とっておきの選択
黒いような、七色のような、わけの分からない空間。現実味の無い空間に二人は座っていた。
この空間には紫苑と仁王以外誰も居ない。霊的なものも感じないので、仁王はほっと胸を撫で下ろす。しかし紫苑はそんな彼の横腹を小突いた。何するんじゃと仁王が横腹を押さえると紫苑は彼に冷めた視線を送った。
「阿呆、ここは鏡ン中や。奴はいつでもうちらに手ェ出せんねん」
「奴?」
「うちらをこっちに引き込んだ妖怪のことや」
「妖怪か…てか鏡ン中てどういうことじゃ」
「どうもこうもそのまんまの意味や」
一々質問するなめんどくさい、と紫苑は目で伝え、そっぽを向く。
「ここから出られんのか?」
半ば冗談のように仁王は問う。しかしそんな彼とは裏腹に、紫苑は真剣な表情で分からないと答えた。仁王の顔は固まる。
式神さえ操れる彼女が、真剣な表情で分からないと言うのか?ここで仁王は漸く、自分たちが窮地に立たされていることを知る。ひんやりとした汗が背中を伝った。「…なあ」緊張した面持ちの仁王を見つめ、紫苑は口を開く。
「ここで大人しく捕まっとくか、危険を承知で対抗するか…どっちがええ?」
いつになく真剣な、真面目な雰囲気。
冗談なんかじゃない。本当に危険なのだ。下手に動けば、本当にここから出られなくなってしまうかもしれない。だがそれでも…。
仁王は顔を上げる。
「そんなもん…」
―――答えは決まっている。
*
時刻は十四時になっていた。日吉、跡部と一緒に鏡を見回っていた赤也は、自分の無力さに地団駄を踏んだ。今までの自分の行動が無駄に時間を消費するだけのように思えた。
「どこ居んだよ先輩〜〜」
「落ち着け切原」
苛立つ赤也とは違い、跡部は比較的冷静だ。
「何でそんなに冷静なんだよ!心配じゃねえのかよ!」
「あーん?心配に決まってんだろ。だがこちらからは何もできないんだ。無駄に動き回って体力を消耗する必要は無い」
「…ッ!!」
彼の言うことにも一理ある。しかしそれを赤也は素直に納得することができない。
そんな中、跡部を睨みつける赤也を呆れたように見つめる日吉はふとある鏡に目がいった。それは渡り廊下にある鏡なのだが、その鏡に何か擦れたような跡があるのだ。触ってみるが取れない。外側からできた汚れではないらしい。では内側?しかしどうやって汚れたのか?すると日吉は何を思ったのか二人を放って渡り廊下の先の男子トイレに入る。どうしたと訊ねる跡部を気にかける余裕も無いように、日吉はトイレ内にある鏡を食い入るように見つめた。こちらにも擦れたような跡がある。
「この擦れ方、少しおかしくないですか?」
「あーん?」
日吉に言われ、跡部も確認する。
「…何だこれは」
「渡り廊下の鏡から続いています」
細い線が続くようにある擦れた跡。跡部は男子トイレを抜け、この階の他の鏡を見て回った。彼らは北側から南側に移動し、最南端にある一枚だけその跡は無かった。
「なあなあこれって…!」
「可能性はある」
期待と不安の混じった瞳で鏡を凝視する赤也を一瞥し、跡部は携帯電話を取り出した。今のところ一番有力なのはここの鏡だ。取り敢えず皆を集める。
「跡部部長!!」
「あーん?どうし…」
「先輩っ!!」
日吉の慌てた声に答えようとしたが、その前に赤也の嬉しそうな声に遮られてしまった。跡部は怪訝に振り返る。
鏡の中には、紫苑と仁王が居た。
「皆が居るぜよ…」
「思った通りや」
にやり、と笑う紫苑。式神で“あちら”と“こちら”の境目を傷つけながら歩き回った結果、二人は運良く跡部たちに気づいてもらえた。幸運としか言いようがない。“あちら”の空間に居る跡部たちが“こちら”の存在になっている自分たちを認識してくれているおかげで、紫苑たちは“こちら”から脱出できる可能性が格段に上がる。並行した二つの世界の一方が一方だけの力でその世界から出ようとするのは無理があるのだ。故に、“こちら”に居る自分たちを誰かに認識してもらわなければいけなかったのである。
「出られるか?」
「せやな、式神使えば……っと、あかん、こっち来ィ」
「え」
気づかれた。咄嗟に紫苑は仁王の腕を取って走り出す。“こちら”を覗き込んでいた赤也が残念そうな顔をしていたが気にしていられない。
「つ、土御門さん!」
「何や!」
「これ…どこ向かってるぜよ!?」
「気づいてくれそうな奴が居るところや!」
どのくらい走っているのかまったく判別できないこの空間。それなのに紫苑は迷いなく脚を進める。紫苑は走りながら、少し先に式神を投げる。式神は見えない壁にぶつかって弾け飛んだ。瞬間、空間に映像のようなものが出現する。
「向日!?」
仁王は驚きのあまり名を紡ぐ。そう、映像のように出現したその空間に、氷帝の向日が居たのだ。向日は口をパクパク開けてひどく驚愕している。そんな彼の様子に気づいたのか他の連中が同じように出現した。
「仁王!!」劈くような紫苑の声。振り返ろうとした瞬間、仁王は背中を強く押された。
映像が三次元になる。気づいた時には向日は立体的になっていて「大丈夫か!?」と身を案じる声もはっきり耳に届いていた。
「土御門さんは!?」
バッと振り向くと、目の前に紫苑が迫っていた。
「――え」
「退けや」
ドゴォ!腹部に強烈な打撃。刹那には背中に痛み。紫苑に蹴られて倒されたのだと理解するのに、少し時間を要した。
「う、わぁああぁ!?」
「ななな何じゃこりゃ!?」
野太い悲鳴に上体を起こすと、視界に奇妙な靄が入った。それは鏡から出ている。痛む腹をさすりながら、紫苑を見やる。彼女はポケットの中から紙を取り出している。
「皆早よここから出ろ!」
紫苑が叫ぶと皆一目散にして教室から出て行く。仁王を引っ張り起こして紫苑は先に彼を出す。仁王が何か言う前に紫苑が口を開いた。
「“真神(まかみ)”」
紫苑の唇からその単語が洩れた瞬間、式神から大きな狼が出てきた。背中しか見えなかったが仁王には彼女が不敵に笑っているように窺えた。
「行くで」
この空間には紫苑と仁王以外誰も居ない。霊的なものも感じないので、仁王はほっと胸を撫で下ろす。しかし紫苑はそんな彼の横腹を小突いた。何するんじゃと仁王が横腹を押さえると紫苑は彼に冷めた視線を送った。
「阿呆、ここは鏡ン中や。奴はいつでもうちらに手ェ出せんねん」
「奴?」
「うちらをこっちに引き込んだ妖怪のことや」
「妖怪か…てか鏡ン中てどういうことじゃ」
「どうもこうもそのまんまの意味や」
一々質問するなめんどくさい、と紫苑は目で伝え、そっぽを向く。
「ここから出られんのか?」
半ば冗談のように仁王は問う。しかしそんな彼とは裏腹に、紫苑は真剣な表情で分からないと答えた。仁王の顔は固まる。
式神さえ操れる彼女が、真剣な表情で分からないと言うのか?ここで仁王は漸く、自分たちが窮地に立たされていることを知る。ひんやりとした汗が背中を伝った。「…なあ」緊張した面持ちの仁王を見つめ、紫苑は口を開く。
「ここで大人しく捕まっとくか、危険を承知で対抗するか…どっちがええ?」
いつになく真剣な、真面目な雰囲気。
冗談なんかじゃない。本当に危険なのだ。下手に動けば、本当にここから出られなくなってしまうかもしれない。だがそれでも…。
仁王は顔を上げる。
「そんなもん…」
―――答えは決まっている。
*
時刻は十四時になっていた。日吉、跡部と一緒に鏡を見回っていた赤也は、自分の無力さに地団駄を踏んだ。今までの自分の行動が無駄に時間を消費するだけのように思えた。
「どこ居んだよ先輩〜〜」
「落ち着け切原」
苛立つ赤也とは違い、跡部は比較的冷静だ。
「何でそんなに冷静なんだよ!心配じゃねえのかよ!」
「あーん?心配に決まってんだろ。だがこちらからは何もできないんだ。無駄に動き回って体力を消耗する必要は無い」
「…ッ!!」
彼の言うことにも一理ある。しかしそれを赤也は素直に納得することができない。
そんな中、跡部を睨みつける赤也を呆れたように見つめる日吉はふとある鏡に目がいった。それは渡り廊下にある鏡なのだが、その鏡に何か擦れたような跡があるのだ。触ってみるが取れない。外側からできた汚れではないらしい。では内側?しかしどうやって汚れたのか?すると日吉は何を思ったのか二人を放って渡り廊下の先の男子トイレに入る。どうしたと訊ねる跡部を気にかける余裕も無いように、日吉はトイレ内にある鏡を食い入るように見つめた。こちらにも擦れたような跡がある。
「この擦れ方、少しおかしくないですか?」
「あーん?」
日吉に言われ、跡部も確認する。
「…何だこれは」
「渡り廊下の鏡から続いています」
細い線が続くようにある擦れた跡。跡部は男子トイレを抜け、この階の他の鏡を見て回った。彼らは北側から南側に移動し、最南端にある一枚だけその跡は無かった。
「なあなあこれって…!」
「可能性はある」
期待と不安の混じった瞳で鏡を凝視する赤也を一瞥し、跡部は携帯電話を取り出した。今のところ一番有力なのはここの鏡だ。取り敢えず皆を集める。
「跡部部長!!」
「あーん?どうし…」
「先輩っ!!」
日吉の慌てた声に答えようとしたが、その前に赤也の嬉しそうな声に遮られてしまった。跡部は怪訝に振り返る。
鏡の中には、紫苑と仁王が居た。
「皆が居るぜよ…」
「思った通りや」
にやり、と笑う紫苑。式神で“あちら”と“こちら”の境目を傷つけながら歩き回った結果、二人は運良く跡部たちに気づいてもらえた。幸運としか言いようがない。“あちら”の空間に居る跡部たちが“こちら”の存在になっている自分たちを認識してくれているおかげで、紫苑たちは“こちら”から脱出できる可能性が格段に上がる。並行した二つの世界の一方が一方だけの力でその世界から出ようとするのは無理があるのだ。故に、“こちら”に居る自分たちを誰かに認識してもらわなければいけなかったのである。
「出られるか?」
「せやな、式神使えば……っと、あかん、こっち来ィ」
「え」
気づかれた。咄嗟に紫苑は仁王の腕を取って走り出す。“こちら”を覗き込んでいた赤也が残念そうな顔をしていたが気にしていられない。
「つ、土御門さん!」
「何や!」
「これ…どこ向かってるぜよ!?」
「気づいてくれそうな奴が居るところや!」
どのくらい走っているのかまったく判別できないこの空間。それなのに紫苑は迷いなく脚を進める。紫苑は走りながら、少し先に式神を投げる。式神は見えない壁にぶつかって弾け飛んだ。瞬間、空間に映像のようなものが出現する。
「向日!?」
仁王は驚きのあまり名を紡ぐ。そう、映像のように出現したその空間に、氷帝の向日が居たのだ。向日は口をパクパク開けてひどく驚愕している。そんな彼の様子に気づいたのか他の連中が同じように出現した。
「仁王!!」劈くような紫苑の声。振り返ろうとした瞬間、仁王は背中を強く押された。
映像が三次元になる。気づいた時には向日は立体的になっていて「大丈夫か!?」と身を案じる声もはっきり耳に届いていた。
「土御門さんは!?」
バッと振り向くと、目の前に紫苑が迫っていた。
「――え」
「退けや」
ドゴォ!腹部に強烈な打撃。刹那には背中に痛み。紫苑に蹴られて倒されたのだと理解するのに、少し時間を要した。
「う、わぁああぁ!?」
「ななな何じゃこりゃ!?」
野太い悲鳴に上体を起こすと、視界に奇妙な靄が入った。それは鏡から出ている。痛む腹をさすりながら、紫苑を見やる。彼女はポケットの中から紙を取り出している。
「皆早よここから出ろ!」
紫苑が叫ぶと皆一目散にして教室から出て行く。仁王を引っ張り起こして紫苑は先に彼を出す。仁王が何か言う前に紫苑が口を開いた。
「“真神(まかみ)”」
紫苑の唇からその単語が洩れた瞬間、式神から大きな狼が出てきた。背中しか見えなかったが仁王には彼女が不敵に笑っているように窺えた。
「行くで」