「そんなに好きかよ」

 海の真ん中に浮上した潜水艇。その甲板に寝転んでいた\を覗き込むなり、Wはそう嘲笑するように吐き捨てた。すぐに「あーさみぃ」と文句を言いながら、ブランケットでぐるぐる巻きになった\の横にどかっと座り込んで背中を甲板に倒す。そんなWをわずかな星あかりの中で見つめれば、鼻先やきらきらとした目の輪郭が、かろうじて真っ暗闇の中に浮かんで目視できた。
「なんのこと?」
「毎晩見に来てるだろ」
 そう言われて\は目線を戻す。天上いっぱいに煌めく星、空を隔てる銀河。人口の灯りひとつない広大な海の上は静かで、ほんの小さな星も、いまは何にも邪魔される事なく2人の目に光を注ぐ。
 ちらり、と小さく星が流れた。
「おっ 今の見たか?!」
 たったひとつの流れ星にはしゃいだ声を上げたWに、\は小さく笑う。
「うん。……今日でもう12個目」
「流星群でも来てんのか?」
「違うよ。街明かりで見えていないだけで、本当はいつも何かしら落ちてきてるの。引力に引き寄せられた宇宙ごみだったり、ほんの小さな隕石だったりが、いまみたいに人知れず成層圏で燃え尽きる」
 へぇ、と返したWの声が少し掠れていた。よほど寒いのか、腕を組んで震えている。
「だからさっきの流れ星はラッキーだったね。Wが最期を見ていてくれたんだから」
 そう続けながら起き上がってブランケットにWを招き入れ、背中に敷いていたパネルヒーターも半分譲ってやると、Wも有り難そうに潜り込んできた。\は場所代でも支払わせるかのように、Wの肩を枕にして転がる。
「こんなに仕込んでたのかよ」
「だって風邪ひくでしょ。それよりW、手が温まるまで触ん───」
 ないで、と言い切る前にWの冷たい手が\を抱き寄せた。思わずオクターブ高い声が漏れ、しまったと思う頃には首筋にWの冷たい鼻が埋ずめられる。熱い吐息が耳元を掠めれば、すぐに外気に触れて冷たい結露となり、髪を撫でた。
「ちょっと、“ルール”違反ッ ……サカんないでよ」
「チッ」
 寒いならさっさと艦内に戻れば済むのに、ここには居たいらしいWは大人しく天上へ顔を向けた。やっと静かな時間に戻ってため息をつくと、ミルクをこぼしたあとのような、ぼんやりとした流れに視線を戻す。
「あのデケェ星はなんだ?」
「どれ?」
「あれだよ、あー…… あれ」
 そんなに寒いのが嫌なのか、Wは随分ためらったあと腕を伸ばして指を差す。\も詳しいわけじゃない知識をひっくり返しながら、それでも分かりやすいものだけはぽつぽつと答えた。
「たぶんシリウス」
「あれは」
「赤いから、火星、……かも」
「じゃあその反対のは」
「あー、場所的にカペラかな……わかんない」
「他は?」
「……」
 もう、と悪態をついて\も腕を伸ばす。Wに顔を寄せて目線をなるべく合わせてやると、わかる範囲だけ指で辿った。
「あの3つ並んでるのがオリオン座。その真ん中でぼんやりしてるのが、星雲。あっちにもぼんやりしたかたまりがあるでしょ? あれがプレアデス。見る分には似てるけど、あれは星雲じゃなくて星団。プレアデスとオリオン座の間にある星のかたまりも星団のヒアデス。あのふたつのかたまりからこっちに、こうやって繋げると、おうし座。もっと西の方、見える? 細長い星の集まり、あれがアンドロメダ銀河。真上を見て、……あの、Mの字になるのがカシオペア座」
 段々と冷たくなってきた手をブランケットの中に戻すと、Wがその指先を握った。そのまま口元へ持って行かれ、温めるように包まれ息がかけられる。
「俺じゃ覚えきれそうにねぇな」
 言葉に合わせて指先にかかる吐息がくすぐったい。そのまま指を絡めて繋ぎ、Wの胸の上に置かれた。船を揺らぐ僅かな波音だけが響き、眠気と寒さが鼻をつまむ。
「あのふたつ並んでるのは無視か?」
「……いじわるね」
 ふたつ並んだカストルとポルックス。ふたご座という名前は、今の2人には少し毒。Wのいじわるはこれに尽きない。静かに開かれた唇から漏れる吐息を、\はただぼんやり聞き流す。
「カイトに教わったのか?」
 ああ、試したいんだ、このひと。
 答えるより先に、それこそカイトのことを思い出すよりも先に。最初からWのことしか考えない\の気持ちなど、Wが知る由もない。むしろ答えに時間が掛かれば掛かるほど、その小さな不安は大きな波となってWに押し寄せる。それを分かっていて、\はため息をついた。
「カイトより、……ハルトに教えてあげるためだったかな」
 覚えた理由はね。そう続けてもWは面白くなさそうに鼻で笑う。眼の中で煌めく銀河に誰を思い出したとしても、もうどうでもいいじゃない、なんて、Wには通用しない。独占欲と、嫉妬と、劣等感。どんなに素敵な日々を送っても、どんなに煌めくものを見ても、その中心は暗黒の穴。どれだけ愛しているか伝えても、言葉にするだけ空気になって消えていくだけ。
「Wって、カイトよりも銀河が似合う……ていうか、銀河に似てるね」
「あ?」
 唐突にカイトと比べられたのが余程癪に触ったのか、Wの怪訝な声が顔の真横で発せられる。たぶん、自分1人の言葉で言っても納得しないんだろうなと察して、\はポケットからポータブルデバイスを取り出し、リーディングリストから銀河についてのページを開く。
「銀河の中心はね、巨大なブラックホールなんだって。Sgr A*サジタリウス エー・スター、……私たちの生存している太陽系を含んだこの銀河は、秒速227kmでこのブラックホールの周りを巡って、破滅へと向かっている」
「……」
 デバイスを切って冷たくなった手をブランケットに潜り込ませれば、画面の人工光で眩んだ目が銀河を暗くする。何度かまばたきをしてからWを覗き込むと、\の視線に気付いたWも少し身動いで視線を合わせた。
「私もWも、お互いが銀河とその中心みたいだと思わない? 破滅すると分かっているのに離れられない。離れてしまえば、それもまた自分の破滅だから」
 Wが起き上がって\に覆い被さる。ブランケットの隙間から入り込む冷気も、いまは心地いい。
「ねえトーマス、本当は私に復讐したいんでしょ」
 違うな、復讐されたいという、私の願望。その顔を包んで右頬の傷を撫でれば、Wは眉間を寄せて目を細める。
「いいよ。Wのものである限り、私は罪人なんだから」
 フッと笑った唇にWが噛み付いた。それはすぐに甘いキスになり、息を漏らしながら侵入してきた舌を受け入れるしかなくなる。まるで、それ以上何も言うなと縋るような口付けに考えていたことを溶かし、手放して、\はWの首に腕を回す。
 はあ、と、どちらともなく息をついて、まつ毛が触れ合いそうな程の距離で見つめ合う。舐められたところからどんどん体温が奪われていく。冷たい鼻先が触れ合うたびに甘い疼きが目眩を起こす。
「もっと素直に“愛してる”とか言えねぇのかよ」
「ベッドの中でしか言えない誰かさんよりはマシでしょ」
「……ッ テメェ」
 くっと笑った\の顔を前に、本当に余計なところが似てしまった、と後悔しても、Wにはどうすることもできない。憎たらしい反面、それがどんな事であれ、自分由来だと言うだけで嬉しいから。
 Wは\の垂れ落ちた前髪をかき分けると、左の目元に唇を落とした。その行動に少し目を泳がせたあと、\がWの唇にキスを返す。“暗黙の交ルール渉”が成立したことに満足したのか、報復とばかりにWも口の端を釣り上げた。
「そっちもサカってたんじゃねぇか」
「は?! バッ……!!! 〜〜〜ッ! 一緒にしないで」
 夜目にも真っ赤にした顔を逸らす\を見て笑えてくるWだったが、小さく息をつくとその目は真剣なものに変わった。そっぽ向いた\の横顔、そのこめかみの髪の生え際に鼻先を突っ込むと、驚いた\を体の下に押し込めたまま、耳に唇を押し当てる。
「好きだ」
 それだけ囁いたWが離した耳は、一向に冷たくならない。優しく頬を撫でられWと顔を合わせると、銀河を背にしたピンク色の目が煌めく。しばらく見つめ合ってから、唐突にWが鼻で笑った。
「……ハッ、しかしまぁ、俺たちは銀河なんて大層なモンじゃねぇだろ。……そうだな、せいぜい引力に負けた宇宙ゴミってとこだ」
 もう一度寄せられた唇に期待するものなどありはしない。それなのに、冷めない吐息がまつげを揺らすたびに、どうしようもなく泣きそうになる。
 自分に垂れ掛かるWの髪の隙間、空にまた小さな星が流れた。流れ星に願いを叶える力があったとしても、私の願いなど叶わなくてもいい。絶対運命の宇宙を見てきた小さな塵が燃え尽きる瞬間、自分よりさらに小さなものを憐んで聞き入れる願いなど、叶わなくたっていい。
 無秩序の世界に放り込まれた私は、ただあなたと居たいだけ。
「破滅する前に、一緒に燃え尽きてやるさ」

 秒速227kmで破滅する恋に身を任せていたい。それだけ。


- 59 -

*前次#


back top