この夜は君にあげる


「ちょ…やめて……い」
「…の命令に従…っ」
「こんな…きけるわけ…っふぅ…」

外はすっかり暗くなり、窓の外には暗がりが広がっている。だがその暗がりを見ようとすれば、その窓はたちまち鏡のようになり見るものの姿を映し出す。

消灯時間ギリギリになっても未だ兵舎1階の廊下を歩いていた尾形はほんのり聞こえた声に足を止めた。この廊下に面する部屋のどこから聞こえてくる、くぐもったその声はこの時代の軍であればなんら変わりはない、夜に伴うあれだろう。

普段ならば気にする事でもないのだが、尾形は片方の声に心当たりがあった。その人物はこういった事を素直に受け入れるタイプではないのだが。

(助けてやるか、どうするか)

少し迷った後、廊下をうろついて声が漏れる部屋を探し出すと、そこはある意味有名な伍長の部屋だった。その伍長とは直接的に関りはないものの、小心者として密やかに名が通っているのを尾形は知っていた。

できるだけ息を殺し、ドアに近づいて部屋の中から聞こえる音に全神経を集中させる。すると微かに聞こえる声からしてやはりそれは滞りなく行われているわけではないらしい。

「はぁ…っもうやめて下さい」
「そんな事言って初めてじゃないだろ?ん?」

随分と弱弱しいが、間違いなくナマエの声だ。相手は部屋の主である伍長だろう。どんな事であれ、軍の上下関係は絶対的であり揺らぐ事はない。このまま放っておけば間違いなくこの行為は最後まで続けられる事だろう。

(…はぁ、仕方ない)

尾形は何か考えるようなポーズを取ると、頭の中でピコンと何かが閃いた。閃いてからの行動は素早く、迷う事はない。
隣の部屋の様子を伺ってから、伍長の部屋のドアの前に立つと、そのドアを思い切り蹴りつけた。ドアには鍵がかかっていて、開きはしないもののかなり派手な音をたてた。

「なんだ!?」

突如ドアが蹴られれば中にいた人間はそれは何かと驚くだろう。念のためにともう一回ドアを蹴り、尾形は素早く空き部屋であった隣の部屋に隠れて鍵をしめた。そして窓からひらりと外へ出ると、伍長の部屋の窓をコンコンと叩いた。

すると比較的窓の近くにいたナマエがおばけでも見たかのように声を出さずに驚いた。その奥では伍長らしき男がきょろきょろ視線を動かしながら廊下の音の原因を探っているようでこちらには気づいていない。さすがに噂になるほどの小心者だ。原因を確かめずにはいられないらしい。ついには彼を置いて廊下に出て行ってしまった。

尾形は窓の鍵を指さすと、『窓をあけろ』と口パクをした。

「!」

ナマエもそれに頷き、そーっと窓を開けると開いた窓の隙間からするりと外へ抜け出した。

部屋から漏れる光だけが頼りの暗闇の中、尾形はナマエの手を掴むと元の部屋に戻り、ドアに耳をあてて廊下の様子を伺った。廊下では未だに伍長が原因を探っているらしい。やけに大きな足音が近づいてきていた。

「尾形なんでここに」
「…シッ、しずかに」
「…」

「なっ…いない!?…窓から逃げたのか!」

この伍長は尾形の想像以上に計画通りに動く男だった。
部屋に戻ってナマエがいない事に気が付いた男は、大声でそんな事を言ってのけた。そして怒ったようにドアをバタンと大きく音を立てて閉めたのだ。

そっとドアを開けて隙間から廊下を見ると、男は部屋に戻ったらしい。廊下は静けさに包まれている。
きっと小心者の伍長の事だ。不審な音がした廊下には今日はもう出てこないだろう。

「よし、行くぞ」
「分かった」

二人は静かにドアを開けると、静かな廊下に足音が響かないよう細心の注意を払いながら影のように静かに、かつ足早に伍長の部屋から遠ざかった。

そして足音を消さなくても良くなるくらい離れると、先を歩いていた尾形がナマエの手を掴んで、するりと忍び込んだのはずっと使われていない空き部屋だった。

ずっと使われていないだけあって部屋の中は埃っぽく薄暗かったが、窓から差し込む月の光が思いのほか明るく二人の影を浮かび上がらせていた。部屋の中には何も置いてはいなかったが、こんな空き室に来る人間などおらず、身をひそめるには十分だった。

ナマエを部屋の中に引き入れ部屋の鍵をかけると、この短距離の逃避行に少し緊張していたらしい。尾形は小さく息を吐くと、部屋の中にぽつんと立つもう一人を見た。

「大丈夫か?」
「…大丈夫じゃねぇ」
「まぁそりゃそうだろうな」

薄っすらと月の光で照らされたその頬には抵抗したからだろう、殴られたような跡がある。いつもはツンと澄ました顔が不安げな子供のような顔をしているのはきっとこの怪我のせいじゃないのだろう。
ゆっくりとその頬の怪我へと手を伸ばすと、びくりとその身体が跳ねた。

「あぁいったのは初めてじゃないだろう?」
「…まぁな。でも無理やりは嫌いだ」

何か嫌な記憶でもあるのだろう。苦虫をかみつぶしたようなそれに尾形はその頬の怪我も、記憶も深追いするつもりはなかった。

尾形は適当に腰や足につけていた装備を外すと、おもむろに床の上にあぐらをかいた。そしてぽんぽんと太ももを叩いたが、ナマエはきょとんと驚くだけだだ。

「おら、寝るぞ」
「寝ろってどこで」
「俺は優しいからな。膝枕してやる」
「はぁ?」

もちろん寝るのはここだとぽんぽんとあぐらを組む太ももを叩けば、ナマエはぎょっと目を丸くして見せた。だが驚くばかりで一向に装備を外そうとしない姿に尾形は少し苛立った。自分だって早く寝たいのだ。明日からはまた厳しい訓練と任務が待っている。休める時に休むのが鉄則である。

重い身体を動かしてどうにか立ち上がると、ぶらりと下がるナマエの腕を掴んで引き寄せた。

「うおっ?!」

突然引っ張られた事でナマエもとっさの判断が遅れたようだ。バランスをくずした身体はふらりと引っ張った尾形の方へと倒れ込む。その身体をがっちり掴むと、無理やり横たわらせて自分はあぐらを組んだ。

「ぐずぐずしてねぇでさっさと寝ろ。嫌な事があるなら寝て忘れろ」
「んな無茶言うなよ」
「うるせぇ寝ろ」
「…分かったからその目で睨むな」

じろりと睨むその目は暗闇にいる猫のようでナマエはたじろぎ、渋々尾形の隣で大人しく横になる事になった。断固として膝枕は拒否したが。

そうしてようやく静かになった部屋で目を閉じると、気持ちもだんだんと落ち着いてきて瞼が重くなってくる。近くにあるお互いの呼吸音も、気持ちを落ち着けてくれるようだった。気づけば意識も遠のいている。

ナマエは隣にいる尾形にぽつりと言葉になっていない礼を述べると、やがてすぅすぅと小さな寝息をたてて眠った。尾形もその穏やかな寝顔をじっと見つめた後、その身体をゆるりと抱いて目を閉じた。



「…はよ。どこ行ってたんだ?」
「ちょっとな。準備できてるなら朝飯行くぞ」

まだ薄暗い日が昇り切らない朝。尾形が空き部屋に戻ると、一度自室に戻ったのだろうすっかり身だしなみを整えたナマエが部屋で待っていた。相変わらず綺麗なすまし顔を見せるあたりは少しは元気になったようだ。

ナマエを連れて部屋を出ると、二人は食堂に向かう。皆腹が減っているのだろう食堂は朝だと言うのに騒がしい。そのざわめきに紛れて食事をとっていると、ふと辺りが静まり返った気がした。

「やぁナマエ君」

少しねっとりとした、特有の声は間違えるはずもない。ナマエは慌てて口元を拭って席を立ちあがった。

「鶴見中尉殿、おはようございます」
「おはよう。今日もいい天気だな。」
「さようですね」

たしかに窓の外はカラッとした晴天でまさに鶴見のいう良い天気である。ひとまずその言葉に同意をするとナマエは内心首をかしげた。

この時代の将校というものは兵と同じ食堂で食事をする事はなく、そもそも食堂などには姿も現さない。あるとすればよっぽど重要な用事がある時くらいだ。だがこの様子を見るとそんなに重要であったり急ぎの用事ではなさそうだ。

「何か御用でしょうか?」
「いや何、昨日呼んだのに来てくれなかったからね、どうかしたのかと思って」

世間話をするように、ははと笑う鶴見にナマエは「昨日?」と口に出しそうになったが、すぐに黙って思案した。昨夜会う約束などした憶えが全くなかったからだ。しかし、もしかしたら忘れていたのかもしれない。

突然の事に焦りからほんのり額に汗がにじみ、どうしたものかと考えていると隣で黙っていた尾形が口をはさんだ。

「鶴見中尉殿。ミョウジ上等兵は昨夜犬にかまわれていたのです」
「ほぉ。犬とはまた躾のなっていない奴だ」
「えぇ本当に」

”犬”をやたらと強調して話す尾形と鶴見の狡猾な笑みは悪役そのものだ。その笑顔の瞳には、ナマエではなく青ざめた男が映っている。視線に気づいたのか、そそくさと食堂を後にするその姿は、昨夜尾形が蹴った部屋の主であった。
昨夜のやけに高圧的な態度から一変して小心っぷりを発揮している様が尾形にとってはとても愉快で無様だった。あまりにもそれが面白くて、耐えようにも耐えきれずに口角がにんまりと上がってしまっている。

「…ふむ。ナマエ君悪かったね、約束をしていた気でいたが、まだしてなかったようだ。明日の…そうだな、手が空いた時にでも部屋に来てくれ」
「かしこまりました」
「後、夜はあまり出歩かないように気を付けたまえ。それじゃあ私はもう行くよ」

「…何しに来たんだろうな」
「さぁな」

鶴見が愉快な笑い声を響かせながら食堂から去ると、ナマエはじとりと怪しむように尾形を見た。だが尾形はその視線に気づかないフリをして、朝食に出ていたゆで卵に箸を突き立てた。完全にゆできられていないゆで卵は箸を入れた所からどろりと黄身があふれ出す。

「使えるもんは何でも使わないとな」

「なんか言ったか?」
「いいや何も。それよりこの卵はお前にやる。俺は固ゆで派だ」
「好き嫌いせずに食えよ。まぁもらうけどな」

ゆでたまごをナマエの皿にうつすと、もう中尉の事はどうでもよくなったらしい。ご機嫌なその顔を見て、尾形は一人表情を崩した。