染まる


「あーもう、早く逃げないと…!」

夜の十二時を回ったと言うのに、未だにチラホラと電気が付くオフィス街の中。
上を見上げれば首が痛くなるような高さのガラス張りのビルからスーツの女が一人息を荒げながら外へやってきた。いかにも残業をしていた、といったくたびれたシャツにボサッとした髪。その姿は夜のオフィス街には驚くほど馴染んでいた。

そんな彼女の目の前に鋭いブレーキ音を響かせながら白い車が一台、ピタリと止まった。それはタイミングを計ったように現れ、ウィーンと独特の音を立てながら運転席の窓が降ろされる。

「ビターズ早く乗れ!警察が来る」
「キュラソー」

開いた運転席から飛んできた声に、ビターズことナマエは慌てて後部座席に乗り込んだ。シートベルトを付ける余裕もなく、キュラソーの運転する車はアクセル全開で走り出す。急加速した車体についていけない身体は座席に押し付けられるようだった。

「さっさと逃げるよ。長居は危険だ」

ギュルルルルと聞いた事もないような唸り声をあげながら一台の車が道路に躍り出た。
キュラソーは言葉遣いも粗暴だが、運転も同様荒っぽいらしい。
外の景色がとんでもないスピードで流れるにも関わらず、急な車線変更を繰り返して次々と車を抜いていった。その度に大きく揺れる車に慌ててシートベルトを付けて、ようやく後ろの様子を伺う事ができた。さすがにまだ警察車両は見えないが、追い抜かされた車があっという間に点になっていく。

「全く、とんだヘマをしてしまいました」
「本当にね」

先ほどまでナマエがいたのは、今度来日する大統領を警備する予定の警備会社が入っているビルだ。そこにキュラソーとOLのフリをして潜入していたわけなのだが、予想だにしなかったセキュリティに引っかかって警報を鳴らしてしまったのだ。

盗んだ情報はきっちりキュラソーの脳内に収まっているものの、逃げ切れなければ意味がない。ひとまず彼女を脱出させてナマエは魔法で証拠隠滅をしていたのだが、まさか車で戻ってくるとは思いもしなかった。彼女が車を持っている、なんてことは聞いた事がないのでおそらく盗難車だろう。

「どこに向かってるんですか、これ」
「ひとまずここよりは遠くかしら。しばらくはドライブに付き合ってもらうわ」

OLのフリをするために着ていたスーツのジャケットを脱ぎながら、ナマエは運転するその後ろ姿を見る。

キュラソーとナマエが一緒に仕事をするのは、実は二度目である。
一度目はキュラソーは得意の変装をし、更には接触時間も短く今日初めてその素顔を見た。

輝く銀髪に不思議な色合いの瞳。日本でも、いや世界のどこへ行ってもその容姿は目立つだろう。そして彼女の肩書は組織のNO2、ラムの腹心。うまくいけば彼女から一気にNO2の正体までたどり着ける可能性もない事はないのだ。

せっかくの機会、みすみす逃すわけにはいかないと野心を燃やしながらもナマエの表情は仕事の猫かぶり仕様だ。ツンとすましながら、窓の外を見る。

「そういえばあなた、前と少し変わったわね」

ブロロロロ

二人は元々お喋りが好きではなく、必然的に車内にはエンジン音だけが響いていた。そんな中、ふとキュラソーが思い出したかのように言った言葉に、ナマエは視線を窓から社内へと戻した。

「変ったって、何が?」
「そうね、…雰囲気かしら。前より取っつきやすくなったわ」
「そうですかね」

とっつきやすくなったというのは具体的に何がどうなのかは分からないが、キュラソーにはそう見えたらしい。少し驚いてルームミラーに映るその顔を見ると、一瞬ミラー越しに視線がまじりあう。

一度しか会った事はないが、彼女は前回も、ついさっきも仕事中はクールで荒っぽい印象だった。けれど今ふ、と笑いをこぼす姿は年相応だ。元々彼女はスーパーモデルのような美人なのだ。笑った顔は美しい。

「バーボンのせいかしら?」
「聞いてたんですか」
「結構有名な話よ」

思いのほか黒の組織というのは噂好きのようだ。
もしや噂の、というか全ての元凶はジンではないかと疑ってしまうが、どうせ大本は隣のウォッカだろう。後で噂の元でも探ってみようか、と窓の外をぼうっと見つめていると外の景色にだいぶ見慣れた建物が多い事に気が付いた。

大きなビル街を通り抜け、スーパーやパン屋、カフェが立ち並ぶ生活感あふれる通りへ。気が付かないうちに米花町まで走って来ていたらしい。この道にも見覚えがある、真っすぐ進めばナマエの住むマンションがちらりと見えるはずだ。

この時無意識に、ナマエは車の窓ガラスから外を覗き込むように外を見た。
青信号をまっすぐ進んで、ぼんやりとした明かりで道路を照らす外灯を何本か通り過ぎる。そして一瞬、ほんの一瞬建物と建物の隙間から光りのついたマンションが見えた。

「あ」
「どうしたの?」

カーテンをしめたのだろう。その光りはすぐに見えなくなってしまったが、あの部屋は間違いない。

(私の部屋だ)

通り過ぎるほんの一瞬でも、さすがに自分の家を間違えるはずがない。
自分がいない今、あそこの部屋に明かりがついているのはもう一人の住人が戻ってきているという証だ。

「キュラソー、そろそろドライブは終わりにしましょう。追手もいない事ですし」
「いいけど、どうしたのよ。急に」
「ちょっとばかり用事ができました」

突然そんな事を言うナマエに怪訝な顔をして「ふぅん」と声を漏らすキュラソーは、それでも一応車を止めてくれるらしい。適当な細い路地に入ると、今度は音もなく路肩に停車させた。

「私はこのままラムに報告に行くわ」
「助かります、キュラソー」
「…あなた、やっぱり変わったわね」
「そうですか?でも私は今の自分の方が楽しいですよ」
「!」

シートベルトを外して外に出ると、外灯もない路地はやはり薄暗い。それでも車のライトがある分の数メートルはまだ明るく、空に散る塵がキラキラと輝いて見える。光があるだけで随分と見え方が変わるものだ。

わざわざ運転席の窓を開けたキュラソーに「今日はありがとうございました」と御礼のひとつでも言えば、またひどく驚いたような顔をするのだから、凝り固まった顔も少しは緩んでしまう。

あぁ、言われてみれば前より表情筋が緩くなってしまったのかも。

「あなたも、そういう顔ができるのね」
「笑ってます?」
「さぁ、鏡でも見てみたら。それじゃ、今度こそ行くわ」

そう言うや否や彼女の視線は真っ直ぐ前を向き、手慣れた様子でサイドブレーキを下げる。再びアクセルペダルも全力で踏んだのだろう、タイヤが強くアスファルトを蹴り上げて矢のように飛び出していった。

やっぱり彼女の運転は荒っぽい。その場には一瞬でナマエと轟音だけが取り残された。



「ただいま帰りました」

おろされた路地から、ナマエの住むマンションまでは徒歩でもそんなに時間がかからない。

いまだ履きなれないパンプスをひっかけて、残業疲れのOLそのものの姿で玄関をくぐると、温かい空気とおいしそうな香りが漂ってきた。案の定彼は帰ってきているらしい。
パタパタとキッチンからスリッパの音が聞こえ、やがてひょこりと金色の髪が見えた。安室は、エプロンとお玉を持っていてまさに主夫といった出で立ちだ。

「おかえりなさい。遅かったですね」
「ちょっと失敗しまして。…それよりこの香りは」
「丁度夜食を作っていたんです。ナマエさんもいかがですか?」
「…いただきます。おなか空きました」

さっきまでは腹など減っていなかったというのに、調子よく「ぐぅ」と鳴った腹をさすってみせれば「すぐに準備しますね」と彼は笑ってキッチンに戻ってしまった。その姿と香りに妙に安心する自分がいて、ナマエは自嘲気味に笑いながら、スーツを脱ぐためにひとまず自分の部屋に引っ込むのだった。