荒い息と跳ねる泥の音、熱い手。雨に煙る森をカイトと、カイトに手を引かれたなまえが走っていた。カイトのもう片方の手が抱え込むリネンのバッグからは、リンゴやネーブルオレンジが覗く。

「───ハア、ハァ…… ハァ……」
「大丈夫か?」
 やっと雨宿り出来そうな木陰に飛び込み、片手はカイトと繋いだまま、なまえは反対の手で膝に手を当てて息を整えた。カイトも涼しい顔をしてはいるが、呼吸のたびに肩が上下している。
 ふいにカイトの手が離れて顔を上げると、彼はポケットからハンカチを取り出した。しかしそれも濡れていて、思ったような事をしてやれないのが悔しかったのか、なまえと目が合うと気まずそうにまたポケットへねじ込んで空を見上げる。
「暫く、やみそうにないな」
「うん……」
 草むす地面、窪んだ土にできた水溜り。雨粒とは別に、木から垂れた水滴が秒針を刻むように落ちている。
 なまえも貼り付いて顔に溶けた前髪をかき集め、耳に掛け直した。自由になった両手でワンピースの裾を引き寄せて絞れば、ずぶ濡れになったブーツにまた泥が跳ねる。
 カイトは静かに、そして気付かれないように顔を逸らした。膝丈のスカートに隠れていた太腿が、カイトの心拍数を上げたのだ。
 シワになったスカートにため息を溢したあと、なまえも空を見上げる。カイトの言う通り、手が届きそうなほど低い真っ黒な雲が森を覆い、雨足は強まるばかり。風も出てきたらしく、走った後で急激に冷え始めた身体が勝手に震えた。
「……!」
 自分の腕で身体を抱いた瞬間、別の手もなまえの身体を引き寄せた。驚いて覗き込んでも、カイトは空を見上げるばかりで目を合わせない。それでも優しく肩を抱いた手はさらにギュッとなまえを抱き寄せ、濡れて肌と一体化した服はダイレクトに手の熱を伝える。同じように、こんなに平静な顔をしておいて本当は崩れそうなくらい早い鼓動をしているのだと、シャツから透けるカイトの肌がなまえに耳打ちしていた。
 2人とも何も言葉が出てこない。ただ木の葉に当たる雨音と、そこから垂れるしずく、風の音。高くなり続ける鼓動に反して、指先や足先から奪われていく体温に震える身体、……それだけ。
 カイトの前髪から、水滴がポタリと鼻筋に落ちる。
「ハルトは、お留守番大丈夫かな」
「家にはオービタルがいる。……少しの間だけなら、大丈夫だ」
 少しの間だけなら。その言葉に、なんとなく「雨が止むまでここに居るつもりはない」というカイトの意思を察した。身体も冷えてきた事だし、またそろそろ走って道を進み、少しでも早く家に帰ろうという流れになるだろう。
 別に落胆などしていない。まだ幼いハルトをオービタル7だけに任せて、ほんのちょっと買い出しに出掛けただけ。それが突然の雨に見舞われて、2人の帰りは予定していたよりも遅くなっていた。
 この森を抜ければ、ハルトとオービタルの待つ別荘はすぐ。
 もう少しだけこうしてたいなんて願ったら、きっと天罰が下る。
「……だから、もう少しだけ、こうしていよう」
「え、」
 突然、雨の音が遠くなった。
 カイトの右腕にぶら下がるフルーツや蜂蜜の瓶が入った買い物バッグが揺れている。そらされていたはずの顔が、すぐ目の前にある。なまえに覆い被さるようにして、カイトは木の幹に両手をついて閉じ込めた。
 別にそんなつもりで引き寄せたつもりなどなかった。……嘘。期待はしていたと思う。
「カイト、背中が濡れちゃう」
「……」
 ほんの半歩分もない距離をなまえの腕が伸び、カイトの背中へ回される。引き寄せたのか、カイトの意思が先か、どうでもいい。そのままカイトの掌がなまえの首へ這い、目を閉じて顔を寄せる。
 ぽたり、とまた前髪から落ちた雨粒が鼻筋に流れた。だがその行き着く先は、もう地面ではない。

 離した唇からどちらともなく「はぁ」と熱い吐息が漏れた。背伸びしていた分だけゆっくりとかかとを地面に戻せば、雨に溶けたままの髪が、落ちもしないで名残惜しそうにカイトの指にすがりつく。
「なまえ」
 こんなに冷たい色の肌をしているのに、触れる手はこんなにも熱い。氷河でできたような色の瞳をしているのに、そこへ映るなまえを閉じ込めたカイトの目はこんなにも優しい。
 薄い唇がもう一度寄せられる。なまえはそれを待ち切れずに、またゆっくりと背伸びをした。



 すっかり雨雲が通り過ぎ、空には晴れ間が差し込んでいる。手を繋いだまま森を抜けたところで、どんな晴れ間よりも清々しい空色の髪が遠くで煌めいた。
「にいさん!」
「ハルト」
 長靴でバチャバチャと水たまりを踏みしめて走ってくるハルトに、カイトはパッと笑顔を見せて蹲み込んで腕を広げた。そこへハルトが飛び込んで来ると、レインコートで濡れるのも構わずに抱きしめて立ち上がった。
「カイト様、なまえ様」
 泥まるけにされたオービタル7もハルトを追ってやって来る。その手には傘が3本ぶら下げられていた。
「申シ訳ゴザイマセン、カイト様。ハルト様ハドウシテモオ二人ヲ迎エニ行キタイト申シマシテ……」
 カイトがオービタルに叱責するより前に、ハルトから「グスリ」と不穏な声が漏れる。
「に、にいさん、……僕、」
 ポロポロと溢れる涙に、カイトもオービタルもギョッとして慌てふためく。長い時間1人で留守番させてしまった罪悪感で、カイトはどう言葉を掛けるべきか詰まってしまった。そこへ腕が差し込まれ、カイトの腕に抱き上げられていたハルトを引き取る。
「ただいま、ハルト」
 さすがに大きく重くなったハルトを抱っこできず、なまえはハルトをそのまま下ろすしかなかった。それでも泥に膝をついて、なまえはハルトと視線を合わせる。
 大きな目が溶けそうなほど涙をこぼすハルトの頭を撫でた。
「たくさんお留守番できてえらかったね、迎えに来てくれてありがとう」
 そしてニッコリと笑った後で、うんと力一杯抱きしめた。
 やっと泣くのをやめてなまえを抱きしめ返すハルトにカイトも微笑み、膝をついてハルトの頭をなでた。その手にハルトはなまえの肩から顔を覗かせ、ニコリと笑う。
「さぁ帰ろう。今日はなまえとタルトを焼く約束なんだろ?」
「うん!」

 荷物を全部持たされ、はてはハルトが着ていたレインコートまで腕に引っ掛けたオービタルが3人のあとをついて行く。
 ハルトを真ん中にして手を繋ぎ、道の幅いっぱいに並んで歩くカイトとなまえの顔はオービタルからは見えない。それでも、楽しそうに、心から笑っているのはロボットの目にもわかっていた。
「にいさんねえさん、もう一回!」
「よし、いくぞハルト」
「水たまりを飛び越えよーう」
 よいしょ、と腕を引っ張られ、足の浮いたハルトが笑う。だんだんなまえの方は持ち上げる高さが落ちて来てはいたが、ハルトの可愛いおねだりは止まらない。
「ねえさんもう一回」
「もー、次が最後ね」
 次が最後、もう何回それを聞いたことか。少しすまなそうにしているカイトを見ないフリして、なまえは笑っていた。
「しかし、帰ったらまず風呂だな」
「じゃあカイトはハルトと先に入ってて。オービタルの泥も落としてあげなきゃ」
「ナント?! なまえ様……、ナントオ優シイオ心遣イ……」
 涙ぐむオービタルに、普段いったいどんな扱いを受けているのかと苦笑いする。

「僕、3人で入りたい」
「え?!」「な……ッ」
「……だめなの?」
 だめじゃないよ、以外の返事をすれば泣きそうなハルトを、カイトとなまえは必死に取り繕って説得した。


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