旅の薬師五


「それじゃ、世話になりました」
「あんた、随分あっさりしてるねぇ。こっちはちょっと泣きそうだってのに」
「まぁ根無し草ですから。また小樽に来た時は立ち寄りますから無理しない程度に仕事頑張ってください。後、酒の飲みすぎはほどほどに。私はもういないんですからね」
「分かってるって。それじゃ、いってきな」

背中に薬箪笥を背負っているせいで、頭だけで軽く会釈しかできずに「すいません」と言えば、店主は別れを惜しむように皮膚の厚くなった手で私の手を握っては「うぅ」と小さな呻き声をあげた。

全く…いい大人が、少しのあいだ世話をした人間に泣くなんて。
ちらりと世話になった娼婦達がいる部屋を見上げれば、一晩仕事をして疲れているだろうに彼女達もまた長い振袖を大きく振って見送ってくれる。

ここはなんてお人好しな娼館なのか。釣られて涙腺が緩んでしまうじゃないか。

「はい。また今度」

これ以上ここにいたら、一筋涙がこぼれてしまいそうだ。

旅に別れは付き物だと言うのにこうも惜しくなるとは。やはり小樽に長居をしすぎてしまったのだろう。情が沸く前に離れなければ、別れはよりつらくなるというのに。

暖かな店主の手を一度握ってから、放せばまた指先が冷たい空気に触れる。そのまま娼婦たちへと手を一振りして、そのまま薬箪笥の取っ手を握る。ぐっと涙を飲んで、世話になった娼館を背に私は再び新たな場所へと旅立つのだ。



背負う薬箪笥のせいだろう。行きかう人々がちらほらとこちらを見る大通りを通り抜けて、小樽を出ればすぐに待ち受けているのは遠くまで続く雪山である。

久々に背負った薬箪笥は、儲けた金子と集めた薬でいっぱいのせいかいつもより重く、更に足を深く雪の中へと埋めてしまう。けれどここ数日雪山を歩きに歩いていた私にとってはなんて事はない。むしろふとした拍子に中身をぶちまけてしまわないか、というほうが心配だ。

時折中身が開いてないか、確認しながらがらんとした森を歩いて行く。冬の森は雪がこんもりと積もって、光を反射して目にも眩しい。日の光で溶けかけの白を、しっかりと太ももをあげて一歩一歩進んでいく。

ざくざく。ざくざく。

まっさらな雪の上に足跡を残していくのは中々気分がいいような、少し申し訳ないような気もする。それでも前に進まねば。

やがて真っ新だった雪の上に、点々と続く足跡が現れた。それは一本道のようにある方向に続いている。
親子だろうか。人の小さいものと大きい足跡が並んでいる。こんな冬山に、親子でいるなんてのはきっとアイヌの人達に違いない。せっかくならばアイヌの植物について聞きたい所だ。

そう考えていると自ずと足も足跡を追ってしまう。
細い木々の合間を抜け、二つの足跡の隣を歩いて行く。

「おや」

おっと、思わず間抜けな声が出てしまった。

ぴたりと足を止めると雪の冷たさが身に染みる。雪山を歩いている時は、身体は冷えるし足が取られるからあまり足を止めたくはないのだが。

しかし、想定外の物を見てしまった私は足を止めざるをえなかった。

笹の群生地に差し掛かると、その隣に男が倒れていたのだ。
白目をむいて、鼻血にまみれたその男の足はあきらかに曲がらないであろう方向に曲がっている。ザクザクと足音を立てても気づかないのだから気を失っているのは間違いない。

はて、これは生きているのだろうか。

近寄って血濡れの頬に触れると、ほんのりと体温を感じられる。ひとまずは生きているようだ。
しかしこのまま放っておいたらすぐに死んでしまうだろう。この怪我に加えて雪山の寒さは堪える。

「よし」

幸いここには薬師がいるのだ。やる事はひとつ。
私に見つかったのが運の尽きだ。



「あ、起きた」
「!?」

ぱちぱち。ぱちぱち。
爆ぜる火花の暖かさは雪山にいるとなお温かさが身に染みる。

薪をくべた焚火に当たっていると、隣でもぞもぞと布擦れの音が聞こえた。ふいにそちらを見てみれば、私を捉えた瞳はわずかに見開かれる。一重の、キリリとした男らしい目だ。しかし、すぐに「うっ」と足の痛みに顔を歪めた。

「足が折れてるんだ。大人しくしとけ」
「…お前は誰だ、何故俺を助ける」
「ふっ、まるで手負いの獣のような警戒心だな。私は怪しいものじゃない…って言ってもその調子じゃ信じてもらえなさそうだなぁ」

想像通りの反応に、思わず笑いがこぼれてしまう。見知らぬ人間がすぐ傍にいたらそれは驚くに違いない。彼はその典型的な例だ。
しかも見た所軍人のこの男。仲間でもない、怪しい人間がいるのだから誰でもそういった反応をするのだろう。

暖かな空気を作り出す焚火の上に吊るした小さな土瓶の様子を見ながら、「私は薬師だよ」と名乗ってみればやまびこのように「薬師?」と返ってきた。

土瓶の中では水分を吸った薬の材料が、独特の匂いを放っている。薄っすらと漂うその香りに、スンスンと犬のように嗅いでしまう。蓋を開けて少し匙で掬ってみれば、透明だった水は煮出されて茶色く色づいている。良い塩梅だ。

一旦土瓶を火から離して、適当に雪の上に乗せ、雪をかぶせる。特に何の設備も必要なく、あっという間に物を冷やしてくれるのだから雪というのも使い用である。

「…それはなんだ」
「土瓶の中身か?トウキと言う鎮痛効果がある生薬だ。まぁ普段は婦人用だがな、実際男にもきくんだ」

冬のはじまりにとれた根っこを乾燥させて、煎じて飲むのがトウキという生薬である。よく使われているのは婦人だが、鎮痛作用は誰にでも平等なのだ。

冷ましている間に、焚火に新たな薪を足すと炎と煙は一気に大きくなる。

今私と男のいるこの場所は冬でも枯れる事のないマツの葉がついた枝を円錐形に重ねただけの簡易屋根で覆われているのだが、所詮葉が重なっただけの屋根は通気性がいい。中で煙に巻かれる事はないのだ。しいていうならその分熱もこもらないのだが窒息するよりはマシだと思う。

「なぁ、名前はなんて言うんだい?」
「普通、自分が先に名乗るものだろう」
「うーん。私はただの薬師だから名乗るものでもないよ」
「ならば俺も名乗る名はない」
「ふぅん。じゃあ兵隊さんという事で」

それならお互い呼び名に困る事はないだろう。そうだ、それがいい。

一人納得していると、男…いや、兵隊さんは身体が痛むだろうにゆっくりとだがのそりと身体を起こした。起き上がったならばちょうどいい。痛むだろう足を引きずったまま、場所を少しずれてもらいその場に取ってきておいたたくさんの葉と薄布を敷く。

直接雪の上に寝ていたんじゃいつまでたっても身体は温まらないだろう。

「よしよし。それじゃ、身体起こしたついでに薬も飲め」
「…いらん」
「飲まねば匙で甲斐甲斐しく飲ませてやろうと思っていたのだが、口移しの方がいいか?」
「な、何を言うんだ」
「冗談だっての」

男、という漢字より漢が似合う厳つい顔に、服を着ていても分かる堅い筋肉。いかにもお堅そうなこの兵隊さんにはやはり冗談は通じないらしい。

分かりやすい冗談なはずなのだが、あからさまに狼狽えるのだから随分純粋なようだ。むしろこっちが「悪かった」と思ってしまうくらいには。

狼狽える彼を横目に、ひとまず雪に埋めた土瓶の様子を見る。
土瓶の周囲は薄らと溶けていて、触れればほどよい温度だ。薬箪笥の中から椀を取り出し、その上に目の細かい布を乗せる。そこに充分煮立った薬湯をひっくり返して、火傷をしないよう気を付けながら布をぎゅっと絞って漉せば完成だ。

「飲め」
「う、すごい匂いだ」
「良薬は口に苦し、だ。怪しいと疑っているなら私が一口飲んでやろう」
「…いや、いい。椀を寄越せ」
「偉そうだなぁ。まぁいいけど。ちゃんと全部飲めよ」

椀の中にはより茶色味が増した薬湯がたぷんと波打つ。

たしかに匂いも相まって、おいしそうには見えないが薬とは元来そういうものだ。こぼさないように、兵隊さんの手にそっと渡すとごくりと唾を飲む。覚悟を決めたのだろう、椀に口づけると酒を飲むようにぐいっと煽り飲んだ。

「ゲホッ、ゴホッ」
「よし、よく飲んだな。そんじゃもう一回横になれ。起き上がった所で何もできまいよ」

空になった椀を受け取って、再び横になることを促すと今度はあっさりと言う事を聞いた。いや、言う事を聞いたというよりは単に寝転がっている方が楽なのだろう。傍に置いておいた薪を火にくべながら様子を見守る。

「ところで兵隊さん。あんた熊にでもやられたのかい?その足、尋常じゃない折れ方だ」
「……」

彼の足は意識を失っている間に少し見させてもらったが、ひどいものだった。曲がるはずのない方向に曲がっているのはすぐに分かったが、肉も抉れているようだった。

何か、鋭い何かでやられたような跡。
今は添え木をして包帯をぐるぐると巻いてしまっているからよく見えないが、それなりに治るのには時間がかかるだろう事は容易に予想がついた。

「話したくないならいいが」
「……エゾオオカミにやられた」
「エゾオオカミ?あのエゾオオカミか」

エゾオオカミは明治に既に絶滅したと言われる狼だ。見た事はないが、噂で聞いた事がある。犬よりも大きな身体で、エゾジカを食べる。シカを食らうその牙は大きく、噛み砕く力も比べ物にならないと言う。たしかに本当にエゾオオカミがいたのなら、このひどい骨折もその大きな力によるものだと納得はいくのだが。

「偶然、なら運が良いのか悪いのか…」
「…いや、あれは偶然ではなかった。呼ばれたのだ」
「?」

呼ばれた、とはどういう事だろうか。意味を訪ねようとそちらを見ると、横になった眉間にはくっきりと皺が刻まれていた。歯を食いしばって、痛みに耐えているようにも見える。

「あのアイヌの少女に、…ウッ」
「あぁ。痛むのなら寝てしまえ。無理に喋らないでいい」

彼の口から零れるのは、「ハァ」「うぅ」と唸り声ばかりだ。きっと声も凍えるほどの痛みが足から伝わってきているはずだ。しかし骨折という外傷に、私がやれる事はもうないのだ。

薬は飲ませたがすぐに効くわけでもなく、生薬はモルヒネのように痛みを感じさせなくするわけではない。

一番楽な事は眠ってしまう事だ。それも痛みと寒さに邪魔されて難しい事だろうが、怪我を治すのにも体力は必要である。

「仕方ないな」

息を吐けば白くなり、肌を撫でる風は凍えるほど冷たい。
けれど、彼には今眠りが必要だ。きっと温かくなれば、今よりもずっと楽に眠れる事だろう。

意を決して自分の上着を脱いで兵隊さんの震える身体を覆うようにかぶせてやる。それなりの寒さにも耐えられるよう風を通しにくい生地で作られた上着だ。きっとわずかな温もりも逃す事はないだろう。

その分私の身体は寒さに震える事になるが、寒いだけで死ぬわけじゃない。今日は運がいい事に雪が降っているわけではないのだから、より火に近づけばいいだけの話だ。

わずかな風に揺らぐ炎越しに彼の様子を見てみれば、さっきよりは穏やかな顔をしているように見える。眠れるのもそう遠くはないはずだ。

「眠れ眠れ。明日はきっと今日より元気になるよ」

ぽつりとつぶやいた言葉は、彼の耳に届いたかどうかは分からない。しかし、ぱちぱちと木の燃える音だけが響くこの空気にスッと溶け込むと、あたりはまるで無に包まれたように何の音もしなくなった。時折小枝が鳴る音が、遠のく意識を戻す役目を担っている。

木の燃える匂いと、わずかにあがる白い煙に包まれながら私は膝を抱えて身体を小さく縮こまらせた。揺らめく炎の熱に煽られて、肌の表面はわずかに赤くなる。

何をするわけでもなく、ただただじっと身を潜めるこの時間が今は異様に長く感じるのだった。