01
小鳥遊有紗は清掃の行き届いた真っ白な廊下を歩いていた。
日中の慌ただしい雰囲気は鳴りを潜め、有紗の足音だけがやけに響いているように感じる。
意図的に人払いされている廊下の先に見える診察室の扉を不躾に開けば、そこにはもう随分と見知った顔の男がベッドに横たわっていた。
警察病院で救急救命医として働く彼女は、ある特殊な職務に従事する人間を扱うことが多い。
公式のカルテが存在しないその人間は、名前はもちろん住所、既往歴、診療歴などあらゆる情報が秘匿扱いになっていた。故に交代制の敷かれる勤務体系であっても、その診療のほとんどを1人の医師が“専任”として従事している。
纏った白衣の右側、通常よりも重みを感じるポケットに手を入れ盗聴器発見器を取り出す。ベッドに横たわる男に教わった手順で操作を行い、異常を知らせない事を確認してからベッド脇に置いてあるパイプ椅子に腰を下ろした。
「降谷さん、今日は先週の傷の確認ですね」
有紗が声をかけて漸く瞼の奥に隠れていたアイスグレーの瞳が開かれる。褐色の肌であまり目立たないが、その瞳の下には薄らと隈が浮かんでいた。
「はい、お願いします」
「では傷口の確認をしたいので上着を全て脱いで座ってください」
上質なスーツを脱ぎその下に纏われていた白いワイシャツを脱ぐ。あまりにも無造作に脱ぎ捨てる降谷を見兼ねて、皺にならないようにデスクに収まっていたチェアの背にそのスーツを掛けるようになったのもいつしか習慣化していた。
「うん、綺麗ですね。少し押しますよ」
今回の患部とは別の部位―左脇腹―には、普通に生活していれば決して付く事のない傷跡が残っている。もう2年経ってすっかり薄くなった傷跡だが、それでも痛々しいと思ってしまうのは、この傷の経過を一番側で診てきたからなのかもしれない。鍛えられ無駄な肉のない彼の背中には、よく見れば大小様々な傷があり、彼の就いている職務の異常性を物語っているようだった。
「日常生活をしてて痛むことはありますか?」
「いえ、ありません」
「痛み止めの処方はどうしましょう」
「念のためお願いします」
小さく頷き衣服を着るよう促して席を立つ。
診察室の奥にある薬剤庫に指を滑らせ、目当ての薬剤ボックスを引く。パキッとPTPシートを割り必要な錠数を確認しデスクに戻ると、ワイシャツを纏った降谷が先程有紗の座っていたパイプ椅子に腰を下ろしていた。
電子カルテを開き処方する薬の名前を入力する。
視界の端で降谷が目元に指を置き指圧している姿が映り「寝不足ですか」とこれまたお決まりの質問をした。
デスク脇のプリンタから薬袋が掃き出され薬剤を放り込むと、デスクの端にその袋を置き降谷に向き直る。依然として目元をマッサージしている降谷がこちらを向くことはない。
「今日は寝てかれますか?」
「……1時間後に起こしてもらってもいいですか?」
「分かりました。明かり落としますね」
診察室の照明を落としデスクライトを付ける。極力ベッド当たらないよう角度を調節し、その光の元でデスクの引き出し奥にしまってある文庫本を開き、そっとその世界に身を委ねた。
▽▽▽
「降谷さん、1時間経ちましたよ」
きっかり1時間後、眠っている降谷に声をかけた。
自分が動いた気配だけで起きているだろうが、一応起こしてくれと言われた手前、毎度律儀に声をかけている。
「ありがとうございます」
「少しは寝れたようでよかったです。起きれますか?」
「ええ、大丈夫です」
降谷は普段の出立からは想像がつかない緩慢な動きで身体を起こし、小さく息を吐いた。だいぶ疲労が溜まっているようだ。
スーツとネクタイを手渡し、最後に痛み止めを渡す。すっかりいつもの降谷零に戻った彼は、疲労の色を窺わせることはない。
「もし傷が痛むようでしたらまた連絡してください。お大事に」
「はい、小鳥遊先生。ありがとうございました」
降谷零29歳男性
公安警察に所属する警察官
常に寝不足で身体には大小様々な傷がある、容姿がやけに整った人物。蜂蜜色の髪に褐色肌は此処日本では目立つことだろう。
“降谷零”に関して業務上知り得ていることはこれだけだ。
既に温もりを無くしつつあるベッドに腰掛け、ふと出会った日のことが思い出された。
前病院を辞めフラフラとしていた有紗を見兼ねた元指導医が、救急救命医として警察病院に誘ったのが3年前。救急は前期研修医時代に周ったきりで初めてに等しく、慌ただしく過ごして1年が経った頃に降谷は救急外来に訪れた。
緊急オペを行い麻酔がまだ効いているのか穏やかに眠るその顔とは裏腹に、満身創痍とはこの事かと、彼の身体を見た時に思った。
治癒しているものの多くの傷が付いている身体に上書くよう、左腕には鋭利なもので切られた裂創が痛々しい。今回のオペで一番難航した、左脇腹を貫通していた銃創は、無事に塞がってはいるがその痕は痛々しい。
『ワケアリの患者で、体調以外何も聞いてはいけない』
担当医になるに当たってそう言われ、最初こそ疑問に感じる事もあったが、院内で一番セキュリティのしっかりしている病室で、病室の外には2名、室内に1名の警察官が常に待機していたので“そういう人”なんだろうと納得した。
貫通していたこと、臓器を損傷していないことが不幸中の幸いで、術後の経過は悪くなく、本人の強い要望もあり想定された入院期間の半分で退院していった。
それから暫くは経過観察の目的で通院してもらったが、とても真面目なのだろう。退院後の処置もしっかりとされて、術後の経過はいたって良好。
今日で最後にしましょう、と話した3日後にまた大きな傷を作って現れた時は目をひん剥いた。
そうして何だかんだここ2年、変わらずに彼の担当医としてこれまでずっと彼の身体を診続けてきている。
最近ではちょっとした風邪でも診察予約を入れるものだから、救急外来の在り方を説こうとしたがにっこりと笑うだけで寝耳に水。諦めた。
それに…
「小鳥遊先生」
「わっ! 降谷さん、どうされました?」
もう開くことがないと思っていた診察室の扉が徐に開き、つい少し前まで眠っていた主が顔を見せる。シーツを撫でていた手を慌てて引っ込め何事もありません、と取り繕ってみるが、くすくすと笑っている彼にはそれすらもバレているのかもしれない。
「今日、ポアロに15時」
「え、ポアロ?15時?」
「その後も空けておいて。待ってます」
有無を言わさない笑顔で約12時間後の再会の約束を(勝手に)取り付けると、今度こそその背中は暗闇の先に消えていった。
時々、こうして一方的に取り付けられる約束。たいてい彼の別の顔がアルバイトしている喫茶店に誘われるのだが、それが細やかな楽しみになっていることなんて、とっくの昔に気づいていた。
いつだってそうだ。
いつだって、彼の後ろ姿はまるで怪我なんてしてません、と言わんばかりにしゃんとしている。
病院という場所に不釣り合いな程にしっかりと歩くそのスーツの中身は傷だらけなのに、傷ひとつありませんとでも言うように歩くものだから、いつもこちらの胸が締め付けられる。
聞けばもうずっと長いこと危険な仕事をしているらしいその背中は、誰かに預けることが出来ているのだろうか。
暗闇に消えていく蜂蜜色に、お節介ながらもそんな事を思ってしまった。
洒涙雨