とある部下の日記
私は第七師団に所属する男である。
名前はまぁいいだろう。そこは重要ではないのだから。重要なのは私の上司がミョウジナマエ上等兵殿であるという一点、ただそれだけだ。
私の上司、ミョウジナマエは第七師団では指折りの有名人だ。それは彼の容姿に起因する事だが、彼は容姿に関する話が好きではないのでここでは控えておこう。
初めてミョウジ上等兵の部下になる事を知った日は、神に感謝すると同時に少し不安にもなった。何せ彼が固定の部下を持ったことはないのだ。もしかしたら自分もすぐお払い箱になるかもしれない。
それは嫌だ。何としても彼の力にならなくては!と意気込んだのは約一年前の話だ。
今も仕えさせていただき、その不安は払拭されているが、時折顔を出す。だから今日も身を粉にして日野上等兵に尽くすのだ。
さて、前置きが長くなってしまった。
この日記では、そのミョウジ上等兵との一日を紹介しよう。
「おはよう」
「おはようございます」
差し込む朝日に目を細めるその姿は穏やかな微笑みだ。
一年たってようやくその姿を見慣れてきたが、それでもやはり朝日よりも貴方が眩しいと心の中でこっそりつぶやく。
挨拶を交わした後は、今日の一日の予定を打合せをする。
今日は鶴見中尉がご贔屓にしている薬師に会いに行くらしい。ようはおつかいである。だが、おつかいと言ってもそのお人は大層な変わり者らしく、春の間は薬草が多く住む森に暮らしているようだ。森に行くならば、当然距離もあるため徒歩よりも馬だろう。
そうと分かれば私の役目はまず馬を用意する事だ。早々に厩に行き、馬の体調を確認した後に鞍を乗せ、手綱をつける。
「よぉ、精が出るな」
しっかり装備が付いているか、安全確認しているとひょっこり現れたのは頭を綺麗に刈り上げた男。
「尾形上等兵殿!おはようございます」
「今日はあの薬師の所に行くって言ってたな。ご苦労なこった」
気怠そうにしながら馬を見る彼、尾形上等兵は何故かミョウジ上等兵と最も距離が近い男だ。
気づけば一緒にいて、本人は気づいているのかいないのか普段よりは穏やかな表情をしているのだから、仲がいいと言って間違いはないだろう。同じ立場だから気兼ねなく話せるのだろうか。それならばちょっとうらやましく思うが、私は唯一の部下として接してもらえるのだから、良しとしよう。
「尾形上等兵殿は厩に何か御用で?」
「いや、馬を見に来ただけだ。…邪魔して悪かったな」
どうやら本当に馬を見に来ただけのようで、ミョウジ上等兵が乗る予定の馬の鼻を丁寧に撫でてからそのままフラリと姿を消してしまった。相変わらずよく分からない人だ。
その後すぐに入れ替わるようにしてミョウジ上等兵がやってきて、私は慌てて頭を下げた。
「準備完了致しました」
「よし、行こう」
「はい」
自分の目線の高さほどある鞍を掴んで大きく飛び上がり、馬に跨ったミョウジ上等兵を見上げる。遠くを見つめるその横顔はとても凛々しく美しい。小一時間、いやずーっと見ていられる自信がある。そんな事をしていたら呆れられてしまうだろうが。
さっさと私も馬に乗り、ゆるくその腹を蹴って駆け出した。
小樽からその件の薬師がいる森は少し離れている。そのため時間短縮をするために小樽を出てすぐに薬師の家まで一直線に森の中を走っていた。
だが、森の中は木々が生い茂り普通に馬を走らせるのも難しい。馬の背の上で襲い掛かる枝を避け、倒木を飛び越え、小さな小川を渡る。そうして薬師の家につくまでに、私はかなり疲れてしまった。馬に乗り走らせるだけでも慣れているとはいえ疲れるのに、更に精密な扱いが求められる森では神経も使う。
手綱を適当な木にくくりつけ、鼻を撫でてから待っているミョウジ上等兵の元へ向かう。
「お待たせいたしました」
「大丈夫か?随分疲れているようだが」
「はい。ご心配おかけして申し訳ありません。大丈夫です」
「そうか。それじゃあさっさと用事を済ませて帰ろう。帰りはゆっくりしたいからね」
帰りはゆっくり、というのは疲れた私を見かねての事だろう。彼は息を乱す事なくゆるく微笑む余裕すらあるのだ。はぁ、彼はどこまでも完璧な人間だ。
「ごめんください。第七師団の者ですが…」
ミョウジ上等兵が扉をたたき、招き入れられた薬師の家はたくさんの鉢植えが置かれていた。土から細い茎をのばして見事に咲き誇るのは赤い花ばかりだ。どこかで見た事があるような、丸っこい可愛らしい花である。はて、なんの花だったか。
ミョウジ上等兵が話をしている間ぼーっとその花の事を考えていたのだが、「帰るぞ」という鶴の一声でハッと意識を彼に戻した。時間にするとわずか十分にも満たない時間だった。案外話はすぐに終わったらしい。
妙にニコニコした薬師に見送られ、馬の元に戻るとミョウジ上等兵の手には来る時には持っていなかった布袋が握られており、それを忌々しいものを見るような目で睨みつけた。
「それは一体なんなのですか?」
「やっぱり話聞いてなかったな。これはケシの花だ」
「ケ、ケシですか?」
「あぁ。詳しくは聞かされていないが、あの薬師は鶴見中尉に頼まれて栽培を試みているのだろう」
これはその結果だな。
美しい顔を歪め、それをこちらに放り投げる。布袋を受け取り、少しだけ中身を見てみればたしかに部屋の中で咲いていたあの赤い花だった。ケシがどんな効果を持つかなんて事は、この私でもさすがに分かる。肌が自分でも粟立つのを感じたが、これはもって帰らねばならないものなのだろう。そっと懐にそれを仕舞い、来た時同様馬に乗る。
「それじゃあ戻るぞ。戻ってから報告書だな。ケシの提出もその時でいいだろう」
「了解しました」
このお使いが終わってもなお、傍に控えて入れるのも部下の特権という奴だろう。外は寒いのに、身体の芯がぽかぽか暖かいのは彼のおかげだ。ケシの事は一度胸の奥底に沈めて、今は目の前の彼へと集中すべく馬に跨った。
そして私にとっては光り輝くその背中を、ゆっくりとした足取りで追いかける。やはり私に気を使ってくださっているのだろう。行きよりも帰りの方が倍の時間かかってしまったが、疲れも少なく快適な旅路だった。しかも、その分共にいられたのだから嬉しい事この上ない。こんなに一緒に馬に乗る事など、あの尾形上等兵であっても早々ないだろう。
「それじゃあ俺は先に部屋に行ってるから」
「すぐに向かいます」
兵舎に戻り、ミョウジ上等兵から馬の手綱を預かってその背中を見送って、私は馬たちを厩に連れ帰った。装備を外してやれば家に戻ってこれた喜びか、身体が軽くなったからか、馬が嬉しそうに嘶いた。
*
「あぁ、来たね。報告書まとめる前にあったまろう」
靴裏に張り付いた雪を取り払って、急いで執務室に行けば赤くかじかんだ手を火鉢に向けるミョウジ上等兵がほほ笑んだ。
隣に座れ、と暗に言っているのだろう。彼の隣には座布団が用意されている。一年間脇に控える事はあったが、隣に座るという事は実は今まで一度もなかった。これは、本当に座ってもいいのだろうか。ただ隣に座るという事が、この人を前にするとひどく神聖なもののように思えるから一歩引いてしまう。
「どうした?早く座れ」
「し、失礼します…」
「ちゃんと手温めろよ」
「はいっ」
おそるおそる隣に座ると、温められた空気がふんわりと肌の上を撫でていく。火鉢と手を伸ばすと、かじかんだ手にはその温かさは痛く感じた。少しずつ少しずつ時間をかけてゆっくりと解凍していく。
しかし、冷え切った手とは裏腹に心の奥底は今にも火傷しそうなほど熱かった。今日はなんて日だろうか。今まで生きてきた中で一番心臓が高鳴っている。喉から心臓が出そうという表現は今まさに使うべき言葉だ。
だが彼は私のこの緊張など全く知らないのだろう。ただ火鉢の中でわずかに赤くなる炭を見つめている。
そんな彼に話しかけるべきか。黙っているべきか。あー、うー、と心の中で悩んで、やはり手持無沙汰というもので私は思い切ってミョウジ上等兵に話を振ってみた。
「あの、ミョウジ上等兵。ひとつ、伺いたい事があるのですが」
「ん、何?」
「…その、私はミョウジ上等兵の部下になって一年たちますが、何故私を部下に選んでくださったのでしょうか」
「え?」
聞いてしまった。この一年ずっと気になっていた事だ。
固定の部下を持たなかった彼が、私なんかを一年も置いてくれているのだ。その理由が気にならないはずがない。
ミョウジ上等兵は私の唐突な質問に、長い睫毛を伏せて、すぐに「うーん」と悩むような声をあげた。
「好ましい所は色々あるぞ。噂を鵜呑みにしない所とか、真摯である所とか、後いつも一生懸命な所とか」
「えっ」
「まぁ日頃のお前を見て、部下にするならこいつだと思ったんだよ」
理由になってないかな、とへらりと笑う。
あぁ、今日は本当になんと素晴らしい日だろうか。身に余る言葉ばかりで、私の身体は火鉢で温める必要がないくらい熱くなってしまっていた。
「いえ、ありがとうございます。私はミョウジ上等兵の役に立っているでしょうか」
「何を言ってるんだ。俺の部下が君だけっていうのがその証拠だろう」
たった一年、されど一年。この人に傍についていて分かった事がある。
彼は他人に対して常に線引きをしているのだ。そして内側に入れた人間には、時折こうしてどろどろの甘い言葉と見惚れないはずがない笑顔で心をからめ捕る。
その笑顔と言葉は、今だけは、今だけは私だけのもの。こう思ってしまったらもう、いつだって瞼の裏にはこの麗しい笑顔が、脳には言葉が住み着くのだ。そして、一度侵されてしまったならばこの美しい毒から逃げる事はできないのだ。
私もその毒に侵され、それが気持ちがいいと感じているのだからしょうがない。
「仕事、しようか」
立ち上がり、遠くを見つめる彼はやはり何度見ても美しく。
彼がいる限り、私の命は彼のために使うのだとその横顔を見て改めて誓うのだった。