廊下側一番端の列、その一番後ろに天白尚人の席がある。そこから教室と廊下を隔てる溶かしガラスの窓と、廊下と外を隔てる窓を通して見る空は、厚く暗い色の雲に覆われている。昼間であって尚薄暗く、細い糸のような雨が絶えず地面に向かって線を引いている。若い色の木々の葉も色を濃くしていた。
 梅雨らしい景色を窓の外に見ながら、尚人は高い湿度でまとわりつくような空気を払うように、きちんと結んでいたネクタイを心持ちゆるめた。そうしながらぼんやりと黒板の方向に顔を向ける。
 ここへ来てから今日で3日目だが、いまのところ晴れた天気を見ていない。
そういえば今朝のまだ見慣れないニュース番組では、天気予報士が『本日入梅』と宣言していたように思う。ということはこれからも暫くこの陰鬱な天気が続くのだろう、そう思うと心にも影が差すようだった。
 さらに尚人の気力を奪おうとするのが、この慣れない空間だった。
 四角い部屋の中、二十余名の男子ばかりが等間隔に着席し、びしっとスーツを着た教師の話を真剣に聞いている。彼らはほとんどが薄青、次いで薄灰、ごく少数が白のシャツを着ていて、ネクタイをしっかり締めている。後ろから眺めているに、今時珍しく髪を染めている生徒もほとんど見受けられないし、いたところでほとんど目立たない茶髪ばかりだ。
 この学園での生活は、尚人がつい先日までいた学校とはあらゆる物事が違っている。何より町全体の雰囲気、空気感が、他とはまるで異なっていると感じる。
 それが具体的には何に起因するものかは点で見当がつかないが、尚人からしてみれば、違うのならその違いごと受け入れて慣れてしまうのが最も効率的であるように思える。そしてそれこそが今までの経験で培った尚人の処世術である。
 経験上、今までこれほど強く違和感、或いは疎外感を強く感じることはなかった。しかもこの町は母方の祖父母が住む馴染みのある場所で、この学園は自分の両親の母校でもある。実に奇妙で不思議な感覚だと思いながら、まあ転校してまだ間もないことだしな、と楽観視してみることにした。
 環境の変化には順応してしまうに限る。
 ただ、目の保養たる女子がいない、進学校だからってみんな真面目がすぎるな、とたびたび思ったりはする。現状に面白みがなくて、梅雨と遅れてきた五月病と編入のごたごた疲れでここ数日気分の落ち込みが著しい転校生にとっては甚だ優しくないではないか。
 そう、再三云うようだが自分は転校生だ。少し前に『慣れない空間』と表現したのはその為だ。いっそふてぶてしいほどに最初からここにいましたとばかりに席に収まってはいるが、ここに通うのは今日が初めてだし、知らない人間しかいない。
 尚人にとってみれば転校とは、16年の人生においてすでに4回も経験していることだし、今回で5回目だからそう珍しいことではない。それでも初日から数日はそれなりに緊張もするし気を張るものだから、普段より生きることに疲れるイベントだ。
 そして今回の転校においては、尚人にとってはより気の抜けない事情があった。
 幸い、生まれながらに社交的な性格で、人と融和することの技術面では並みの人よりも秀でているという自負がある。尚人にとって良質な人間関係を作れるかどうかは問題では問題ではない。
 それはもっと別のところから生じる問題だった。
 尚人は今、ある種の“駆け引き”をしているのだ。
その“駆け引き”は、ここへの転校が決まったその日から始まっている。相手は他でもなく、自身の父親だ。
 尚人の父は、簡単に言えば一筋縄ではいかないタイプの、人の上に立つために生まれたかのような、天性の才にあふれた所謂天才型の人間だ。そんな父のことを、尚人は尊敬してもいる。しかし、同時に常々苦手意識を持っていた。いつか見返してやるんだという、自分でも幼いと思うが、そういう対抗意識みたいなものが、やがて苦手意識の中から生まれてくるようになった。
 だから、きっかけこそあまりに唐突で、自業自得でもあったわけだが、それでも理不尽極まりないと腑に落ちぬことばかりだったにしろ、今こうしてここにいて自分の意思でやると大見得を切ったからには、やってやる、そんな闘争心めいたものを実は秘めている。
 父を出し抜くためには、自分をうまくコントロールすることが肝心だと考えている。。そうと悟られず、自分に優位に万物を動かしてこそ、そこまでしてこそはじめて見返せる、それが尚人の父親たる人間であるとさえ思っている。
 だから、そんな野望を達成する為に気を抜けないのだ、ここでの生活は。
 今のところは、これは自分自身の成長の過程であって、特に助けがいるわけでもないから誰にも言いふらすつもりはない。
 そんな気を抜けない事情を秘めながら、新境地では新たな人脈をつくり、問題なく高校生活を送る。それが当面の尚人の目標であり、目的だった。
 雨音をBGMに、結果的に意志を再確認した尚人は、やっとただ向けていただけの目の焦点を黒板に合わせた。
 さっきから自分に関する思考ばかりして、授業の内容は頭に入ってきていない。時々耳に残る言葉の端々が耳に引っかかり、辛うじて脳内に留まった程度だ。
 板書を読んでみればいくつかの要点がきれいではない字で記されている。そこから得た情報と、今まさに耳で聞いている話から、何の話をしているかくらいは推し量ることができた。それでも理解しているとは云い難い。さすが、国内でも随一の進学校は難易度が違うと思った。いつまでも今のように気を抜いていてはそれは痛い目をみそうだ。しかも、いくら転校生だから多少のイレギュラーを大目に見てもらえるとはいえ、授業中に一度も筆記具を触らないのでは印象が良くない。主に梅雨にかこつけてやる気はないにしろ、尚人は簡単にだがノートをとることにした。
 けれどしつこいようだがなにぶん転校初日だ。
 最初に頑張りすぎると飽き性が災いして目的が頓挫してしまうことも珍しくない尚人だから、しばらくは人脈作りのための情報収集に徹することに決め、数分のうちに筆記具を手放してしまうのだが……。


 袖を肘下まで捲くり、少しだけ首元を緩めた姿はさながら体育会系企業の若手営業マンにも見える風体だが、いざ向き合って見るとその印象も払拭される。
すでに完成されたような体躯には、それでもまだ成長しきらぬ若者の瑞々しさと、生命力に満ちた力強さが漲っている。大人びた顔も時に幼い印象を浮かべる笑み。



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