床を蹴るたびに跳ねる肌の感覚と、ほんの少し走っただけでひどく上がる呼吸にただお腹が熱くなる。目が滲みたように痛むのも、周りを気にして自分勝手に「居辛い」と感じてしまうのも、なにもかも海馬瀬人が原因。そう思ってしまう自分も原因。
「(ダメよ、切り替えなきゃ。初戦で私が当たる可能性だってあるんだから───)」
 唇を噛んで握り締めた手をドアに向ける。勢いに任せて部屋をノックすれば、中からイシズの声が「どうぞ」と返された。

「イシズさん、あの……」
 油圧式らしい音を立てて開いた自動ドア。海馬と遊戯のこと、そしてこれから始まるトーナメント戦のことで過積載になっていた頭から、イシズに掛けるべき言葉は零れ落ちたらしく、そこからなにも声が出て来ない。「えっと、」と口籠るなまえに、窓辺に座っていたイシズはゆっくりと振り返る。

「わざわざ呼びにいらして下さったのですね」
 明かりもつけず、眼下の夜景の光だけが差し込む薄暗い部屋で、イシズは柔らかく微笑んだ。
「え、……ええ。あの、それと……食事も、ホールで出るみたいだから」
 イシズが汲み取ってくれたお陰で、やっと本来の目的が口をつく。しかしイシズが立ち上がる事はなく、ただ静かに顔は窓の外へと向けられた。
「いいえ、わたくしは結構です。……なまえさん」
「……、」
 思い出したように窓の外から顔をなまえに向き直したイシズに、ふと背筋が伸び、体が勝手に身構える。

「───『見よ、天空へ昇り、地に降り、水に入り、彼女は探している。父と母を探し、彼女の子供たちを探し、友を探し、地上で彼女のために働いてくれた者を探し、そして愛する者の最後の一人を見つけるまで、彼女は探している。彼が、偉大なる者が創りしものであるがゆえに。』」
「……」
「“あの石盤”に彫られていた碑文です。同じような碑文が、ある王墓に遺された2つの棺、……その片方にも記されていました」
「私の事だって言いたいの?」
 目を細めたなまえに、イシズはフッと笑って目を閉じ、顔を逸らした。窓に映るその横顔のシルエットには、深く垂れ込めた夜の帳が掛かっている。

「石盤と棺とで、……テキストは変えられていました。『最後まで彼女は愛する者を探している。彼らが、偉大なる者が創りしものであるがゆえに』、と。貴女が探しているのは、一人ではないという事です」

「……」
 く、と唇を甘く噛んだ。少し悩んだように目を泳がせると、なまえは何も言葉を返すことなく、そして部屋の境を越えることもなく踵を返してホールの方へと去って行った。窓に映るその影が行ってしまうと、自動ドアが閉まってまた部屋は一層薄暗く閉ざされる。
 イシズがほんの少しだけ顔を上げ、小さく息を吐くだけで白く曇る、冷気をまとった窓ガラスを覗き込んだ。


 通路をできるだけズカズカと大股で歩く。別に早くホールへ戻りたい訳ではない。ただ少しでもゆっくり歩けば、足元に迫る“何か”に肩を掴まれてしまいそうで、……まるで逃げるように、そしてなるべく何事もなかったかのような顔でなまえは通路を歩いた。

***

 ホールへ入ると、見覚えのある大男が遊戯達と睨み合っていた。タイミング悪くそこへ入ってしまったなまえの足が迷うが、壁伝いにモクバが駆けてきてなまえの腕を引く。

「貴様がマリクか?」
「いかにも」

 こそこそと海馬の方に連れて行かれる途中で、男の横顔が覗けるあたりに来るとなまえが顔を上げた。コート、男の腰のベルトに差された千年ロッドと千年秤のウジャド眼がなまえの目と合う。
「……! 私の千年秤!」
 声を上げたなまえに男の目が向けられる。ハッとして立ち止まり、モクバの手を離した。だが言葉が続く前に男へ歩み寄ったのは海馬だった。

「マリク。主催者権限として貴様の参加を取り消すことは自由」
 なまえと男の視線の間に割り入り、海馬は腕を組む。同じようにモクバも海馬の横へ駆け寄った。男─── リシドは静かに海馬へ視線を向け、ただ海馬が言葉を続けるのを待つ。
「しかし今それをしないのは、貴様を叩き潰し神のカードを手に入れるためだ」
 挑発するように海馬は薄く笑う。だがリシドは黙したまま、誰もいないホールの端へと歩いて行った。

「(マリク…… 僕でさえ凄まじい闘気を感じた!)」
 遊戯の額にひとつだけ冷たい汗が流れる。
 彼がマリクだと思い込んでいる全員が、ここで何かしてこないのだけは安堵してそれぞれ息をつく。その中で海馬ただひとりが鼻で笑い、磯野に顔を向けて「始めろ」とだけ命令した。

***

「食べないのか?」
 その声にハッとして顔を上げると、遊戯が覗き込んでいた。トーナメントの組み合わせが発表されるのを待ってか、遊戯は少し前に人格を入れ替えている。
 さっきの事を思い出すとやはり気まずい。それでも遊戯は何か気にするでもなく、料理を乗せた取皿を差し出した。
「あ、……ありがとう」
 素直に受け取る手が震える。ホールに並べられたテーブルに、オードブルビュッフェ。楽しそうにはしゃいでいるのは城之内や本田達ばかりで、海馬をはじめマリクを名乗った大男などは腕を組んで黙していた。

「おっと」
「あっ、ごめん」
 視界の端で城之内が獏良とぶつかった。カトラリーの金属音に遊戯となまえの視線がそちらに向かう。
「城之内君、なんだかドキドキするね」
「ああ。……そういえば、お前はいったいどんなデッキを使うんだ?」
 他愛のない話しを始めた2人に、なまえも遊戯もため息まじりにテーブルの方へ向き直った。どうもタイミングの合う遊戯に目を向ければ、遊戯も同じような事を考えていたようで目が合う。
「あのさ、遊───」
「なまえ」
 諫めるように降ってきた声に引っ張られて顔を上げれば、テーブル越しに海馬が立っている。本当に遊戯と一言も喋らせないつもりなのかと唇を噤んでも、海馬はなまえのことなど少しも見ていない。
 海馬の視線は遊戯にしか向いていなかった。

「ワハハ! うんめぇコレ! 静香〜 これうめえぞ!」
 パチパチとひりついた空気を破ったのは城之内だった。すぐ側を横切る城之内に八つ当たりでもするように、海馬は聞こえるように鼻で笑った。
「フン。浮かれ気分最高潮だな。凡骨デュエリストが」
「ぽ、ポンコツだと?!」
 案の定食らいついてきた城之内に、遊戯との睨み合いから海馬は目を逸らす。
「“凡骨”だ、無知め。ま、せいぜい今のうちに観光気分を味わっておけ」
 啀み合いを始めた城之内と海馬に、とりあえずこちら側の啀み合いは休戦だろうとため息をついた。

「これから始まる過酷なデュエルを体感すれば、身も凍りつくだろう」
 海馬は城之内をうんと見下ろしたまま、壇上の磯野に顎で指図した。磯野が律儀に頭を下げたあと、ステージの床が開いてまたなんだかよくわからないものが現れる。
 なんだ?とステージ近くに人が集まりだし、なまえもとりあえずは一歩引いたところでそれを見上げた。

「これより、トーナメント一回戦の抽選を行います!」

 磯野の説明に参加デュエリストの面々が少し騒めく。だがそれよりも、“あれ”がビンゴマシーンだと聞いた本田と御伽の酷評の声の方がなまえの耳についた。
「ビンゴマシーンだったのか、あれ」
「センスゼロだな」

 対戦者の抽選は、一戦ごとの勝者が決まるので行われない。つまりデュエリストは直前まで自分の対戦者が分からない状態で待たねばならない。
「このビンゴマシーンが、デュエリストナンバーである1から8までの玉を2つランダムに選びます。それでは、さっそくトーナメント1回戦の抽選を始めます。───アルティメットビンゴ、スタート!」

 No.1、海馬瀬人
 No.2、武藤遊戯
 No.3、城之内克也
 No.4、孔雀舞
 No.5、みょうじなまえ
 No.6、ナム
 No.7、獏良了
 No.8、マリク

 それぞれのデュエリストが透明なボールの中で転がる自分の番号を目で追う。そしてまずひとつ、ピンポン球らしい軽やかな音を立てて最初の番号が弾き出された。

「最初の対戦者、1人目は───」


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