「失礼します。」

 部屋に通されてすぐ、メイドがラバーメイドを押して入ってきた。
 海馬邸は先代社長の邸宅をそのまま使っているだけあって、海馬の趣味には合いそうにない調度品ばかり並んでいる。それでもそのままにしているのだから、価値を分かっていて保存しているのか、それとも単に興味が無く、新調するのが面倒くさいから放置しているのか…… まぁおそらく後者だな。なまえはそう結論付けた。

 ラバーメイドに並べられていくカップとソーサーに、ほんのり甘い香りが漂う。だがその中に混じる僅かなスパイス臭になまえは顔を顰めた。

「アップルシナモンティー?」
 メイドが手を止めて振り向くと、なまえの顔を見てすぐに謝ってきた。
 「何かお好みはございますか?」とやっと聞いてきて、なまえは肩を竦める。
「こんな場違いな客には水で充分でしょ」
 半笑いで組んだ足に肘をつく。メイドは困ったようにグラスを取り出すと、ガラスのサーバーを取り出した。
「あー、…一応だけど、私が客人だって指示されてたなら、氷は1つ。あったらライムスライスを2枚。」

***

「兄さま! 兄さましっかりして! 兄さま!」

 ゲーム画面を見ていたモクバは、ブルーアイズの封印と同時に電子暴走をした海馬のシートへ駆け寄って声を掛け続けていた。だが海馬はまだゲームの中へ囚われたまま、目を覚ます気配はない。

「社長の意識はデータ化し、ゲームの中に閉じ込めさせてもらいましたよ。」

 大下の声にモクバが振り返ると、モニターにビッグ5それぞれの顔が映されていた。
「なんだって?!」

「ゲームをクリアしない限り、瀬人様の意識は一生電脳世界をさまよい続けるのです。」
「これで海馬コーポレーションは我々のものだ。」
「その通り! モクバ、君の身柄も拘束させてもらうよ、フフフフ……」

 ドアの向こうでこちらに駆け寄る複数の足音にモクバは辺りを見回した。
 ドアを抉じ開けようとする音が室内に響く中で、モクバはデッキホルダーから海馬のデッキを取り出す。


 バッと開け放たれたドアから、猿渡をはじめとする手下の男たちが室内へなだれ込んだ。しかし、目的のモクバの姿は見つけられない。

「モクバ! どこだ?!」
 すぐに柵の外されたダクトが発見され、猿渡は舌打ちをして携帯を取り出す。

「モクバに逃げられました!」

***

「フフフ……そう慌てなくても良いでしょう。モクバは必ず帰ってくる。」
 大岡は眼鏡の奥で、猿渡からの報告に焦る大下を笑っていた。
「あの健気な弟が瀬人様を置き去りにするわけがないでしょう。」
「しかし万が一……」

「それより我々は、第二段階へ移行する時です。」
「おお、そうだ!」
 突然大声で反応したのは大田だった。何人かは腕を組んで立ち上がった大田に目を向ける。
「海馬瀬人が手中にある今こそ、みょうじテクノロジーズ・グループとの契約再開を打診する! 例え海馬がゲームをクリアして戻って来たとしても、その前に企業提携を結んでしまえば簡単に破棄はできない!」
「フ……社長もこれ以上、企業の信頼を落とす決断は下せない。」
「海馬コーポレーションは軍事産業部門とゲーム産業部門の二大態勢となり、世界規模でさらなるトップ企業となれる、というわけだ。」

 大下は頷いて電話器を耳に戻した。
「予定通り、海馬邸へ。」

***

 やっと部屋を出て行ったメイドに、なまえはやっと息をついてグラスを煽った。ライムの香りで大嫌いなシナモンを嗅覚の記憶から追い出そうと努めたあと、両肘をついてテーブルに並んだお菓子に目を向ける。
 クリームが添えられたシフォンケーキ。悪くはないが、海馬邸の給仕があまり洗練されてないのが見て取れた。海馬のことだ。義父を追いやったあと、どうせ家人も総入れ替えしたのだろう。来客どころか主人の帰宅さえ少ないのだから、専属の給仕係のセンスが落ちるのも仕方がない。
「(ザンネンな邸宅……)」
 指でクリームをすくって舐める。ゆるめのホイップに、グラニュー糖と…隠し味に蜂蜜ってところだろう。こってり甘いあたりはモクバ向けの味付けか、もしくはシフォンケーキが甘くないか。

 放置された先代の悪趣味なインテリアに、センスのないメイドとシェフ。子供向けの味付けが優先された茶菓子に、アップルシナモンティー。
 海馬がいかに危うい存在か手に取るように分かる気がした。

 どうせ朝早く出て外食ばかり、仕事で徹夜も厭わず、睡眠と入浴以外に用事の無い家。仕事を理由にしているのは“義父を超越し続けていると自己評価する”のが破滅への抑止力になっていて、嫌悪という力を得るために、義父の象徴であるこの邸宅をそのままにしている。かといって弟のモクバまでは仕事に巻き込めず、贅沢な家に変わりはないから住まわせて、給仕係たちも、家主である海馬が納得するのだからと安易にモクバを喜ばせる方向へ傾倒してしまう。

「(ひとのこと言えないけどね)」
 ベルトに差した千年秤がさっきからキイキイと煩い。
 なまえはもう一度ライムウォーターを口にした。……海馬は自分に似ている。だからこそ彼の邸宅を見て想像できた。

 ふと、グラスを持っていた指先が痺れた。
 「あれ……」そう口にするのと同じくらいに、手からグラスはすり抜けてテーブルのふちに当たり、砕けたガラスが水と共に床に散らばるのを視界の端で捉えるのが限界だった。

 すぐに何か盛られた事を悟ったなまえは立ち上がってドアに向かう。空気が触れるだけで肌が痺れるような感覚と、床から大きな手で引き寄せられているような重力感に耐えながら、ソファの背もたれに手をついて一歩ずつ前に進んだ。

 激しい音を立てて開け放たれたドアに、目眩を堪えて顔を上げる。ドアの向こうで倒れた磯野と、目の前に立つ大男───… デュエリスト・キングダムで自分を襲ったあの男、猿渡が、なまえを見下ろしていた。

「あ───…ッ」
 猿渡を見たのを最後に視界が暗転する。なまえを待っていたのは、冷たい大理石の床だった。


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