い方だから。
 同じ次元軸に生きている。いつだって、どこだって、ほんの少しの苦労だけで顔を向き合わせることができる。それくらいの苦労なら、私はいくらでもできる。
 ……私だけが、この苦労をしているだけ。

「パイロットを起こして」



 あの頃は幸せだった。……なんて言ったところで、自分がいつ幸せだったか思い出せない時がある。
 瀬人が告白をしてくれた時? あの時は、マリクが“ヤンチャ”してた頃で自分の意識ははっきりしていなかったし、そのあと死に掛けた。却下。
 ファーストキス? 遊戯に嫉妬した瀬人が、自分の優位さを誇示するためだけにされた。論外。
 瀬人と交際を始めたとき? 世間とクラスメイトに騒がれて散々な目にあった。なんなら現在まで続いている世間からの視線はあれから始まっている。
 初めてのセックス? そのあと大変だったんだけど。
 結婚式? 最終決戦の間違いでしょ?
 ……ああ、もう。
「ん、……」
 深く息を吸い込むと、体の感覚が脳を覚醒させていく。あたたかいものに包まれている。ブランケットと、綿のシーツだろうか。……いつのまにベッドに入ったんだっけ。
 途端に「あれ?」と違和感を感じてまぶたを開いた。



「瀬人様!」
 断りもなく部屋に飛び込んできたのは磯野だった。肩を上下させて息を整える間も、海馬からの「なんだ」という問いかけも待たずに、鼻筋から落ちかけたアイウェアーから真っ青な顔が口を開ける。
「なまえ様がお倒れに」
 アメリカ東海岸、サマータイム標準時で23時59分。「お誕生日おめでとう」の言葉を聞けるまであと60秒もなかったはずの海馬に知らされたのは、その言葉を言ってくれるはずだった最愛の人の急病。

 彼女を怒らせるのはいつものこと。なまえはいつだって、些細な事も真剣に向き合っていた。普通の人間としての自覚が薄い海馬の危うい一面を、この世界に繋ぎとめてくれる唯一の存在だということを、本人が、むしろ“当事者同士”が一番よく理解しているからだ。
 どうせ今回もそう。だから眠らないで待っていた。ジェット機でも戦闘機でも何でも飛ばして、なまえは俺のところへ来てくれる。文句を言いながら笑って、「お誕生日おめでとう」などと言うためだけに。
 本来あるべき姿を失った人間で構成された街の閃光で、深夜だと言うのに空は薄ぼんやりとした灰色をしている。およそ等身大とはいえない摩天楼のビル群の外壁に囲まれた展望窓と、自己の象徴である海馬コーポレーションの社印。どこにでも置かせている青眼の白龍ブルーアイズ・ホワイト・ドラゴンのオブジェ。どこにでもついて来る側近の真っ青な顔。

 バタン、と音がした頃には、もう体が勝手に部屋を飛び出していた。名前のつけようがない、目眩がするほどの感情の激流が胸と喉を圧迫している。
「どこの病院だ」
 誰でもいいから返事をしろ。独り言にならなければなんでもいい。
 こんな時間でも通路を歩いている警備員や研究員を押し除けて、海馬はエレベーターホールのボタンを押した。小走りでついてきた磯野が、慌てて携帯端末を取り出す。
「ウエストチェスターメディカルセンターに運ばれたそうです」
「ヘリを用意しろ。今すぐにだ」



 開いたまぶたに、日差しが照りつけた。柔らかい風で前髪がまつげを撫でる。開かれた窓の向こうに穏やかな青天を見ると、すぐに光を遮る人影がなまえを覆った。
「起きたか」
「……瀬人?」
 どれだけ働いても平然としているような人外の夫の顔の目の下に、薄らではあるが珍しくクマがある。窓のある水色の壁から反対に顔を向ければ、ガラス張りの壁から医療スタッフの往来が見えた。手の甲から伸びる管を目で辿っていき、点滴のビニールバッグに書かれた英字をぼんやりと読み始めたところで、白衣を着たいかにも医者らしい男がガラスの引き戸を開けた。
「うそ、今日、……って何日?」
 起き上がりかけたなまえの肩を、海馬が手で制止する。
「貴様、その話しをしている場合か。少しは自分の体を大事にしろ」
「は? ていうか、なんで病院に───」
「睡眠不足と過労ですね」
 悔しい事に、海馬にだけは言われたくないセリフをフルスイングで打ち返す余力がなかった。純粋に、ここに寝ている理由が思い出せず混乱している頭に、医師がベッドサイドの椅子へ腰掛けるなり看護師に何か指示をしながら明確な回答を出す。
「11時間のジェット機移動のあと、ロクな訓練もしていない一般人の貴女がマッハ2の戦闘機でカイロからアメリカまで移動? どうかしてる」
「……」
「……」
 どうかしてます。わかってます。
「いったいどうしてこんな無茶なスケジュールを?」
「夫の誕生日だったんです」
「君は妻にどんな生活をさせているんだ」
 医師の小言の矛先が海馬に向かう。心底機嫌を損ねた顔をしたあと、海馬は腕を組んで「フン」と顔を逸らした。
「ごめんなさい、このひと悪い人じゃないんです」
 わかってるよ。じゃなきゃこんなバカな真似はしないよね。そう医師は呆れたように頭を掻く。ゆっくりとここに至るまでのいきさつの説明を聞き、なまえはなんとなく事の前後を思い出した。
 なんとしても日付が変わる前後には会いたくて、思い切ってその場で戦闘機をカードで購入したこと。ツテでニューヨーク近海の空母に着陸し、そこからヘリでニューポート・ステート空港に送ってもらったあと、プライベートジェットでウェストチェスター空港に降りて、さああとはニューヨークの海馬コーポレーションまでヘリで、……ってところで、目が回って倒れたんだっけ。
「あ、そっか。戦闘機買っちゃったんだった。経費で落ちる?」
「その話しは済ませておいた」
「あら、ありがとう」
 閉口した医師が一度咳払いをして、「続けても?」と肩を竦めた。
「それで、旦那さんの誕生日は何日だったの?」
「10月25日なんですけど…… 私、倒れてから何日眠ってました?」
「なら良かった。貴女がとった睡眠は11時間でしたよ。今は25日の午前10時過ぎだ」
 ハッと息を吸って安堵に胸を撫で下ろす。だが嬉しそうななまえに医師が微笑んだのも束の間、握り締めた拳を壁に叩きつけた海馬によって大きな亀裂が走った。
「ふざけるな。たかが誕生日、何だというんだ。貴様も飽きもせず毎回毎回…… 毎日ではないにしろ顔を合わせて一緒に暮らしているだろう。なぜそんな無理をしてまで俺に構う?! 俺は貴様をこんな病院のベッドに寝かせるために結婚したのではない!!!」

 ぷっつん。

 本当にぷっつんって音がした。結婚して10年以上過ぎて、まだこんなこと言うの? このひと。そもそも先に「カイロにいる」って言ってたの誰よ。約束したわけじゃないしサプライズですら無かったけど、私があなたの誕生日を無視したことなんて無かったんだから分かってるじゃん。私が海馬コーポレーションの所有の客船のスケジュールを押さえておいたのだって、私が飛行機のスケジュールを組んでたのだって、絶対知ってたじゃん。知ってんのよ、あなたが小さい子供みたいに私の愛情を試すようになってきたこと。あなたが、無意識のうちに私に甘えていること。

「───お、い」
 目の色に劣らないくらい顔を真っ青にした海馬を見たのは、たぶん初めてだった。ついでに、……こんなに感情が爆発したのも、たぶん生まれて初めて。
「せ、……瀬人の、……バカ!!!!!!」
 ガラスの向こうで医療スタッフたちが一斉に振り向いた。「バカ」って言うのが限界で、あとは小さい子供みたいに癇癪を起こし、言葉にもできない大声を上げて大泣き。だけど心のどこかで傍観する自分は、慌てふためく瀬人を見て少し笑った。


 ズビ、と鼻をすすると、看護師がティッシュボックスを差し出してくれた。ありがたく何枚もとって、ドラマの真似でもするみたいに顔を埋めたあと盛大に鼻をかむ。
「そろそろ落ち着きました?」
 頃合いを見計らっていたように、さっきの医師が顔を出す。海馬は自分が言った理不尽や、なまえが10年以上溜め込んだ鬱憤が理解できないような愚者でもない。いつものように“えらそうに”腕を組んでベッドサイドの椅子に腰掛けているものの、すっかり閉口して視線を外していた。
「ごめんなさい、私もこんなに泣いたのは初めてで」
「ホルモンバランスが著しく乱れているせいもあるでしょう。仕方ないですよ」
 あぁ、加齢ってことか。なんとなく、暗にそう言われてるんだろうなと思って心が沈んだ。でも、まぁ、泣くとスッキリするって聞くのは本当らしくて、寝起きだったさっきよりも思考はハッキリとしている。今はもう「お腹すいた」しか考えられない。
「それで、さっきの続きですが…… かかりつけか、担当の医師はいらっしゃいますか」
「妻には我が社の提携する病院の専門医チームをつけている」
「では、検査はそちらで───」
「……え」
「どこか問題でもあったのか」
 当人よりも先に立ち上がって顰めた顔を向ける海馬に、医師はハッキリとしない口元をカルテで隠す。ふと、ナイル川に留めた客船に誕生日プレゼントを忘れてきてしまった事を思い出していた。



 人間って、24時間さえあればこんなにバカなことができるのね。お誕生日のために日付変更線と競争して、時速3000km出せる戦闘機を買って、地球を一周できる距離を移動する。代償なんてどうでもいいと思ってた。愛する夫のためだから、お金と、健康と、人様への迷惑なんて二の次だって。
「瀬人もバカなことできたのね」
「なんだと」
 地を這うような低い声とは裏腹に、背中にビッタリくっついて抱き締めてくる腕はいつもより優しい。
「これも経費だなんて言わないよね?」
「俺のポケットマネーだ」
「あ、そう……」
 もしかして、気付いてないだけで夫婦揃ってお買い物でストレスを発散するタイプなのかな。そんな事を思いながら、一番近くにあった、積み重ねられたプレゼントボックスの上に転がるテディベアを取り上げた。



「ちょうど10週くらいですね」

「「……は???」」
 夫婦揃って、未知の領域に足を踏み入れたことを察し硬直した。何年も子供ができないから、たぶんそういう巡り合わせなのだろうと諦めさえしていたし、なまえの体調を詳細に把握していた海馬でさえそんな兆候は掴んでいなかった。あんまりの青天の霹靂ぶりに、2人とも完全に思考が停止して「は?」という言葉しか発せない。
「妊娠初期ですがもう胎児ですよ。知らなかったとはいえこんな体でよく戦闘機に───」
 海馬の大きな手が医師の両肩を掴んだ。医師もなまえも目を丸くして海馬を見上げるが、当の本人は聞きたいことが言葉としてまとまらないらしく冷や汗をダラダラ流しながら口を半開きにしている。
 なにかに直面して混乱したとき、自分より混乱している人間を見ると冷静になるもので、なまえはそんな海馬を見てすぐ冷静に受け止めた。同時に、自分がした「バカなこと」を省みて海馬と同じように冷や汗がドッと吹き出る。もちろん海馬の混乱の原因も同じだった。なまえより数倍早い思考速度で、いまなまえが流す冷や汗の理由を弾き出したのだ。
「だ、大丈夫です、今のところ出血なども見られませんし、とりあえずは安静に」
 目の回りそうな2人を前に、医師はそう取り繕って海馬の手から逃れる。無言で顔を見合う海馬となまえの姿を見て、ふうと大きく息を吐いたあと、医師はハッキリと笑った。
「素敵な誕生日プレゼントですね」



「バカなことするのは今日で終わりね」
 お互いに。そう言っても、海馬は顔を顰めてなまえを見下ろす。
「俺がいつお前のようなバカをした」
「この惨状を前にしてよくそんな事言えたね」
 見上げた先の、オデコと口元がさかさまになった海馬の顔がまた前を向けば、その表情は見えなくなった。うんと伸ばしていた首を下ろせば、寝室の隣の空き部屋はぬいぐるみやベビー服の詰まったプレゼントボックスが山積みにされている。
「日本のモクバ君にも連絡しなきゃ」
「来週にでも帰国すればいい」
「うん」
 嬉しいとか、ありがとうとか、これまでよく頑張ったとか、そういう言葉は無い。もう見てれば心の底から喜んでいることも、大切にされていることも、そして何よりも愛してくれているのが分かるようになっていた。それだけ長い付き合い。若い頃の、7月の暑い夜みたいな恋愛じゃない。愛だけじゃどうにもできない、時間による家族としての形成期間がやっと完成した気がした。
 きっと、選んでお腹に宿ってくれたのだと。

「あ」
「どうした」
 ハッとしてあたりを見回し出したなまえに、海馬が身を乗り出して覗き込んだ。ぐるぐると視線を泳がせた先、ぴったり寄り添う海馬から少しだけ離れて見上げると、青い目の向こうに探していた時計はあった。
 時間は23時55分。本当に時間ってものは、なんて言っていられない。
「なんだ」
 視線を少し下ろせば、少しだけ眉をひそめた海馬がそこにいる。言ったことあったかな? あなたはいつも他人にないものを私にくれる。私の心に太陽を昇らせて、寒い日はそばに引き寄せて、真夏の夜みたいに触れてくれる。あなたが私を抱き寄せてくれるときが一番大好き。
 ああ、やっぱり伝えてなかったかも。世界中の誰もあなたに近寄れない。そんなあなたが唯一、私だけを側に置いてくれているから、それだけでいいやって。

「お誕生日おめでとう、瀬人」


 little mix / holiday



- 22 -

*前次#


back top