旅の薬師


私は旅の薬師である。

南は沖縄から、船や馬、徒歩で渡り歩きとうとう最北端の雪国、北海道までやってきた。そして私がいるのは北海道の西に位置する小樽という港町である。

「北のウォール街」として発展した小樽には、毎日多くの大型船が船舶し、町には洋風の建物が立ち、めまぐるしい変化をとげていた。町が発展すれば自ずと人が集まるもので、人が増えればあらゆる物の需要も増える。町はずれの路地裏に位置するボロい宿で細々と広げられる商売でも、客に困る事はない。


天気がいいからと泊まっている部屋の障子を開け放ち、道路に面する縁側で薬箪笥を広げる私は、小樽に来てから点々と場所を変えながら薬を売っていた。
この明治時代、薬学の近代化は目覚ましいものがある。しかし、多くの医薬品は海外から流入した物で、扱える者は多くはなかった。だからこそ、昔ながらの草花を使った薬は今も信用度が高い。たしかな薬と腕を求めて、人は薬師に手を伸ばし、その人にあった薬を調合するのが仕事である。

長い事旅を共にしている使い古された薬箪笥から、乾燥した植物の根を取り出して、小さな薬研に入れて細かく粉砕する。これは何ら変わりのない手慣れた作業だ。いつもと違う事と言えば、今はそれを見学する人間がいる事だ。宿の前を通りかかった洋装の男は、ズカズカやってきては何も言わずただただ私の作業を見ていた。ぎょろぎょろ動く黒い目は一挙手一投足を見逃さないと言うように瞬きもしない。

「なぁ。あんたはお客さんかい?どこか悪いようには…見えるが、おそらくそれは薬じゃ治りませんよ」

その男は見た事もないような額当てをしていた。皆が皆初対面ではまずその額を見る事間違いなしの代物だ。(私も例にもれず失礼ながらその額を繁々と眺めてしまった)直接その下を見た訳ではないが、きっと薬ではどうにもならない物だと言う事は、その額当てをしている時点で分かる事だ。療養中の怪我なら包帯を巻くだろうし、まず額当てなどつけないだろう。

「なに。噂の薬師の腕前を見に来ただけだ」
「噂?」
「この宿に滞在する薬師の腕がいいと評判だよ」
「…わざわざ見にいらしたのですか」
「そうだよ」

君の手さばきは見事だね、と髭を撫でながら言葉をこぼすこの人は見た目も変わっているが、中身も少々変わっているようだ。今のご時世根無し草の薬屋など怪しい事この上ないというのに、わざわざ見に来るとは。
身なりからして貧困層という訳でもなさそうだし、私のような奴とは縁がなさそうだ。冷やかしなら帰って欲しい所だが、彼の何か探るような目が気になる。

「これは何の薬を作っているのかね?」

男は私の手から視線を薬研に移して、すりつぶされている中身を見た。薬研の中ではまだ潰し足りない乾燥した根が入っている。またほどほどの力を加えながら薬研を転がすと、パキパキ、ゴリゴリと耳に心地いい音が響いた。手から伝わる振動も、私にとっては落ち着くものだ。

「堕胎薬です。娼館から頼まれたものでしてね」
「なるほど。…では今潰しているのは鬼灯の根かな。たしか、酸漿根(さんしょうこん)だったか」
「よおくご存じで」
「これくらいは誰でも知っているさ」

今潰している鬼灯の根はカラカラに干してあって原型をとどめていないのだが、堕胎薬と聞いて分かるなんて、彼はただ者ではなさそうだ。薬師…には見えないな。

飽きもせずに手を見るその人の顔を、作業をしながら見つめているといつのまにか手から伝わる反動がほぼなくなっている事に気が付いた。材料を入れた時は力を入れて引かねばならないが、徐々に砕かれ細かくなればもう力を入れる必要はない。
中を見てみれば、根はほぼ粉上になっていた。続いて箱振るいにかけて更に粒子を細かくする。煎じて飲むこの粉薬に、固まりがあってはいけない。粒子の大きさが整った後は、一回分の量を匙で分け、懐紙で包めば商品として卸せるだろう。後はこの薬を飲む遊女に飲み方の指南をしなければ。

使い終わった薬研や材料を背後に置いていた薬箪笥の中に片づける。薬研は一番底に、材料はそれぞれ元の場所に、テキパキと片づければ三分も掛らない。

「今日はこれで出かけますので、店じまいです」

夜になると遊女と会話する時間も何もあったものではない。早めに届けるのがいいだろう。そうと決まれば早く行かねば日が暮れてしまう。

一度玄関に戻り、履きなれた靴を縁側の下に放り投げた。唯一の荷物である薬箪笥の後ろに一度しゃがみ、箪笥につけられた特注の肩紐に腕を通して背負い上げた。相変わらず重たいが、一度背負ってしまえばなんて事はない。

「ほぉ。それを持ち上げるとは君はすごいな」
「慣れればなんてことはないですよ。見た目より重くはありません。…それじゃあ用事がないなら私はこれで失礼します」
「そうか。残念だな」

そう言う彼は、まるで演説のように大袈裟な手振りといかにも残念だ、という顔をしていてなんとも胡散臭い。これはお世辞という奴だろうか。いまいち真意が量りえない。

「去る前に聞きたいのだが、君はここで明日も商いをするのか?」
「いやぁ、明日にはここを出ていくつもりです。まだ小樽にはいるので、用事があるなら探してください」
「ハッハッハッ面白い。かくれんぼか」

今度は私にも分かるくらい、男はニッと口角をあげた。なんだか愉快な笑い声でも聞こえてきそうなくらいの不気味な笑みである。
私を探す事をかくれんぼなんてかわいらしい表現をしたのはこの男が初めてだ。やはり変な男だ。

「よし分かった。また明日出直そう」
「…それではこれで」

出直すと聞こえたが、まぁまた明日来るならば明日話を聞けばいいだろう。見つかればの話だが。

空の端がもう橙色に染まりつつある。娼館まで早く行かねば。縁側の障子を閉めて、未だニコニコする男を背後に宿の敷地を出た。表に出ると、人や馬の足音があっちへ行ったりこっちへ行ったり忙しない。その度に舞い上がる土埃が、いやでも人の多さを実感させる。

「…?」

通り過ぎる人々の会話も少し鬱陶しい。耳でも塞ぎたい気分だと無意識に眉間に皺を寄せると、雑音の中に何か違う音が混じっているような気がして足を止めた。それはあまりにも小さい音で、何かは分からなかったが音源が少しずつこちらに近づいてきているようだ。

「…〜尉!中尉〜!どちらにいらっしゃいますか!?」

それは野太い男の声のようだった。中尉とやらを探して走り回っているらしい。その声は少し息があがっているらしい。ふと視線を声がする方へ向けると、隣で立っていた男も釣られるように大通りの方へ視線を向けた。

「おや、迎えが来たようだ」
「…貴方は迷子か何かだったのですか?」
「そうらしいな」

ハッハッハッとまた愉快な笑い声を響かせる彼は、軍服ではないから分からなかったが軍人らしい。彼が軍人という事は、その額当ての下は戦争で負った傷か何かだろう。軍人という事が分かれば、彼の雰囲気やふるまいは腑に落ちる事が多い。

わずかに探す声が近づく中、彼はようやく探している人物の元へ行く気になったようだ。私の横を通り過ぎて通りの人混みへと混ざっていく。やはりその額当ては人混みの中にあっても目を引く。

「あぁ、そうそう。警察に通報はしないでおくよ。くれぐれも取り締まりには気を付けたまえ」
「…」
「それではまた」

額当ての男が立ち去った後、私もすぐに娼館に向かうためにその雑踏の中に紛れ込んだ。

あぁ、なんという事だろうか。軍の中尉にまで私の噂が広まっていたという事は、つまり警察にも噂が流れるのは何も遠い話ではないだろう。噂が流れる事は商売上ありがたい事だが、後者は御免こうむりたい。
藪薬師の私が警察に見つかるのは非常にまずいのだ。きっと有無を言わさず捕まる事は間違いない。これは今後の身の振り方を考えなければいけないだろう。

「…面倒な事になったなァ」