濡れた草の匂いが鼻腔を擽る。次いで雨の音が鼓膜を震わせた。ひやりとした空気が肌を撫で、彼は目蓋を開けた。白と灰色の世界。否、霧らしきものが辺りをうやむやにさせ、そう見えただけだ。目を凝らせばその先が見える。地面からは雑草が生え、鼻腔を擽らせる匂いの正体が判明する。霧雨が降っていたので腕を上げて顔を覆うが、無意味だった。ふと傍らにある大木に目をやる。濡れた草木が垂れてそこから雫が滴っている。視線をもう少し下げると、根本の辺りに誰かが蹲っていた。
体調が芳しくないのかと思って声をかけようかとしたが、何故か躊躇った。我に返り、彼は困惑する。一番最初に確認すべきことを今更認識したのだ。
「…ここ…どこや…」
全く覚えが無い。ここに至るまでの経緯が思い出せない。彼は額を押さえて目を瞑る。だが頭がぼんやりして何も考えられない。
不意にがさりと草を踏む音がした。顔を上げると先程根本で蹲っていた人が立ち上がっていた。上半身が裸で、赤く斑に汚れた腰巻を巻いている。体格と烏の濡れ羽色のような長髪からして、女だということが分かった。

“要らないの?”

女は振り向くことなく、彼に訊ねる。主語が無かったがこの時彼は女が何に対してそう言っているのか分かっていた。
瞬間、どろりと胸の内が融けたような感覚を持った。視界が点滅する。頭の芯が痺れて、何もかもがどうでも良くなった。ぎちぎちと悲鳴をあげる拳から力を抜いて息を吐いた。

それから――――彼は笑った。



「ん、」
「さんきゅ」
青春学園、通称青学。紫苑がここへ来るのは初めてであった。そういえばいつかの時、ジャッカルがテニスが強い学校でここを挙げていたことを思い出す。あの時は全く気づかなかったが、ここに兄は在籍している。
「………うちを二度もパシリに使うなんてええ度胸やな」
「そない言うなや。大体京都には行かなあかんかってんから、ついでにええやろ」
メールで自分の分の数珠も取ってきてくれと言われた時は、お前が行けやと罵りたくなった。しかし丁度赤也がいた手前、なんとか留まったが。
さてもう目的は達した。紫苑は早々に踵を返す。するとどういうわけか兄もそれに続いた。
「何でついてくんねん」
「おれも帰るからや」
兄と二人で歩くのは嫌いだが、これ以上拗らせたくないため口を噤む。沈黙が続き辺りの音がよく聞こえた。
「えっ。いなくなっていうことかい?」
「………なあっ、お前らは見てへんの!?」
「俺たちは見てないな」
「……心配だね、一夜明けても見つからないなんて」
なにやら不穏な会話が聞こえてくる。兄は足を止め、会話をしている男子生徒たちを見た。
「………手塚?」
「! 土御門先輩」
眼鏡をかけた男子が桐の存在に気づく。他の男子たちもこちらに目を向けた。(あ……)そこで紫苑はついさっき駅前でぶつかった関西弁の男子がいることに気がついた。
「金ちゃんがおらんようになってん!」
「は?」
「………彼は大阪にある四天宝寺中学校に在籍する白石蔵之介です。どうやら後輩の遠山くんと東京に来ていたらしいのですが、その遠山くんが昨夜から行方不明らしくて…」
手塚の説明を受け、紫苑は内心穏やかではなくなる。
「警察に連絡したほうが良いのかも」
「せやな……俺、行ってくるわ」
タマゴ頭の男子生徒の言葉に頷き、警察署まで行こうとした白石の腕を紫苑は掴む。
「えっ、な、何なん?」
「まあ待ちィや。その遠山とかゆうた奴を最後に見た場所、案内してくれへん?」
「………土御門先輩、彼女は?」
「おれの妹」
憮然な態度で言う桐を睨んで紫苑は「ほらさっさと案内しィ」と彼を引っ張る。白石といった彼は何が何だかといった顔だったが、言われるがままに紫苑を案内した。
学校を出て電車に乗り、東京駅の外れまで歩く。道を少し外しただけで喧騒は消え去ってたちまち静寂に包まれた。生憎紫苑は東京の土地に詳しくないので物珍しく周辺を見た。が、先程からある背後の気配に耐えきれなくなり振り返った。
「何でアンタがおるん。ていうか後ろの眼鏡は誰やねん」
兄である桐と、眼鏡の男子生徒。桐は確か手塚と呼んでいたのではなかったか。
「細かいことは気にしたらあかん」
「………」
「話を聞いてしまった以上、知らないふりをすることはできない。そして俺は手塚国光。青学テニス部の部長だ。君の兄、土御門先輩には生徒会でお世話になっている」
兄よりも手塚のほうがちゃんと理由を言ってくれたし、自己紹介までしてくれた。
「…バカ兄貴、手塚のことはアンタでなんとかしィや。うちは面倒見たらへんから」
「お前のほうが優れてんねんからお前がそこの兄ちゃんとまとめて面倒見たったらええのに」
無責任な発言に思わず苛立ったが、ふと空気が急に変わったので紫苑は前を向く。
「ここや」白石は振り向いた。顔色が悪く不安が見て取れた。紫苑はそんな彼に何も言うことなく、ただ眉をひそめた。