“それ”は神などではない。崇高なものとは程遠い、人間の醜悪な想いの集合体だと、財前は本能的に悟った。ジリジリと灼かれるような感覚に惑わされながらも財前は必死に冷静を保とうとする。危険なものだと悟っていれば、次どう行動すれば良いか分かるだろう―――そう己を叱咤しながらも自分の足は動かない。隣の忍足に至っては茫然自失で何がどうなっているのかさっぱり理解できていないようであった。
普通に一見すればそこの“それ”はどこにでもいる女のように窺える。しかし財前は、“それ”が自分たちと同類ではないことを何故か理解していた。が、今はそれに疑問を呈している余裕など無い。

“………ぁ”

“それ”の唇が動く。と、同時に姿がこちらに近づいてきた。“それ”はどうやら忍足に用があるらしく、財前の姿など映っていないようであった。
「ッ――謙也さん!!!」
情景、光景、場面、面影、景趣、一駒。
全てが重なる。何もかも。想いを残して。“あの影”を彷彿させて。
「ざっざいぜ……!」
「ッ!!」
気づけば、財前は忍足の腕を引っ張って自分の背後に押しやり、腕につけていたブレスレットを引きちぎって“それ”に投げつけていた。
“それ”は突然のことに怯み、動きを止める。その隙に財前は忍足の腕を引いて階段を駆け下りた。まさにそれは、転げ落ちるような勢い。しかし財前にとっては“それ”と対面するくらいなら階段から落ちたほうがマシだった。
鳥居をくぐってからも忍足の腕を離すことなく、無我夢中で走り続けた。あの恐ろしい影が自分たちを追いかけてくるかもしれないという恐怖心が、無理矢理にも財前を走らせた。そして気味の悪い神社周辺から遠退き、市街地まで戻ると財前はやっと足を止めた。
「…なんやったんや、あれ」
忍足の蚊の鳴くような声に財前は答えることができなかった。財前の脳裏には先程の情景と共にセピア色の記憶が蘇っていた。すると不意に財前はあっと声を上げて腕を見る。そういえばブレスレットを投げてきてしまっていた。
「財前のアレってお守りみたいなモンやったん?」
「はいまあ……」
無くなってしまった寂しさが胸に広がる。しかし財前は袖口に違和感を覚え、反対の手で探ってみた。
「あっ」
「珠や…ブレスレットのちゃう?」
忍足の言う通り、それはブレスレットの珠だった。おそらく引きちぎった際、袖口に紛れ込んだのだろう。珠はひび割れていて、しかも気品高かった紫色が完全にくすんでいた。きっともう機能は停止している。
「なんかごめん、俺の所為でブレスレット…」
「いや、元々“ああいう時”の為のモンやったんで別にええです」
とは言ってみたものの、声音は気落ちしていたし胸中には無念さが広がっていた。
「…取り敢えず今日はもう帰りますか」
茜色は消え去り、空は藍色に変わっている。これ以上ここに居ても嫌なので二人は大人しく帰路についた。帰り道、二人は口を開くことはなかった。疑問やらたくさんあったが、とにかくもういっぱいいっぱいだったので何から喋れば良いか分からなかったのである。
「………アレー?」
しかしそんな折、背後から間の抜けた声が聞こえた。何かと思って振り返ってみると、懐かしい姿がそこにあった。
「え……倉橋、さん?」
「財前の知り合い?」
「まあ…」
最後に会ったのはいつであったか、と財前は頭を巡らし―――それはきっと“彼女”と過ごした最後の日ではなかっただろうかと思い出す。
「暫く見ィひん間にデカなって…ほんで隣の兄ちゃんはえらいまた厄介なんに捕まってもたなァ」
「!」
「えっえっ!?どういうことですか!あんた一体…」
忍足の動揺を心底愉快気に倉橋は笑ってから、彼はピチッと敬礼した。

「お初にお目にかかります。わたくしめは、古き京より伝わるかの有名な陰陽師家・土御門家の分家、倉橋家の第十四代目当主・倉橋栄架と申します」



「狭い部屋やけど、どーぞ」
ひどい謙遜だと忍足は思う。自分が通された部屋は客間で、おそらく忍足の自室より広いだろう。
四天宝寺中学から数駅離れた地域。明らかに地価が高そうなお金持ちの集う住宅街に、忍足と財前は倉橋という男に連れられてこの男の家に上がった。倉橋と財前は面識があってこの状況も理解できているようであったが、何も付いていけていない忍足は何故こんな高そうな家に上がっているのだろうと心底疑問に思った。
「さて、隣の子ォ……何クンかな?」
「あっ忍足です。忍足謙也」
出されたお茶は嗅いだことのない上品な匂いがした。倉橋はそのお茶を勿体ぶることなくズゾーッと勢いよく飲むと、ニコニコと笑った。
「忍足クンかぁ。自分、阿呆なんかな?」
「はっ…?」
「…まったく、何で貴舩神社にちょっかいかけるかなぁ…」
「謙也さんは阿呆な上、馬鹿ですから」
「先輩を敬えや財前」
「ハッハッハ。財前クンかて子供ン頃あそこで怖い思いしたやろ」
倉橋の言葉に忍足はつい財前を凝視する。財前は忍足をギロリと睨んだ。
「財前クンも昔な、忍足クンとおんなしような目に遭うたことがあってん。そン時財前クンを助けたんが本家の子供の…」
「倉橋さん!」
窘めるような財前の声音に倉橋はまたニコニコと笑う。彼の鋭い声を受けておいてよく笑っていられるなと、忍足は冷や汗を流す。しかし「いやあ、かわええ女の子やってんで?」と倉橋は言ったきりその話題を止めた。
「取り敢えず、これどーぞ」
そう言って倉橋が渡してきたのは、財前が持っていたのと同じブレスレットだった。
「え?これ…」
「奴さんの怒りが収まってくれるまで持っとき。貴舩(あそこ)はボクの庭みたいなモンやからボクが“みんな”に話つけといたるわ」
「いやいやいやどういう意味ですか!?」
神社は神様の家ではなかったのだろうか。忍足は思わず食い下がるがするりと避けられてしまい、結局何も訊き出せなかった。
言われるがままにブレスレットを付け、長居も程々に帰される。
「そうそう財前クン」
が、倉橋は門口の前で財前を引き留めた。
「…あの子、今京都帰ってきとうらしいわ」
「! ほんまですか」
「ほんまほんま。ま、でもすぐ神奈川に帰ってまうみたいやけど」
「………そうですか」
微小な変化だが、その時の財前は確かに落ち込んでいた。その後もう何も無いらしく今度こそ忍足たちは帰路についた。
「…なあ、“あの子”って誰なん?」
どうしても気になったので忍足はそっと訊いてみる。すると財前は意外にも怒ったり面倒そうな空気を出さなかった。ただ、懐かしそうに目を細めて「俺の親友です」とだけ言った。