旅の薬師弐
あの不思議な出会いから数日。私は小樽の娼館に身を潜ませていた。
案の定警察が私の事を嗅ぎまわり始めたらしい。安易に薬箪笥を背負って歩きまわる事ができなくなったのだ。そんな小樽からはさっさとおさらばしてしまうのが最も望ましいのだが、いかんせん懐がまだ心もとない。小樽はお得意様も多く、簡単に手放してしまうのも勿体ない。
そこで一番のお得意様であったこの娼館の空き部屋を借りて住まわせてもらっているという訳だ。警察もわざわざ中までは調べには来ないだろう。
もちろん匿ってもらうのもタダではなく、薬を作ったり雑務を手伝ったりとそれなりの労働はしているつもりだ。遊郭は華々しい印象があるが、裏方は力仕事が多く経営には男手も必要なのだ。
とは言っても本業もあるので、今は手元に集中しなければならない。取ってきた質の良い葉を洗浄した後、火で炙って木の板の上に並べて包丁で細かく刻む。
あたり一面は男と女の声で溢れているが、この部屋はいつも薬を作る音で満ちている。夜蛙や鈴虫の声を聴いていてもなんとも思わないように、色を纏う声など気にしなければいい話だ。というよりいちいち反応していたら仕事にならない。
トントン。トントン。
あまり切れ味がいいとは言えない包丁で板の上の葉を刻む。焦がしたとて葉は葉であって、やはり刻むと青臭い。その匂いと戦いながら包丁を動かしている間に、部屋の前の廊下を一人、また一人と男の影が右へ左へと歩いてく。その影はやはりどこか楽しそうだ。
この先には常世の春が待っているのだから、男としては楽しくて仕方がないだろう。
そうしてまた一人、人一倍ルンルンと身体を弾ませる男が通り過ぎる。と思いきやその影は来た道を戻って廊下を右往左往に行ったり来たりし始めた。はて、迷子だろうか。影の行方が気になって、包丁を握ったまま見守っていると、何を血迷ったのかスパーン!と勢いよくこの部屋の障子を開けた物だから、私も思わず身体が固まってしまった。
「あれぇ?鈴子ちゃんじゃない」
それは相手も同じようで、一瞬海苔巻おにぎりかと錯覚してしまうほど間抜け顔な男はこてんと首をかしげた。その顔は赤く、どこからどう見ても泥酔していた。
「…鈴子は一個隣の部屋の遊女だが」
腰をあげるのが面倒なので、葉を刻みながら顎で右隣だと指してやっても男は「うーん?」とまた首をかしげる。男がやっても可愛くないというのに二回も見てしまって私の気分は下がる一方である。
しかも私の言葉を理解できないとなるとよっぽど酔っているという事だろうか。酔っ払いに絡まれると至極面倒なのはここ数日で嫌と言う程身に染みている。
「ふんふんふーん♪」
しかし嫌にご機嫌な客だ。障子を開け放ったままのんきにその場で鼻歌を歌っている。嬌声が響く中での鼻歌とはとても異質であった。
「…ハァ」
もうすぐで葉を刻み終える所だ。それまでに出ていかなかったら隣の部屋に押し込んでくるか。面倒だがそれが良いだろう。そう思い立ち、包丁で最後の一刻みをしているとその男は何を思ったのか、ふらふらな千鳥足で部屋に入ってきたのだ!
「なぁんか良い音〜」
「あっ!入ってくるな!汚ねェ!」
決まった場所を持たず、外で薬を煎じていた事のある私が言うのもなんだが、あまり外部からの客は受け入れたくない。埃は舞うし、そこらかしこに道具や材料が置いてあるのだ。
この酔っ払いの調子だと薬箪笥の角に頭をぶつけて死ぬなんて冗談みたいな事が起きそうだ。
「…あ〜眠い」
「は?おいおいおいちょっと待て」
足取りがおぼつかない男は、よろよろと部屋の奥、つまり私の方へと歩いて来た。かと思えばへにゃりと身体の力が抜けたように畳に横になり、身体を仰向けにして大の字で目を瞑った。頭こそぶつけなかったものの、どちらにせよ迷惑行為である。
「おい」
「…」
「おい」
「…」
「寝るなら隣の部屋で寝やがれってんだよ…!」
仕方なく座っていた座布団から腰を浮かして寝転がった身体を軽く蹴っても、「ぐぅ」だの「すぴー」だの顔に似合う間抜けな寝息が聞こえてくるばかりだ。
この海苔巻きおにぎりは(もはやおにぎりですら勿体ない例えだ)物の数秒で意識を飛ばしたらしい。
これには怒りを通り越してあきれしかない。いくら酒に酔ってるとは言ってもこれはないだろう。何せここは遊女がいるわけでもない、私の作業部屋なのだ。この後も作る薬はあるというのに、気が散って仕方がない。
「おーい、起きろ」
声をかけてみるが、男はこれまた随分幸せそうな寝顔で眠っている。やはりその息は酒臭く、無意識に鼻をつまんだ。薬の臭さは慣れてどうって事はないが、どうにも酒の匂いはこっちまで酔いそうで苦手だ。
もう片方の手で男の胸倉を掴んでその目を開いてやろうとガクガク揺さぶってみる。しかし、男は全く起きる気配もなくされるがままだ。更に強く揺すって見ると、元々付きが甘かったのか、上までしまっていた釦が嫌な音を立てて服からぽろりと零れ落ちてしまった。釦が取れたせいで緩くなった首元から、少しだけその肌が見える。
「…黒?」
肌色であるべき鎖骨の下から見えたのは見覚えのある黒い入れ墨のような模様だった。
その瞬間私の目はこれでもかと言うくらい目を見開いて、酒の匂いもいとわず両手でシャツへと手をかけた。
まさか、まさか!
シャツの下の、その肌に期待が膨らむ。もしかしたら、私の求める物が転がってきたかもしれない。バクバクうるさいほど高鳴る心臓をどうにか落ち着けながら、でもやはり気は逸り、釦を外すのも煩わしくなって無理やりシャツを引っぺがした。(はじけとんだ釦には酔ったせいだと後で説明をしておこう)
シャツの下に広がる入れ墨は、鎖骨下から腹、脇腹へと伸び、背中は見ていないがこの様子だと上半身にぐるりと入っているようだ。
「…違う」
その全容を見て、私の口からは自然と落胆の声が漏れた。入れ墨は入れ墨だが、私の想像していたものとは違ったのだ。期待をして損した気分だ。
ただこの奇妙な入れ墨はなんだろうか。規則性もなく、芸術的にも良いとは言い難い。でも私の求めているものではないのだから、それ以上考えるのは無駄というものだ。
先に刻んだ葉を専用の容器に移してから、寝転んだ男の足首を持って、隣の遊女の部屋に放り込んだ。さすがに変な目で見られたので事情は説明したが、何やら良からぬ噂でも立てられそうで恐ろしい。
少し痛くなった胃を抑えながら、自分の部屋に戻りようやく安息の時が訪れた。ホッと安心するとなんとなく口寂しくなってくる。
薬箪笥の中から古い煙管一式を取り出して、丸めた刻みたばこに火をつけた。持ち手が竹でできているこの煙管は、比較的柔らかな味がするのが特徴だ。ゆっくりゆっくり煙を吸い、口内には甘味が広がる。フッと息を吐き出してみれば、先ほどの酒臭さなど忘れるくらいの良い香りを伴った白い煙が漏れた。
ぷかぷか浮かぶ白い煙にふと手を伸ばして見ても、その煙は手に触れる事も空にとけて消えていく。まるでその煙が、手に届きそうで届かない私の求める物のように思えて虚しくなった。
煙を吐き出していたというのに、いつの間にかそれはため息にすり替わっていた。
*
「あいたっ!!」
「おやァ。…お客さん頭大丈夫かい?」
「それは今ぶつけた頭の事?それともこの服の事?」
「ぶつけた方だ」
翌朝。箒を持って娼館の表を掃除をしていると、昨夜見かけた海苔巻きおにぎり男が壁に激突していた。まだ酒が抜けきらないらしいその足取りはおぼつかない。
そしてやはり、上着でうまい事隠しているが服は私が引きちぎったままで、所々破れている。本人は全く覚えていなさそうだが、改めて見てみると申し訳ない事をしたと罪悪感が沸いてくる。
「お兄さん、ちょっと待ってろよ」
一旦箒を壁に立てかけてから、駆け足で部屋に戻り、薬箪笥の中から小瓶を掴んで表に戻った。壁に寄りかかってぼーっとしている男の手に無理やりそれを掴ませると、彼は昨夜のように首をかしげた。
「なぁにこれ」
「たくごの薬。打撲とか切り傷に良い。ぶつけた所にでも塗っとけ」
「へぇー!いいのぉ?いいのぉ?」
「あぁ」
せめてもの謝罪と罪滅ぼしに渡したそれは昨夜作った抗菌作用のある薬だ。少ししかこの男の事は見ていないが、きっとどこかをぶつける、切るなんて事は日常茶飯事な気がするから、きっとこの薬はすぐになくなるだろう。
「頭、気を付けろよ」
「なんか棘のある言い方!!」