相互利用の心
「…さん、ナマエさん!」
ハッと脳が目を覚ますと、目の前には心配そうな顔をした安室が少しホッとしたような顔になった。
「コーヒーが覚めますよ」
そう言った彼のおかげで俺はようやく何時の間にか提供されていた暖かなコーヒーの存在に気が付いた。カップに触れるともう丁度いい飲み頃だ。触れたせいで起きた波紋が水面の上を規則正しく広がっていく。
その黒い水面は鏡のように反射して、ひどく疲れたような顔をした俺の顔を映した。しっかり眠っているつもりだが、精神的な何かが現れているのだろう、我ながらひどい顔をしていると思う。
「…悪い」
「いいえ」
全く気にしてないといったふうに、にこりとほほ笑む安室はそれでもやっぱり心配そうだ。
全く人が目の前にいるというのにぼっとするのは失礼だ。自分の顔を見たくもなく、眠気覚ましにとコーヒーを飲んだ。いつも飲んでいるポアロのコーヒーでもなく、自宅のコーヒーでもなく、今日いるここはコーヒーの専門店だけあっておいしいのだが、素直においしいと言えるような気持ちではない。
あの日からずっと俺の心はどこか薄暗い。
「あなたがそんなにぼうっとするなんて珍しいですね。何かあったんですか?」
「…身近な人が亡くなったんだ。実感は全然ないんだけど」
「そうですか…。それは残念でしたね」
残念そうに眉毛を下げる安室に、別に言わなくてもいい事だったかもしれないと後になって後悔した。せっかくこんな所に連れてきてくれたというのに、暗い気分にさせては世話がない。
だが言った言葉を取り戻すという事は人間はできない。
それならば、なんならいっそ相談してみようか。
「なぁ安室だったらこういう時どうする?」
仲良くしている奴がもしも、死んだら。
俺も安室も、常に危険と隣り合わせだ。そして周囲の仲間たちもそれは常に同じであって、今回のようにぱたりといなくなってしまう事だってたくさんあるだろう。
常日頃から死が身近にあると分かっていても、人というのはきっぱり割り切れないもので。いざそれが起きれば、ズルズルとこうして考えてしまうのだ。時の流れが解決してくれる事もきっとあるだろうが、それでも今は辛い時なのだ。
「そうですね、僕ならいつも通り過ごします。周りに心配もかけられませんし…。でも一人になったら泣いてしまうかもしれません。あなたみたいに」
「え」
するりと伸びてきた手は、俺が反応するよりも早く頬に触れると親指で目の下をなぞった。それは優しく涙を拭いてくれているような、そんな動きだ。
「昨日泣いていたでしょう。隠しているようですが、まだ目が腫れていますよ」
「…冷やしたんだけど」
「僕の目はごまかせません」
ふふふと穏やかな笑みを浮かべて、頬をなぞるその手はひどく優しく穏やかだ。慈しむようなその手にすがりたくなってしまう。
「もっと僕に頼ってくれていいんです。あなたの側には僕がいますから」
「…悪い。ありがとな」
「はい」
赤井がいなくなった穴を、安室に埋めてもらおうだなんて事は考えていない。
けれども今はこの辛さを、誰かに理解して欲しかった。例え安室が甘い言葉を吐いて、本来の目的を達しようとしていても、今だけはそれを甘受させてもらってもいいだろう。
「安室は、いなくならないよな」
「えぇ。どんな形であれあなたの側に」
*
「それで?お祝いパーティーに最適な所を知りたいって何、結婚するの」
「断じて違います。探偵業に依頼がありまして」
じとり。伏し目がちにその青い瞳を見ると、あからさまに違うと言うのだからきっと事実なのだろう。
せっかく安室といるのだから、先ほどまでの悲しい気持ちを引きずっているわけにもいかない。今度こそ話を切り替えようと本来俺を呼び出した理由を聞いてみた。
どうやら安室は本業の公安とはまた別に探偵業として活動を始めるらしい。
今回の安室の依頼者は新婚の妻。夫の浮気を疑っているというなんとも典型的なものだ。逆にベタすぎて面白くないのだが、当の本人にとっては大問題なのだろう。安室の働くバイト先を結婚パーティーの会場にセッティングをするらしいが、ここで何故俺が出てくるのか不思議でならない。
「あなたは米花町のいろんな所を食べ歩いているでしょう?せっかくですからおいしい所がいいかと思って」
「たしかに色々食べてはいるがな。そこでお前が働けるかって言ったら話は別じゃないか?」
話を聞くに安室がそこで働けない限りは会場に指定できないのだ。いくら良い所を紹介した所で採用されなければまた次に、となる。それなら手っ取り早く適当に募集をかけている所に行った方が早いと思うのだが、そこはこだわりがあるらしい。なんとも面倒な話だ。
「パーティーならお店が広くないとダメだな。貸切ができて、広くて飯がうまい」
うーん。思い出すように空を見る。いくつかぽんぽんとあがってくるが、どれもこれもおおよそパーティーには向かないだろう場所ばかりだ。そもそも俺はそんなに大っぴらな場所には行かないのだ。だが、せっかく頼ってくれた人間を無碍にする事もできまい。
「あ、一件ある。米花町のうまいイタリアン」
「本当ですか?それじゃあそこにします」
「そこにしますって…募集してなかったらどうするんだよ」
「それは心配いりません。この僕ですから」
「自信満々だな」
そんな所は安室らしいけど。
きっとどんな事でもこの男は本当にやってみせるだろう。それこそウェイターなんてすぐになり切れるに違いない。何せ完璧主義だ。失敗するはずがない。
「それじゃあそのお店、さっそく行ってみましょう」
「は?」
「この後はせっかくだからおいしいランチでもいかがですか?」
たしかにこの店ではコーヒーしか飲んでいないのだが。
まさか今後の事を考えて昼より前に会おうなんて言ってきていたのなら、やはりこの男は抜け目がない。きっと今も今までも安室の思い通りに俺は動いているのだろう。
「…いいぜ。行こう」
「え?」
「何、誘っておいてその反応」
「いえ、いつもは悩んだり僕が強引に連れて行く事が多かったので」
あなたが行こうって言ってくれて嬉しいです。
綺麗な笑みを浮かべてそう言う安室に、たしかに今までそうだったかもしれないと振り返ってみた。思えば安室に対しては突き放す事が多かった。それは単に突き放しても戻ってくるだろう、なんて自分に都合のいい妄想をしていたからかもしれない。
だが、あいつがいなくなった今。周囲の人は大切にしなければと思えるようになったのだ。いつか人は死ぬのだから好きな時に好きな人と好きな事をしよう。
「ここ最近は安室に世話になってばっかりだしな。…店の場所分かんないだろうから俺の車に乗せてやる」
「!本当ですか!?嬉しいです」
「そんなに車乗るくらいで喜ぶなよ」
「だってナマエさんは車をとても大事にしているでしょう?それに僕が乗せてもらえるなんて、」
「…なんて?」
「嬉しいなぁと思って。そうと決まれば早く行きましょう。俄然お腹がすいてきました」
「調子がいいな」
まぁいいけど。
空っぽになったコーヒーカップを置いて、代わりに机の上に置かれた伝票を持ってさっさと会計を済ませる。たった二杯のコーヒーだ。大した金額ではない。だと言うのに安室は何かそわそわと言いたげだった。どうせ「支払ってくれなくても」みたいな事を言いたいのだろうが、普段こっちは高い肉奢らせているのだ。コーヒー代くらい払う。というよりそこまで俺は小さい男じゃない。
そんな安室を後ろに連れて、近くの駐車場に向かうと愛車は停めた時のまま俺を待ってくれていた。
鍵を開け、運転席に座ってシートベルトをつける。安室はまたもそわそわしながら、助手席に座ると同じようにシートベルトをつけた。これで出発の準備完了だ。
「それじゃ行くか」
「はい。お願いします」
自分の車の助手席に人がいるというのは不思議な感じだ。
目だけを動かして隣を見れば、見た事もないくらいニコニコした安室がいて。こんなに喜ぶなら、もっと早くにでも乗せてやればよかったなんて思ってしまった。
あぁ、心がどこか落ち着かないのは、俺もどうやら同じらしい。
(大切にしているものに乗せてくれるって事は、またあなたの心に一歩近づけたという証拠じゃないですか?)