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 職業柄というよりもその業務の特異性から、あまり日中に出歩くことが少ない身に昼過ぎの陽射しは些か刺激が強い。久しぶりに歩いてみよう、そう思った10分前の自分を恨みながら、陽射しの眩しさに目を細めて歩けば、漸くポアロの看板が視界に入った。

『ポアロに15時』

 元々そこまでしっかりしている方ではない自覚がある。学生の頃から約束をすっかり忘れることも多かった。さらに医師として社会に出たあとは、遅刻・リスケの常習犯だ。
 それなのにどうして、こうして一方的に彼に取り付けられた約束を律儀に守るのか、答えは出ない。

― カランコロン ー

 少し先に見える扉が開き、中から蜂蜜色の髪をした、エプロンを着用している男性が箒と塵取りを手にして外に出てくる。店先を掃くその元に歩を進め、3歩離れたところで足を止めた。掃除をしていた手を止めた店員はゆっくりと顔を上げて、にこりと笑顔を見せる。

「こんにちは、安室さん」
「こんにちは、小鳥遊さん」

 一種の確認作業だ。ついうっかり“降谷さん”なんて呼ばないよう、彼はこうして呼びつける度に店先でこの確認作業を行う。安室透だぞ、という透明な圧だ。
 どうぞ、と安室が扉を開きそのまま店内に導かれれば、中には看板娘の榎本梓が看板娘よろしく良い笑顔で「いらっしゃいませ」と迎え入れてくれる。
“いつも”と呼ぶには擽ったさを感じる程度にしか此処に訪れた事はないが、初めて訪れた時に安室からその席に案内され、それ以降有紗は決まって同じカウンター席を利用する。
「此処からは店員がよく見えるでしょう」そう言った安室の悪戯っ子のような表情は、有紗の知るふるやとかけ離れていて、なるほどこれが安室透なのか、と妙に感心してしまった。

「ご注文は?」
「カフェラテでお願いします」
「はい、かしこまりました」

 ポアロは非常に居心地のいい喫茶店だと思う。挽いた珈琲豆の香りと会話を邪魔されない程度のBGM、管理された空調、掃除の行き届いた店内。流行りのカフェのような騒がしさもなくて、病院近くにあれば常連になる自信がある。そう梓さんに話すと、安室さんが働きだしてから口コミから女子高生が増えて、こうして落ち着いた時間帯はかなり減ったのだと教えてもらった。

 ふと、そんな少し前のそんなやりとりを思い出し、そっと安室を盗み見る。
 褐色肌に蜂蜜色の髪の毛、優しげな垂れ目にそれを助長するような柔らかな雰囲気と丁寧な言葉遣い。確かに漫画に出てくる王子様のようで、なるほど女子高生が好みそうだ、と納得した。

 対して降谷はどうだろう。
 当たり前だが見た目は変わらない。しかし特徴的な垂れ目からは優しさというより鋭さを感じるし、言葉遣いだって同じ敬語であってももっと端的だ。

降谷と安室は一卵性双生児である。

 そう言われた方がよっぽど納得できるくらいに、初めて安室透と接した時はなかなかの衝撃だった。

「今日は一段と熱心に見てくれるんですね」
「え」

 つい見過ぎていたらしい。カウンターの奥で珈琲を抽出し終えた安室が口角を上げ悪戯っぽくそんな事を言うものだから、慌てて目線を下げた。テーブルの上で組んだ手がなんだか心許なく、意味もなく指先をマッサージしてやり過ごしていると、ことり、と白い泡がのった珈琲カップとクリームがたっぷりとのったケーキが置かれる。

「あれ、ケーキ頼んでないですよ」
「僕からのサービスです」

 随分と過剰なサービスだな、と内心苦笑を漏らしながら添えられたフォークでケーキを掬うと、しゅわっと軽いスポンジの中からとろりとクリームが溢れる。美味しい、と呟けば耳敏く聞きつけた梓が「最近安室さんが考案した新作ケーキで、その名も“半熟ケーキ”なんですよ!」と笑顔で教えてくれるものだから、一瞬本当に双子なのではないかと疑念が頭を擡げた。
 真面目なのか、凝り性なのか。あるいは両方か、そんな事を考えながらラテに口をつけると「あれ?」と梓がカップの中を覗く。

「あ、やっぱり! 安室さん、普段ラテアートなんてしないのに……まさか!」

そう言われ改めてカップを覗き込んだことを、この日程後悔したことはこの先もきっと無いだろう。


▽▽▽


 ポアロから少し離れた場所のガードレールに腰をかける。16時を回ると陽射しは大分緩やかになり、普段院内に篭り切りの身にも優しい強さだ。何を見るわけでもなくぼうっと行き交う車を眺めていると「お待たせしました」という声と共に安室が現れる。普段、自分が診るときとは違うラフな格好は、そのスタイルの良さを際立たせているようで少しだけ目のやり場に困った。スーツであっても私服であっても似合っているのだから、スタイルが良いというのは罪深い。

 エスコートされるまま彼の車に乗るのはこれで3回目だ。その見た目でスポーツカーなのか、とも思ったが、運転する姿があまりにも様になっていたので二の句が継げなかった。
 車に乗り込み何かを点検した後、安室がこちらを見て微笑んだのを確認し、漸く肩の荷が下りた。安室の呪縛からの解放の合図だ。

「お疲れ様です」
「毎度毎度、緊張して肩が凝ります」

 少しだけ身体をシートに深く沈めると、自然と吐く息が長くなる。間違えてはいけないという見えないプレッシャーが呼吸を浅くさせていたのだろう。首を左右に振れば、パキッと小さな破裂音が耳を掠めた。

「今日はどちらに?」
「秘密」
「いつも秘密じゃないですか」

 滑るように、とまではいかないまでも、不快に感じない滑り出しをする車に身を委ねながら行き先を尋ねるが、その答えを得られたことはこれまでない。いつも集合時間だけを告げて去るこの人は、その後の予定は全て“秘密”だ。
 窓の外を眺めながら前回はどこへ行ったっけ、と思考を巡らせれば「この前は東都タワーのライトアップ」と言われ、ああそうだった、と記憶の海からあの日の光景を引っ張り出した。何かのイベントに合わせて普段とは違う色に染まる東都タワーはなかなかに綺麗だった。


「わっ、きれい」

 他愛のない会話をしていると、いつの間にか海岸沿いを走っていることに気が付いた。夕日に照らされた海面は赤く染まり、キラキラとその道筋を照らしている。そんな海を一望できる人気が無い場所に車が停まり、少し重たい扉を開けると潮の香りが鼻腔を擽った。車の前に回り込むと、降谷さんも隣に立ち何も言わずに海を眺めている。少しだけ顔を盗み見ると、夕日に照らされたまつ毛が透き通り、海面のようにきらりと光った。

「先生、見すぎですよ」
「経過観察中ですので」
「前回で終わりじゃなかったですか?」
「放っておくとすぐにケガするから」

 そんなじゃれ合いにお互いクスクスと笑っていると、不意に手と手が触れ、どちらともなく指を絡めた。少し、ほんの少しだけ手を引かれた感覚がして、彼の腕に肩を寄せると視界が少しだけ暗くなる。近付いてくる顔に目を閉じれば、唇に温かくて柔らかな熱が押し当てられた。少しだけしょっぱいキスは、そこが屋外であることを知らしめられているようで、つい恥ずかしくなり下を向いた私には、彼がどんな顔をしていたか何て知りようもなかった。



「光とか、キラキラしたもの好きですよね」
「それ、子どもっぽいって言ってます?」

 夕日が沈んだ後の海は寒い。身体が冷える前に車内に戻り、連れられるまま訪れたレストランでの食事中、そんな会話をした後に連れて来られたのは港だった。リニューアルオープンしたばかりだという遊園地と水族館の複合施設を余すところなく見れる位置で、目玉である観覧車がカラフルにライトアップされていてとても綺麗だ。
「見てて」そう言われじっと観覧車を見つめていると、小さな破裂音と共に花火が打ち上げられる。車内から見る、ライトアップされた観覧車とその側で打ち上がる花火は、さながらドライブインシアターを鑑賞しているかのようで、少しの非日常が胸を高鳴らせた。まさか10代の恋愛でもあるまい、自分とは違う体温を感じる右手にドキドキしているわけでも、隣で花火ではなくこちらを見ている男のせいではない。たぶん。

「おまわりさん、見すぎですよ」
「パトロール中ですので」
「パトロールするような警察官でしたっけ?」
「有紗限定でね」

(ああ、もう。ずるい)

 不意に呼ばれた名前、助手席のヘッドレストに回った手、花火を遮る顔、握った手のひらをなぞる指、そのすべてがずるい。煩いくらいに騒いでいる心音が伝わりませんように、そう祈りながら瞳を閉じた。




洒涙雨