2月1日
ざわざわと人の賑わう昼の食堂。優は目の前に座った人物をじっと見つめたまま身動きが取れなくなった。口の中に残ったままのご飯をごくりと飲み込み、一度気持ちを落ち着けてから、箸を握っていない方の手で口元を押さえつつ、恐る恐る口を開いた。
「も、もう一度……」
「付き合ってくれ」
間髪を入れずに告げられた言葉は、さっき聞いた言葉と一字一句間違ってはいないようだ。
ふわふわした癖のある黒髪にサングラス、ブラックスーツを纏っているその胸元には『MPD』の入館証が付けられている。
平日の昼間、多くの人間が利用する食堂で、その人物は優の目の前の椅子にどかりと座り、何の前置きもなく「付き合ってくれ」と言い放った。
松田陣平
目の前に座る男の名前だ。
良くも悪くもかなり目立つ彼は、元機動隊爆発物処理班のエースで現警視庁捜査一課の刑事。愛想は無いがその容姿の良さから庁内の女性人気は高い、というのは隣でご飯を食べている同期の言葉だ。あいにく噂に疎い優には、目の前の人物が松田陣平という名前で、愛想のない怖い刑事という印象しかない。
安藤優。警視庁の総務部に勤務している一介の事務員。総務部で窓口的な役割を担っている。部署内の入り口付近に席を設けられたおかげか、総務部に配属されて数年、気付けばそんな立ち位置に落ち着いていた。その実、むさ苦しい男が対応するより若い女性が対応した方が、というご時世的に大っぴらには言い難い理由があるのだが。
従って、優は庁員と関りを持つことが多い。が、それでも所詮事務員であり、決して刑事に突然公衆の面前で告白されるような関係を築いた記憶はない。
各々がリラックスし賑わいを見せている食堂の、この一角だけに気まずい雰囲気が漂う。
隣に座る同期は居心地が悪そうに優と松田を見比べ、少し思案したあと、目の前の食事を食べることにしたらしい。しかし一言一句聞き逃さないように耳に全神経を集中させているせいか、一生懸命に動かす箸の先で里芋が小鉢の中でコロコロと転がっているのが優の視界の端で見えた。
「えっと、……どこに?」
一先ずこの重苦しい雰囲気を脱したい、優のそんな一心で苦し紛れに吐き出された言葉は、天然女子お決まりの“付き合ってくれ”の解釈違いのそれ。隣に座っている同期は思わず噴き出し、やっと摘まんだ里芋を小鉢へリリースさせた。
(なんか、ごめん。)
再び里芋と格闘することになった同期に心の中で謝罪する。そもそも優も(本当の天然女子がこんな事を言うのか)だとか(解釈違いなのではないか)とか、多少なり疑問に思うところはあるが、今はとにかくこの状況を打破したい一心で上手く頭が回っていない。
そんな状況を作り出した張本人である松田は、その整った顔の眉間に皺をつくり、仏頂面のお手本のような表情で優を見つめていた。いや、実際にはサングラスをかけているせいで分からないのだけれど。
優とて自分がそんなキャラクターでもなければ、告げられた言葉が“そういう”ことであるというのは分かっている。これまで異性に告白されたこともある。頭では分かっているが、どうしたって目の前の人物からそんな言葉が飛び出る理由が分からないのだ。
居た堪れなくなった優は、握ったままの箸の先で意味もなく味噌汁の水面をかき混ぜた。席に着いたときは湯気が立ち込めていた味噌汁は、すっかり冷めてしまっている。
ちらりと松田の顔を見ると、変わらず仏頂面で優を見つめている、ような気がする。なにせ室内にも関わらずサングラスをかけているせいで表情が読めないのだ。
(……この人、本当に私のことが好きなのか?)
笑うわけでもなく、照れるわけでもない。どちらかと言えばムッとした表情で優を眺めている人物が、まさか好意を伝えているとはきっと誰も彼も想像していないだろう。どう見たって取り調べをしている刑事と、その容疑者だ。
「……すいません、無理です」
蚊の鳴くような、怖い刑事に萎縮した無実を訴える容疑者のような、騒がしい食堂で対面の人物にギリギリ届く声量でポロリと溢す。隣の同期は息を呑み、隠す事なくジッと優を見つめている。
ジッとただこちらを見つめていた松田は、徐にポケットに手を入れスマートフォンを取り出した。よく見ると着信を告げるために振動している。それを数秒見つめた後、小さく舌打ちをした松田はようやくその腰を上げた。
「出直す」
その一挙手一投足を全て見ていた優を、松田はチラリと見る。照明がサングラスを透かして、文字通り、初めて優は松田と目が合ったことを認識した。
(意外と可愛い目してるんだな)と呑気に思ったことは、誰にも明かせない秘密だ。
そうして気まずい雰囲気だけを残した松田は、台風のように去っていったのである。