「そんな、うそだ、……姉様」

 絶望を孕んだVの声に、ハンドルを操作するXの手が強張った。同時に、車内が一瞬で凍りつく。
 肉体と魂を丸ごとエネルギーとして吸収される緩慢な死ではない。\のデュエルディスクの信号はVのデバイスにそのまま明滅を続け、生体反応だけが吹き消された。それはつまり、肉体と魂を切り離した、人間本来が所有する死の定義を、彼女が果たしたということ。
「姉様」
 呆然と呟く声は、Vがまだ現実を受け入れられていないことを物語る。隣に座る等々力やキャシーは慰めようのないのを知っていて、青い顔を見合わせることしかできない。
 Vは車内へ振り返った。カイトとオービタル7の隣に2つ空いた座席。1番後ろで小鳥に介抱される、倒れたままの遊馬。バリアンとして目覚めた凌牙と璃緒を含むバリアン七皇、その手から遊馬とアストラルを連れて逃げるこの道中で、すでに多くの仲間が倒れ、吸収されていった。
「(W兄様……)」
 Vはもう一度デバイスに目を落とした。\の肉体に残ったデバイスが発信し続ける位置情報、そのすぐ横で明滅する、Wの信号。足止めのために闘いに行った者で、もう残っているのはWだけ。\の死を直視したであろう彼が、どこまで冷静でいられるだろうか。
「……アイツが」
 その中でただ1人、カイトだけは素直にそれを受け入れた。全身を蝕む痛みや痺れが残る苦悶の中で浅い息を繰り返しながら、ぼんやりと霞む目を窓の外へ向ける。
 早々に諦めたように深く息をつき、カイトはもう一度目を閉じてシートに体を預けた。
「そうか」
 そうか。自分の恋人が死んだのに、カイトはそのたった一言で終わり。
「カイト……」
 バックミラー越しにそれを眺め、Xもまた意を決したようにハンドルを握り締める。今は仲間の死に、身内の死に悼む時間はない。カイトの態度にXが何も言わない理由をVもよく理解している。だからVもぐっと堪えて、膝の上で手を握り締めて口を噤んだ。
「(なまえが死んだ)」
 不思議なほどストンと胸にそれが落ちて、カイトはそれ以上のことをしようとは思わなかった。Vのように「うそだ」と否定することも、Xのように沈黙のうちに悲しむことも。おそらくWが一番喚いているだろう。そう想像のつく自分のことさえも、カイトは他人事のように見えた。
 きっと本当の他人からしたら、このカイトの態度すらも「可哀想」に映っているかもしれない。だけどカイト本人は、本当にあっさりと彼女の死を飲み下した。……\を、なまえを喪失するのはこれで二度目。慣れていると言われたら、きっとそれで終わり。それでもこれは違う。
 カイトは、彼女の死にどこか安堵すらしていた。


 ───『もし俺がアイツより先に死んだら、』
 なまえのいないタイミングで、カイトは世間話でもするような口ぶりでWに話しかけた。だが言葉を続けるより先に、Xの諫める声が降りかかる。
『カイト。滅多なことを言うもんじゃない』
 Wを呼び出しでもして2人きりで話せばいいものを、ついXやV、オービタルまで顔を揃える潜水艇の操舵室で話しかけたものだから、ややこしくなりそうな空気が漂う。もちろん本当に世間話をするような軽い気持ちで言ったわけじゃない。それはカイトの声でXが真っ先に気付いていた。
『いいじゃねぇかよ、X。あの“カイト様”が珍しく弱気になってんだ、話くらい聞いてやらねぇと。なぁ? カイト』
 小馬鹿にしたように笑うWにカイトは淡々と、しかし悪態には悪態で報復すると言わんばかりに「フン」と顔を逸らす。相変わらずいけすかないその態度にWが顔を引き攣らせるものの、すぐにまた口端を釣り上げてカイトを覗き込んだ。
『で? テメェが\より先に死んだら何だよ。俺にアイツを譲るとでも───』
『そうだ』
『……は?』
 肩透かしを食らって驚いたWの顔を横目に、カイトは視線のやりどころを探して適当なモニターをぼんやりと見つめる。
『俺が先に死んだら、アイツには俺以外の拠り所が必要になる。俺のあとを追って死なれるくらいなら、貴様に貰われた方がマシ───』
『兄様……ッ』
 言い終わるより前に、Wがカイトの胸ぐらを掴んで引き寄せた。拳を振り上げてはいないものの、殴る準備はできているらしい。咄嗟に止めに入ろうとしたとVが、結局手を出せずにおろおろとしている。
 金色の前髪から覗く鋭い目はいつになく真剣で、そして、どこか侮蔑を浮かべていた。
『ヤイ不良十字傷!!! カイト様ヲ離セ!』
『『引っ込んでろ』』
 カイトとWの低い声に『ヒィ!!! カ、カシコマリ』とオービタルは早々に身を引く。
『\はモノじゃねぇ。選ぶのはアイツだ。後を追って死なれたくなかったら、テメェがアイツを看取ってやれ。……そのすました顔を老け込ませた後でな』
 それだけ言うと、Wはカイトを突き放す。感情に任せて怒鳴ることも、まして殴るなんてこともせず、そんな至極真っ当な回答をしたWに、カイトよりもXとVの方が目を丸くした。
 「すました顔を老け込ませた後で」、そんなことを言われたからか、カイトは自分の顔を少し触る。右の手で左の頬骨を撫でるカイトが、いったい誰の顔を思い浮かべているのか。そんな分かりきったこと、今さら誰も想像を働かせようとさえしない。
『(俺には、アイツを幸せにしてやれる自信がない)』
 口にしていたら、今度こそWの拳が飛んできただろう。直接でないにしろ、仮にも同じ女を取り合った仲だ。もしこれが逆の立場だったならカイトだってWを殴る。だからこそ、Wから殴られるなり、叱責されるなりを望んでいた。そんな自己満足のためにWを利用しようと、またWを苦しめようとした己に歯止めをかけて、カイトは口を閉ざす。
『……じゃあ、ひとつだけ約束してやるよ』
 Wがカイトから何を読み取ったのか、今でもわからない。
『俺が\より1秒でも長く生きててやる。それで安心できるだろ』


 「初恋相手と結婚すると幸せになれない」。そんなことを見聞きしてもいなくても、関係ない。自分たちは幸せになれない。お互いに、心のどこかで理解していた。後ろめたいことを抱えたまま、互いに傷つけ合った痛みを背負ったまま。
 もし、かつてカイトに魂を奪われた人が復讐しに来たら、……はたして自分は、カイトを守るためにその人を傷つけられるだろうか。彼女がそんなことを考えていたのを、カイトは知っていた。どちらに転んでも修羅の道。せっかく取り戻した幸せを享受しても、彼女の心に巣食った「不安」は取り除けない。いつまたこの幸せが壊れるのか、いつまた誰かを失うのか、そんな見えない恐怖に怯えているのを、カイトは知っていた。
 元から、全て浄化できた、などと思い上がりはしていない。長い時間をかけて、ゆっくり関係を修復すればいい、などと楽観視してもいない。転生でもしない限り、自分たちの壊れた部分は治らないのだと、心のどこかで諦めたのだ。
 そう考え至ったのはカイトではない。なまえの方が、先にそう結論付けていた。


 ───『なんでかな、一緒にいる時の方が、少し悲しい』
 WDCあれからなまえは、トロンや兄弟たちと離れてひとり、カイトと一緒に暮らし始めた。しばらくしたある時のこと、そんなことを言ったなまえの気持ちが、最初カイトには分からなかった。
『なまえ?』
 オービタルの翼で連れて行った、ハートの塔の1番上。オービタルの凧を装着したままのカイトが背後から抱きしめるなまえは、自分を挟むカイトの膝を肘掛け代わりにしている。世界の何もかもを見下ろした場所に腰掛けて、それでも届かない宇宙の真空を見上げた。眼下の街明かりで薄ぼんやりと濁った夜空にあるのは、ほんの僅かな恒星と月だけ。


 一緒にいる時の方が悲しい。そんなことを呟いたなまえの顔は見えなかった。いつかその事が心残りになるような気がしていたが、なんのことはない。同じ気持ちになったいま、カイトにはあの思い出の中のなまえの顔が見える。
 甘えたくてしょうがない、女の子の顔をしたなまえが。
 鼓動のたび襲うズクズクと痛む頭痛。眼窩に心臓があるのかというほど自分の脈拍が憎たらしい。かと思えば車が揺れて今度は亀裂がはしるような鋭い痛みが体を裂く。常人ならすぐにでもケタミンなりモルヒネなりに飛び付くような中を、カイトはプライドだけで声ひとつ上げないで堪えていた。それどころか、痛みが増すにつれて精神は澄んでいく。心はいま、静かだった。
「(もう少し、……もう少しだ)」


 ─── 『世界に2人きりみたいでも、それはただの理想。幸せのうちに憎しみ合うかもしれない。そうじゃなくても、私もカイトも、いつか死んでしまえば離れ離れになる』
 体を預けてきたなまえにカイトが片手を後ろについた。自分を抱きしめるのに残された一本だけの手、なまえがそれに指を絡めてくるので、しっかりと繋いでやる。
『地獄も天国も、23次元の平行世界のどこでも、これから先の生きているあいだ中、ずっとカイトと一緒にいられるかどうかとか、生まれ変わったらとか、私はなにも考えたくない。……なにもかもから見放されて、生きているのか死んでいるのかわからないまま、……一緒にあの宇宙に放り出されたい』
 カイトの肩に頭を預けて、なまえが薄ぼけた空をぼうっと見上げる。その眼に映るべき銀河は届かない場所、もっと遥か彼方の真空。カイトは少し身動いで、なまえの耳元の髪に鼻先を埋ずめた。くすぐったかったのか、なまえの顔が僅かにカイトの方へ向けられる。それが合図だったかのようにカイトが目を開ければ、微笑んだ彼女と目が合う。
『憎しみも悲しみも、好きも愛もない、肉体と魂の境界もない。体が朽ちてしまうことも、魂が生まれ変わる約束からも見放されて、あの真空にカイトと浮いてたい。あれだけ広い宇宙なら、私たちはきっと塵にも満たないでしょ? うんざりするほどちっぽけで、何も考えないで。2人でたくさんの銀河を眺めるの』
 噤んだままの口で、カイトは自分を支えていた方の腕からゆっくり力を抜く。オートスリープで沈黙したオービタルが起きない程度に翼桁を繋いだフェアリングで背中を支えると、カイトもぼんやりと空を見上げた。
 体に乗っていた体重が軽くなって首を起こせば、なまえがカイトを覗き込む。垂れた髪を耳に掛け直してやりながら顔の火傷の大きな染みを撫でると、まるでその手が逃げるのを恐れたような手が重ねられた。
『そしたらきっとカイトもこう思ってくれるよ。“何億光年も離れた星で生まれていたかもしれない。出会うことができてよかった。”って』
 それとも、なまえの手が震えていたのは寒かったらだろうか。重ねられた手には、月明かりにも大きな傷跡がはっきりと見える。その手と頬に挟まれた自分の手を伸ばし、首から髪へと指を絡めて引き寄せれば、なまえは大人しくカイトの望むように顔を寄せた。
 長い長い愛の告白に返せる言葉などカイトは持ち合わせていない。だけど返事を急かすなまえの目を見れば、考えるより先に口が開く。
『もう思っているさ』
 それ以上の言葉は、口の中で直接交わした。




 ミザエルとの月面決戦を制し、《No.ナンバーズ100 ヌメロン・ドラゴン》の覚醒を果たしたのも束の間。……いいや、かなり前から、カイトは自分の体の限界を知っていた。激しい闘いと宇宙空間での銀河放射能被曝によるダメージはオービタルをも蝕み、ついには知能機能も停止した。
「父さん、……俺は後悔なんてしていない。これでやっと、アイツと一緒になれるんだから。……ハルト、父さんを頼む」
 その一言にフェイカーは息を飲んだ。自分がカイトにさせたこと、カイトに選ばせたこと、その全てが後悔となって押し寄せる。今更になって幼かった2人の初恋が、若かった2人の関係が本気だったと思い知らされても、もうフェイカーにしてやれることは何もない。
「カイト、……許してくれ」
「兄さん…… やだよ、……僕やだよ!!!」
 死を前にして、カイトは途切れ途切れになり始めたハルトや遊馬の声を聴きながら、歩み寄ってきたミザエルを見上げる。最後の力とばかりにカードを託すと、もうそれ以上体を動かすことはでなきかった。
「ミザエル、行け。……自分の信じる道を」
 亀裂の入ったバイザーに《operation system shutdown》の文字が流れた瞬間、凍結がカイトを襲う。もうすぐ通信も終わる。銀河のどこか、放り出された長い長い愛の言葉。
 意識を手放す直前、凍結で曇ったバイザー越しに、ミザエルではない、───見慣れたブーツのつま先を見た。

 ───『一緒にあの宇宙に放り出されたい。───体が朽ちてしまうことも、魂が生まれ変わる約束からも見放されて……』

「待たせたな。……行こうか、なまえ」
 その呟きも、微笑んだ顔も、通信の切れたハルトや遊馬たちには届かない。最期に見た銀河を閉じ込めるように、カイトの眼は閉ざされた。これで全てはなまえだけのもの。そしてなまえもまた、カイトのもの。一緒に宇宙へ放り出されたいと願った彼女の手をカイトが引く。
 何億光年も離れた星で生まれ変わってしまうかもしれない。だから何もかもから見放されて、一緒にこの真空を漂っていよう。



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