月もうだる夜の事
すっかり暗くなり、人気のなくなった廊下をナマエは紙束を抱えながら一人歩いていた。その顔には疲労が伺える。
消灯までのわずかな時間は各々に許されたわずかな自由時間なのだが、ナマエは先ほどから鶴見の机に山積みになっていた処理済みの書類をしかるべき場所へと配達に回っていたのだ。
そしてようやく最後の一束となり、届け先である月島の元に向かっていた。
これを配れば今日の仕事は終了だ。そう考えれば気分も明るくなるのだが、日中体力づくりに走り回っていたせいもあって足腰が重い。視線も自然と下を向いてしまい、丁度曲がり角を曲がろうとしたその時には、スッと現れた誰かに気が付く事なく衝突してしまった。
「「うわっ!?」」
ドスッと鈍い音を立ててぶつかった身体は、なんの反射神経も活動していなかったのだろう。よろめいた挙句に尻もちをついてしまった。じわりと広がる鈍い痛みに思わず声も出る。
「痛…」
「すまない、ミョウジ。大丈夫か?」
腰をさすりながらその声に視線をあげると、目の前に立っていたのは探していた月島だった。さすがに鍛えているだけあって、あの衝撃にもなんて事はなかったらしい。しっかり地に足をついて、手には入浴道具一式が入った風呂桶を持っている。
「ぶつかってしまって大変申し訳ありません。月島軍曹こそお怪我はありませんか?」
「俺は大丈夫だ。悪いな、ぼーっとしてた」
「こちらこそ前方不注意で…」
よいしょ、と立ち上がるとじわじわ尻は痛むが他は特に変わった所はなさそうだ。もう一度直角に頭を下げると、「もういい」と寛大な反応であった。
ホッと胸を撫でおろしたのも束の間、幸彦は自分の手元にあった書類の存在を思い出した。
「あの、鶴見中尉から書類を預かっているのでお部屋に置いておきますね」
「あー…あぁ、分かった…悪いな」
「?」
なんだか歯切れが悪い。月島という人は普段はもっとしっかりした受け答えをしていたはずだ。
よくよくその顔を注視して見れば、頬はいつもより赤みが強く、さっきもぼーっとしていたと言っていたような。入浴道具を見れば、濡れているわけではないから風呂に入ったという選択肢はないだろう。ナマエは少し悩んでから、書類を小脇に挟んだ。
「すいません。失礼します」
一言断りを入れて、手のひらを月島の額にぴたりと当てる。突然触れた手に、月島の身体が小さく揺れた。更に空いた手で自分の額と温度を比べてみると、手のひらに触れる月島の額は、あきらに普通ではない。
「…熱があります。しかもかなりの」
ナマエは医者ではないために詳しい事は分からなかったが、これを放っておいても良い事はない事くらい分かる。
月島はきっと気づかれなければ倒れるまで働きそうだ。もしも悪化でもして月島が抜ければ、それはこの二七聯隊においては非常に大きな穴になる。本人のため、ひいては組織のため、この熱を放っておけるほどナマエは薄情ではなかった。
「これはお部屋で休まなくてはいけませんね」
風呂桶をひっかけた月島の腕に自身の腕を絡ませて、風呂とは真逆の方へと半ば強引に引っ張った。
「おいミョウジ?!俺は熱はない!」
「確実にありますよ!抵抗するなら鶴見中尉に言いつけます」
「…」
そう言えば大人しくなるのだから、中尉効果は偉大である。
道中いい加減それはやめろと言われて腕を離して、荷物になっていた風呂桶も奪い取った。風呂好きと噂のこの人には酷な事かもしれないが、早く寝て体力回復に努めていただかなくては、とナマエは妙な使命感に駆られていた。
月島の部屋に入ると、書類と風呂桶を机に置いてから、未だにぼーっとしている月島をとりあえず布団の中に押し込んだ。
「氷枕とか手ぬぐいとか持ってきますから、部屋から出たらダメですからね」
「分かった…」
聞き分けがよくなったのはいい事だ。
本来ならば上司になんて言いぐさだと怒られそうだが、やはり熱のせいかそんな元気はないらしい。さっきまではしていなかった咳までし始めている。
これは早く看病道具を揃えた方がいいだろう。医者も呼ばなくては。
そっと部屋から出て、まずは氷とタオル、と必要な備品を考えながら廊下を歩いていると前方から見慣れた二人がやってきた。
「野間と岡田。丁度いい所に」
「あぁ。ミョウジ上等兵。今晩は。どうかされましたか?」
「ちょっと聞きたい事があるんだが」
*
「ゴホッ」
本格的に風邪を引いたらしい。
あれだけ風邪じゃないとミョウジには言ったが、前言撤回だ。心なしか視界もグラグラする。まるで地震が永遠と起きているような、そういう嫌な気持ち悪い感覚だ。
ゴホッゴホッ
痰のからまるような咳も出る。これは参った。
「月島軍曹、大丈夫ですか?」
「…ミョウジか」
「はい。氷枕とか持ってきましたよ。お医者様は今出払っているようで、診察は明日の朝になりそうです」
通りの悪い喉のおかげで苦しい呼吸をしている時、ドアを開けて入ってきたのはミョウジだった。手には桶や手ぬぐい、氷枕など看病に必要な道具が大量に抱えられている。
まずは枕を氷枕に変え、風呂に入れなかった分を濡れた手ぬぐいで拭く。気怠いだろうと気を使って身体を拭いてくれたが、ミョウジだからだろうか。なんだかいけないような気持ちになって、早く終わって欲しいような永遠を願うようななんともいえない時間だった。
「ミョウジ、もういい」
「そうですか。それなら今日はもうお休みになられた方がいいでしょう」
もうすぐ消灯時間だ。
ミョウジも自室に戻らねばなるまい。それにこのまま此処にいさせても風邪をうつしてしまうかもしれない。自分よりもこのミョウジの方が風邪を引いたとなれば大騒ぎだろう。
もう帰れ、と声を出そうとすると、ふいに手が細い手に包まれた。タオルをずっと絞っていたからだろう、その手はほどよく冷たい。
「何、してるんだ…」
「野間と岡田が風邪の時は傍に人がいて欲しいって聞いたのですが」
「…」
あいつら余計な事を。
疑いもせずに素直にそれを実行しているのだろう彼は首をかしげた。たしかに手を握られるというだけなのに、ひどく安心するのは否定ができない。大の大人だろうとそういう事は代わらないようだ。
そんな善意を怒る気にもならず、手は好きにさせておく事にした。事実手は冷たくて気持ちがいいのだ。
「私の事はお気になさらず、どうぞお休みください」
「…分かった。すまない」
「おやすみなさい。月島軍曹」
「(って言って寝られる訳がないだろう…)」
握られた手に全神経が集中してしまって眠気など全く襲ってこない。目を開くわけにも、手を振りほどく事もできず、その日の夜はやけに時間が長く感じられた。