見て見ぬふりの心音


まるで墨をこぼしたように、じわじわと夜の闇が青かった空を支配する。

そんな空の下で今日も今日とて過酷な訓練を終えた兵士達は、身体を休めるために兵舎にぞろぞろと戻りだす。その頃谷垣と三島と言えば、いち早く兵舎に戻り既に自室にいた。

「谷垣!早くいかないと早く来た意味なくなるぞ」
「三島は準備が早いな。ちょっと待て」

急かす三島に、谷垣もささっと用意を済ませ二人は額に訓練でかいた汗を浮かべたまま自室から飛び出た。まだ誰も戻って来ていない、人気のない兵舎の廊下を競歩のように素早く歩く。

向かう場所は風呂場である。

「〜っはぁやっぱり兵舎の中でも寒いな」
「けど外よりはだいぶ暖かいぞ」
「そりゃそうだけど…凍え死にそうだ」

さきほど訓練を終えたばかりの谷垣と三島の身体は、寒い風にあてられキンキンに冷えていた。暖かいとは到底言えない兵舎の中でも、だいぶマシだと感じるくらいには外は極寒だったのだ。いくら寒いのには慣れたとは言え限度というものがある。

震える身体でどうにか脱衣所までたどり着くと、二人は我先にと服を脱ぎ、タオル一枚を持って浴室に行った。

谷垣は寒い身体を温めるためにいち早く湯船に浸かりたかったが、入浴のルールはきっちり守らなければならない。湯船には目もくれる事なく、まずは洗い場で身体を洗う事に専念した。しかし身体が冷えていると僅かなお湯の熱でも痛みを感じる。少しずつ湯をかけて冷えを解消すると、ようやく一番の楽しみである湯船に向かう事ができた。

大人数が入れるようにとかなり大きく作られた浴槽には、熱いお湯がなみなみと張られている。そこからもわもわと立ち上る煙は、洗い場から湯船までの移動をする際に身体が冷えないようにしてくれているようだ。

そんな湯煙の中、よく目をこらしてみると一人ぽつんと湯に浸かっている人影が見えた。

「谷垣と…身体洗ってるのは三島か?訓練お疲れさん」
「!?ミョウジ上等兵殿」

湯けむりが晴れると、湯に浸かっていたのはミョウジナマエ上等兵だ。
第七師団に所属する人間ならだれでも知っている、良い意味でも悪い見でも有名な人間だ。
今まで遠目に見た事や挨拶をした事はあったが、1対1で話した事のなかった谷垣は気圧されたように息を吸い込んだ。

「早く入れば?寒いだろ」

入れと手招きをするミョウジはかなり長い事風呂に浸かっているのか頬は赤く、いつもならキリッとしている目元が少しゆるんでいる。
その不意打ちがつい色っぽく思えてしまい、タオルを持つ手にぐっと力が入った。

(風呂に浸かっていないのに妙に身体が熱いのはこの人の放つ色香にあてられたからだろうか…)

そんな事を考えてしまうと、同じ風呂に入るという事にわずかばかり抵抗を覚える。しかし風呂に入らねば不審がられるし、何より湯煙に巻かれているとは言えやはり風呂場も寒い。谷垣は意を決して、ゆっくりとつま先から湯に入っていった。

「失礼します…」
「おー」

ただ風呂に入ると言うだけなのに、こんなに緊張するのは後にも先にもこの時だけだろう。

あまり波を立てないようにそっと浴槽に肩まで浸かるとさっきまで身体を支配していた疲れがふっと楽になったような気がした。じわじわと身体を包み込むあたたかな熱は体の芯までほぐしてくれる。

疲れを吐き出すようにふぅと息を吐き出すと、件の上等兵から何やら熱い視線を感じて湯から視線をあげた。

「なぁ谷垣。前から思ってたんだがお前すごい筋肉だよな。なんか特別な事してんのか?」
「自分は訓練の後自主練をしているくらいです」
「ほぉ」

実に興味深いと言わんばかりに顎に手をやると、ミョウジは遠慮なくじろじろと谷垣の見事なまでの肉体を上から下までじっくり見た。
その視線は純粋な興味からであったのだが、そうとも知らない谷垣は見られているだけで金縛りにあったように身体が緊張で硬直していた。
一緒に湯船に浸かっているだけでも緊張するというのに、その瞳に己が映っているのだ。あきらかに風呂の熱じゃない何かが身体の中で蠢き始めていた。

「…その筋肉触ってみてもいいか?」
「は、い」

スススと湯の中を移動してきたミョウジは谷垣の了承を得ると、ぺたりぺたりと触りだした。
胸筋、腹筋、腕と縦横無尽にさわさわと触るとその筋肉はガチガチに固く、鍛え上げられているのが分かる。時々触るだけでなく、筋肉をたしかめるように揉んだりとやりたい放題であった。

「バランスよく筋肉ついてるな。谷垣には力じゃ負けるな」
「そうでしょうか」
「おう。間違いないな」

悪戯っぽく笑うミョウジに対し、谷垣はあまりそちらを見ないように努めてた。
彼は軍人にも関わらず色が白く、ちょっとした動作でも色気に溢れているのだ。他意はないとはいえ、この人に触れられるとなると気が気じゃない。

しかも彼は自分よりも位が高く、熱に浮かされてうっかり手を伸ばすなどの無礼を働いてはいけないのだ。できるだけ無心であるようにとじわじわ溢れてくる思いを無理やり心の奥へと押し込めて谷垣はただただ時が過ぎるのを待った。


そしてどのくらい触っていただろうか。
触るのに飽きたミョウジは冷めた手をようやく湯船の中に引っ込めた。その頃にはもう谷垣もすっかり風呂の熱か静かに触られた事による熱か、心臓は全力疾走をした後のようにバクバクと脈打ち、身体は熱をもったように熱かった。

「ありがとな。俺も谷垣みたいに筋肉つくよう頑張るわ」

その一言に谷垣は、「いえ、貴方はそのままが一番です」と心の中で思っていたが、それを口にすることはなかった。



「さて俺はもう上がろうかな。お前らが来たって事はもうすぐ他も来るだろうし」

風呂場は混むからな、とミョウジは苦笑いして立ち上がるとすぐに頭の上に置いていたタオルをぐるりと腰に巻いた。傷一つないその身体は果たして本当に軍人なんだろうかと疑ってしまうほど綺麗なものだ。

「俺もあがります」
「え?でもまだ全然浸かってないだろ。しっかり身体温めろ」
「いえ、もうかなり温まったので」

実際もうフラフラしそうなくらい顔が熱かった。

そうか?と首をかしげるミョウジにもう一度頷き返すと谷垣も湯船から出た。やはり外に出ても身体が熱いせいか全く寒いとは感じない。

ミョウジと谷垣は脱衣所に戻るとそれぞれ服を着て廊下に出ると、丁度訓練を終えた兵士達とは入れ違いになった。どっと押し寄せた兵士達によって先ほどまではガランとしていた脱衣所は一気に騒がしくなる。

「やっぱりこの人数だとゆっくり風呂入れないよなァ。入れ違いでよかった」
「そうですね」

これでは身体を洗うのにも順番待ちになったり、ゆっくり湯船に浸かる事もできないだろう。

そんな相槌を打ちながら、ちらりと自分より幾分か身長の低いミョウジを見下ろすとどこかホッとしたような表情を浮かべていた。やはりその赤らんだ頬や髪から滴る水滴は見てはいけないような羞恥的なものに思えて、そっと視線をそらした。

「それじゃあ俺はもう行くけど、湯冷めしないようにな」
「はい。ミョウジ上等兵も、その…お気をつけて」
「あぁ心配ありがとう。部屋はすぐそこだから大丈夫だよ。…おやすみ、谷垣」

谷垣の言いたい事を一瞬で理解したミョウジは心配いらないと手を振って見せると、たしかな足取りで自室のある方へと歩いて行った。

一人廊下に残された谷垣も自室に帰ると、やはり皆風呂に入っているのだろう。誰も帰ってきてはいなかった。
ぱたりと布団に倒れ込むと、未だに身体が熱くじわりと汗がにじんだ。

「…はぁ」

目を閉じなくても先ほどの姿が浮かんでは消える。吐き出した息にも熱が混じり、谷垣の身を焦がすような熱はしばらく消える事はなかった。