「うーん、大分良うなっとるみたいやな」

紫苑の手首に指先を当てて目を瞑っているこの男は、彼女の祖父にあたる。記憶とは違い随分白髪が増えたが、その性格とは真反対の気難しそうな顔つきは変わっていなかった。
「じゃが、やっぱりまだ戻らんほうがエエやろ」
「……そうかな」
「儂の判断一つでアンタを危険に晒すわけにもいかんしのう。少なくとも中学を卒業するまでは向こうで生活しとうほうが安全やろ」
「そか」
「学校は楽しいか?」
祖父の言葉に紫苑の脳裏には最近日常を騒がせているテニス部の面々が出てきた。思わず、ため息交じりに笑みを浮かべる。
「……せやな、ぼちぼち」
「はっはっは!そうかそうか。ばあさんは?」
「ばあちゃんは元気すぎる」
祖父は大いに笑った。
この家は紫苑の実家にあたる、土御門家の本家だ。家主の祖父は三十六代目当主である。普通なら祖父はもう隠居し、家督を譲るほどの年齢なのだが、紫苑の父は婿養子で“才”や“感”は全く無い。だから本来なら母が当主の予定であったが紫苑が幼い頃に死別したしまったため、当主は未だに決まっていない。数年前は紫苑の兄を当主に据えようかという話が出ていたものの、彼の才能に限界を感じ、親戚一同はその話を白紙にしたのだ。
紫苑は、そんな身勝手な親戚が嫌いだった。
「……そういえば紫苑」
思い出したかのように、祖父が顎に手を添えて呟く。紫苑はハッとして顔を上げた。
「英架くんから久しぶりに連絡が来た」
「ふうん、で?」
「偶然らしいが“彼”と会うたらしい」
「は!?」
予想だにしない言葉に紫苑は珍しく驚きを露わにする。
「マジで?」
「おおマジじゃ。なんでも先輩が貴舩にちょっかい出したらしくてなあ…それで貴舩に住み着いとる霊たちが怒ったらしい。まああそこの神社の神さんはええ加減な神やからのう…あそこは無法地帯や」
貴舩には恨みつらみを持った人間ばかりが来ると教えられていたので、紫苑には祖父の言わんとしていることが理解できた。
「ほんで、解決できたん?」
「そりゃ英架くんやからな。その日の内に終わらせたようや」
ホッと息をつく紫苑。“彼”は紫苑にとってある意味で恩人なので悲しませたくはなかった。
祖父は紫苑の様子を暫く窺っていたが、不意に引き出しから真新しい数珠を取り出すと紫苑に差し出した。そう、祖父に状態を診てもらうのも目的であったが、これを受け取るというのが本命だ。
「……おおきに」
「気ィつけや。今日はもう早よ寝て、明日の朝さっさと帰り」
「うん」
その日はもう家から出ずに屋内で過ごした。夕食を摂ると紫苑は一番にお風呂に入れさせてもらい、早く布団を敷いた。自室はあの頃と変わってなく、埃が無かった。ずっと掃除をしてもらっていたようだ。祖父の気遣いに感謝の気持ちが湧く。
何故か目が冴えてしまったので紫苑は窓を開けて外を見た。神奈川とは違い、静かな夜だった。ふと雑木林の辺りに目をやると呆然と子供が立ち尽くしていた。暗い周囲に溶け込みきれずに、異物として存在している。それを感じ取った瞬間、紫苑の胸の内にぶわりと黒い靄が広がった。急いで窓を閉めると貰ったばかりの数珠を抱きしめて布団に潜り込んだ。
目を瞑ると日常の景色が目蓋の裏に広がる。今だけは、あの騒がしい日常を恋しく思った。