ポアロで朝食を





――カチャ

 カップとソーサーが合わさる音が響く。
 ピークタイムが過ぎた店内はすっかり静けさを取り戻し、店内には安室と有紗だけがその時を共有していた。

「有紗さん」

 器具の洗浄を終えた安室がカウンター越しにその黒い旋毛に声をかけると、有紗は手元で捲っていた本から視線を上げ、黒曜の瞳で安室の蒼眼を見つめた。

「安室さん、どうかしました?」
「僕、明日朝番なんですよ」

 安室がにっこりと笑顔を貼り付けて明日の出勤時間を伝えると、有紗は「はあ…?」と訝しげに首を傾げた。そんな有紗の反応を気にかける様子もなく、安室はゆったりとした足取りで空いている横の椅子に腰掛け肘をつくと、一度その手元に収まる本へ視線を落とした。
“本を閉じろ”そう言いたいのだろう、とそれ程長い付き合いではないが理解すると、コーヒーカップの側に添えていた栞を本に挟み閉じると、少しだけ考えた後に本をそのまま鞄へ滑り込ませた。気付けば1時間近くここポアロに居座っている事に気付いたからだ。

「朝番がどうしたんです?」

 本を鞄に仕舞い、くるりと向き合う様に座る角度を変え改めて安室を見つめると、その表情は相変わらず笑顔を浮かべている。どうやら機嫌が良いらしい。と言っても、不機嫌な姿は見たことがないのだけれども。

「僕、朝番の日は6時すぎにはお店にきているんですよ」
「早いですね」

 一体何を聞かされているのか、まさか勤勉自慢か?と有紗が会話の意図が読めずに眉間に皺を寄せると膝の上に置いていた手にスッ、と安室の手が被さる。益々怪訝そうに眉間の皺を深める有紗とは対照的に、安室は笑みを深めた。

「明日梓さんはお休みで、マスターは開店ギリギリにいらっしゃるんです」
「……」
「モーニングはミートボールとキャベツのミルクトマト煮です」
「…あの、もしかして……モーニング誘ってます?」
「ええ。正確には開店前の、ですけど」

 やっと話の全容を理解した有紗は眉間の皺を解放し、しかし今度は少しだけ頬を膨らませると安室を睨みつけ「分かりにくすぎです!」と不満を口にする。その睨みも、不満気な様子も、彼女のする事は大概愛しいと感じるのだから恋は盲目とよく言ったものだ、と安室は内心苦笑を溢した。

「で?明日来て頂けますよね?」

 問いかけであって問いかけではない。
 安室は当然ですよね、と言わんばかりの表情で被せていた手を平に潜り込ませると指先を軽く握り、甲を褐色の親指でスッとなぞる。思わずイエスと言いそうになる衝動をぐっと抑えて、細く息を吐いた。こうしてこれまで何度流されてきただろうか、流されてはいけない、そう踏み止まれた自分に脳内で拍手を送る。何を隠そう明日は休み。せっかくの休日、時間に迫られることなく思う存分寝たいのが本音だ。せっかくの寝溜めのチャンス(尤も寝溜めは出来ないんですよと目の前の人に言われたばかりなのだけれど)、起床時間が左右される大事な決断に負けてはいられない。

「せっかくの休日なので朝からはちょっと…」
「今日もお休みじゃないですか」
「今日は一応午前中働いてました!たまたまこの前の代休で午後お休みだっただけです」

 安室はふと、そう言えば先日、休日出勤が辛いと漏らした彼女にあまり共感できず『安室さんは働きすぎです、ワーカホリックです』とジト目で睨まれた事を思い出した。休日という概念が薄い生活を送っている自覚があるだけに、その時ばかりは苦笑いを浮かべ謝罪したことを鮮明に覚えている。

「ほら、そろそろ女子高生たちが来る時間だから離してください」

 未だするすると手を撫で続けている安室から逃れようと有紗が手を引くと、まるで逃さないと言わんばかりに指が絡め取られた。信じられない、とでも言いたげに目を丸くした有紗が必死に手を離そうとするが、その必死さが安室の悪戯心に火をつけるということをひとり奮闘している有紗は理解していなかった。

「僕としてはそろそろ公表したいなと思っているんですが」
「イヤですよ!炎上して刺されて死にたくないです!」
「そんなことさせませんよ」
「いいえ、有り余る若いパワーを舐めないでください!彼女たちは行動力の塊です!時として鬼になるんです!」

 椅子から立ち上がりふんふんと鼻息を荒くして女子高校生を鬼と表現する有紗に、安室はつい吹き出して声を上げて笑った。下から見上げる有紗の表情は至って真剣で、むしろ笑われていることが不満らしくその黒曜の瞳は些か険を帯びているように感じる。

「ふふっ…確かに、若い時の勢いは凄いですよね」
「そうですよ!なので、手を!」

 有紗がブンブンと渾身の力で上下左右に腕を揺さぶるが、そんな事で振り落とされる安室ではなく、むしろにこにこと余裕がありそうに見える。一見細身に見える安室だが、洋服の下に隠された身体が鍛え上げられている事を知ったのはつい最近だ。

「おわっ!」

 有紗が振り解く事を諦め、手をだらんと落とした時だった。まるでその時を待っていたかのように、ぐんっと腕が引かれる。想像しない安室の動きに驚き、可愛げのない声を上げてよろめく身体を、その逞しい腕に引き寄せられる。そうしてまるでそれが当たり前だと言わんばかりに、安室は自身の膝の上に有紗を座らせると、カフェ店員に似つかわしくない力強さで腰に腕を回した。抗議しようと安室を睨みつけた有紗だったが、眼前に迫ったその端正な顔と想像以上に甘い表情に頬を染めると、顔を背けることに背一杯で何か言葉が出てくることはなかった。

「手、離して欲しいです?」

 囁くように耳元でそう尋ねられる。こうされる事が弱いと安室はよく知っているのだ。

「て、手も身体も離してくださいっ」
「じゃあキスしてください」
「は?!」

 営業中の店内は、いつ人が入ってきてもおかしくない。ただでさえおかしな体勢に加え、そんな状況も手伝ってドキドキと心臓が高鳴っているにも関わらず、さらに難易度の高い要求に有紗は目を白黒とさせた。
冗談だろうか、声だけでは判別がつかず安室の様子を見ようと首を回せば、アイスブルーの瞳は少しばかり細められているだけで何もわからなかった。
こつん、額と額がぶつかる。
極至近距離に迫ったアイスブルーの瞳から視線が逸せない。

「ほら、早くしないと誰か来ますよ」
「そ、外ではいやですっ」
「残念。じゃあこのままですね」
「安室さんっ」

 数センチ動けば触れる、その距離で会話することすら恥ずかしい有紗とは対照的に、安室は楽しげだ。
本当にキスをしないと離してくれないのかもしれない、と緩まない腕といつ誰が来てもおかしくない状況に焦りを募らせた有紗は意を決したように安室の胸元に添えていた手で服を強く握った。この際、皺になる事なんて気にしていられない。

 視線を安室の唇に落としてから、ゆっくりと瞳に向けてずらしていく。
有紗の密かな決心を汲んだのだろうか、さっきまで楽しそうに細められていた瞳はすっかりいつもの垂れ目に戻り、その奥は蕩けそうな程に甘い色を宿している。
ミルクティーブラウンの髪を視界から消すと、押し付ける様にその唇に唇を重ねた。

「よくできました」

密着した身体がやけに熱い。
相変わらず楽しそうに笑っている安室を睨め付け、いつかこの余裕を無くしてやりたいと思うのだが、その機会に巡り会うことはこの先もたぶん、きっと、ないのだろうな、と安室の肩口に顔を埋めながら思う有紗であった。







洒涙雨