君は僕の心臓-弐


「っいってぇ…」

尾形が杉元達を追って出て行った後。ナマエは夕張の町を走っていた。

想像よりも早く、強い痛みと視界不良は引いた。しかし、完全に痛みがなくなった訳ではない。未だに殴られたこめかみはじわじわ痛みが続いていて、顔を顰めている。それでも行かなければと奮起して普段より遅い足を動かしていた。
されどもフラフラしたどこかぎこちない走りに、心配した町の住人は声をかけた。それに丁度いいと「軍人が走っていかなかったか」と聞いて見れば、炭鉱の方に向かっていったと数人が口にする。

炭鉱と言えば夕張に住むほとんどの物がそこで働いているという、この町のいわば財源だ。ナマエはあまり炭鉱には詳しくなかったが、中が迷路のようになっている事は知識として知っていた。そこで逃げ回られれば面倒だ。重要なときに役立たずな自分に苛立ちながら、住人に教えてもらった方へ走っていく。

そしてようやく炭鉱が見えた。
炭鉱の前では掘り出した岩石を運んだりトロッコを動かしたりと、炭鉱夫たちが泥まみれになりながら忙しなく働いている。その内の一人が軍服であるナマエを見ると、またかと言わんばかりに面倒くさそうな顔をした。

「こっちに軍人は来ませんでしたか?」
「あぁ、軍人さんね。…三人ともトロッコに乗って中に入っていったけど」
「!ありがとうございます」

あまり想像したくなかった予想が当たってしまい、ナマエはまたこめかみが痛くなった気がした。トロッコに乗っているのなら、それなりの速度で進んでいるのだろう。今から自分が追いかけて果たして追いつくだろうか。

「(いや、行かないと駄目だ)」

尾形一人でもどうにかなりそうだが、人数の差というのは存外大きい。坑道内が入り組んでいるのなら、見失う可能性も多いにあるだろう。
そうともなれば、早くトロッコを探して行かなければ。

一歩踏み出したその時、炭鉱の方からドドドドと小さな音が聞こえてきた。地鳴りのようなその音に、ナマエは足を止めた。それは徐々に大きくなり、彼の身体を突き上げるように地面が大きく揺れた。鼓膜がビリビリと震える。

「地震か!?」
「っ違う!ガスケ(ガス爆発)だ!」

傍にいた炭鉱夫は顔を真っ青にして叫んだ。目の前の坑口から、大砲のような轟音が響き渡る。続けてヒュゥゥゥと坑口に向かって物凄い風が吸い込まれていく。あたりに転がっていた小石から、ナマエの軍帽まで、その風に煽られ坑道の中に転がり込んだ。髪を抑える物がなくなった彼の髪はバサバサと乱れ、手で押さえてようやく視界を邪魔する物がなくなった。

ズズン

またすぐに地面が揺れた。今度はこの夕張、いや夕張を囲う山ごと揺れたかと思うほど大きな大きな揺れだった。しっかり地に足をつけているというのに、身体が右へ左へと振り回される。まるで酷い目まいに襲われているようだ。

揺れはしばらく続き、収まった頃に彼の意識はようやく現実に引き戻された。
先ほどまで隣にいた男はもういない。目の前では掘り出した岩石に夢中だった炭鉱夫たちが、それどころではないと大慌てで動いていた。「水だ」「板だ」と指示が飛ぶ中を潜り抜けて坑口に近寄ると、中から大量の黒煙が次から次へと立ち上っている。黒煙は金属か何かが燃えるような嫌な匂いがした。

「一体何が起きてるんだ!?」
「ガスだまりを当てちまったんだ!中でひどい火災が起きてる…!」
「なんだって?!」

ナマエの頭は一瞬でさっき話した炭鉱夫の話を思い出した。炭鉱夫の話では軍人が三人トロッコに乗って坑道内に入っていったという。月島、杉元、そして尾形の三人だ。
彼にとっては前者二人よりも後者のただ一人、尾形が心配だった。刺青人皮よりも、中にいるであろう尾形の方が重要なのだ。だからこそ、嫌な想像が脳裏によぎり自身の握りこぶしにぎゅっと力をこめる。目の前には黒煙を吐き出す坑口。

「(助けに行かないと)」

その思いだけがナマエの足をそこへ向かわせた。

「待て!!今から行こうっていうのかい!?駄目だ危ない!」
「離してくれ!」

こうしている間にも坑道内から出てくる黒煙の量が増えている。中の火災がひどい証拠だ。きっと中はもっとすごい事になっているのだろう。揺れがあったと言う事は崩落だって起きているかもしれない。ここで行かずとしてなんとするのだ。

しかし炭鉱夫がそれを許さない。真っ直ぐに坑口へ向かうナマエの腕を掴むその腕は、さすがに毎日重い岩石を運んでいるだけあって簡単には振りほどけない。

「坑口はこれから封鎖する!入って助けたとしても外に出られないかもしれないんだぞ!」
「まだ中に生きている奴がいるかもしれないって言うのに塞ぐのか!?」
「仕方がないだろう!これ以上大きな被害を出さないためだ!」

そうこうしている間に他の炭鉱夫達は目の前の坑道を木で塞ぎ、間に粘土をつめて封鎖している。それはとても素早く手慣れた作業で、夕張において炭鉱の爆発や火災は頻繁に起きている物だとまざまざと見せつけられているようだ。本人達だって助けに行きたいだろうに、爆発の度に泣く泣くこうしてきたのだろう。

「…嘘だろ」

少し緩んだ炭鉱夫の腕からするりと抜けだして、彼は塞がれた坑口を見た。とてもじゃないがこの板と粘土は壊せそうにない。

「(まだ開いている坑口から入って中を探すか。いや、それでは尾形に会えても外に出られない)」

どうする、どうすればいい。
バクバクうるさい心臓が、冷静に考えようとする頭の邪魔をする。あれも駄目だこれも駄目だと考えては立ち消える。そんな堂々巡りが続いて時間だけが過ぎて行った。一度冷静にならなければ。そう思えば思う程気が逸る。
あぁ本当に己は役立たずだ。そう自分を責める事しかできない。


夕張全土に爆発が響き渡ったせいか、野次馬がぞろぞろと集まり始めた時。坑口を塞ぎに行った男達とは逆方向から泥だらけになった炭鉱夫達がふらふらと姿を現した。炭鉱内には坑口の他に空気を入れ替えるための通風口があり、男達はそこから出てきたのだという。

ナマエは慌てて男達が来た方へ走った。先ほどまでの虚無感から一変、今はただ通気口に向かって無我夢中で走る。走っている途中、傷だらけの炭鉱夫達とすれ違い、その度に尾形を見なかったかと聞いて見ても皆首を横に振るばかりだ。

そして通風口までやってくると、もう出てくる人はまばらだった。開けられた通風口から中をのぞいてみると、漏れる熱とガス臭さにすぐに口と鼻を袖で覆った。

「尾形ーッ!!生きてるかー!?」

通風口に向かって大声を出した後、吸い込んだ空気はやはり焦げ臭い。袖で口を覆っていても少しむせてしまう。喉に何かが張り付いたような不快感だ。それでもここから離れるという選択肢はない。ナマエは尾形の名を呼びながら通風口からその身体を滑り込ませた。

「おが、ゲホッゲホッ」

通風口の傍にいるというのにこの苦しさだ。奥はもっと辛いだろう。坑道内は舞い上がる土埃と、異常なまでに熱い空気で満たされていた。天井には黒煙が伝い、その煙で目もやられてしまったらしい。痛みに目を瞬かせると薄っすらと涙が浮かぶ。

「はぁっ…尾形ー!いるかー!?」
「そんなに呼ばなくたって、ゲホッ、聞こえてる」
「!?」

それは暗闇の中から聞こえてきた小さな声だったが、ナマエの耳はしっかりとその声を拾った。

「尾形ッ!大丈夫か!?」

声がした方へと走っていくと、スッと姿を見せたのは尾形だった。やれやれと前髪をいつものように撫でつけながら、フゥと大きく息を吐く。表情こそさっぱりした物だったが、外套や脚絆は焦げ、泥で汚れていた。顔も血こそ出ていないもののぶつけたような傷がある。
そんな尾形を目の前に、ナマエは痛みではなく感動の涙を目尻にためた。声も少しばかり震えている。

「すごく、心配した。無事で良かった…!大きな怪我はしてないか?大丈夫か?」

肩から腕、腹とペタペタたしかめるように身体に触れる。しまいには自分が汚れるのもおかまいなしに、その肩口へと顔を埋めた。ボロボロにすり切れた布越しに、ほのかに暖かさを感じる。

「大丈夫だ。ちゃんと生きてる」

尾形がその背中をぽんぽんと叩いてやれば、ナマエはその顔を見つめてからそっと離れた。尾形は彼が珍しく自分から触れるものだから、それを離すのは非常に惜しい気持ちであった。しかし、まずは早く坑道から出なければならない。ひとまず彼の肩を借りながら通風口から外に出た後、すぐに二人そろって大きく深呼吸をした。

「ナマエ、今どうなっているんだ」
「坑口を炭鉱夫達が塞いで回ってる。もし月島軍曹と剥製屋が中にいるならそのまま閉じ込められるだろう」
「剥製屋が死んでいるのは確認した。問題は月島だな…。この火災が収まって死体を確認するまでは油断ならない」
「そうだな。とりあえず表に人が集まっていたから、まずは表に戻ろう。水もあるし喉が痛むだろう」

少しの間中にいただけでも喉が不快でたまらないのだ。奥にいた尾形はもっと酷かっただろう。現に喋りながら咳をしている。目尻にたまった涙を拭いて、ナマエは尾形の歩幅にあわせてゆっくりと一番大きな坑口がある表へと歩き出した。


表に行くと尾形同様坑道から出てきた人達が、桶にたっぷり入った水で喉を潤していた。二人も例にもれず桶と柄杓を受け取ると、痛む喉を水で洗い流した。さっきまでは何かが張り付いたように痛んでいた喉も、だいぶ楽になった。気づけば殴られたこめかみも痛みがだいぶ治まっている。だが短い時間の間に色々な事があったせいか、今更になって気疲れしてしまった。
重い身体に染み渡らせるように水を飲みながら周囲を見回すと、肌色の中に黒が見える。よく目をこらしてみてみると、それは裸の炭鉱夫の中に混ざっている黒い大男だ。

「あ、あれは牛山さんだな」
「何?」

おーい、と呑気に手を振るナマエに気づいたのか、黒いスーツを着た牛山はずんずん歩いてきた。やはり遠目に見ても大きいと思っていたが、近くに来るとさらに大きい。まるで熊のようだ。やってきた牛山は、二人の目の間でこれ見よがしに大きなため息をついて見せる。

「お前ら探したぞ。全く手間かけさせやがって」

ちらりと二人を見れば尾形はボロボロでナマエもそれなりに汚れている。大方この中にいたのだろうという事は、牛山もすぐに理解できた。

「丁度いい所に来た」
「ん?」
「ちょっと耳を貸せ」

尾形が坑口を指さしながら中に杉元と白石、そして月島がいるかもしれない事を伝えると牛山は一瞬驚いた後すぐに「分かった」と了承した。はて、何をどうするのだろうかとナマエは首を傾げる。坑口は塞がっていると伝えても、真っ直ぐ坑口に向かって走って行ってしまった。

「あれ、いいのか?」
「あぁ。杉元は人皮を持ってる可能性が高いし、白石は人皮そのものだからな。捨て置くわけにはいかんだろう」
「だからってなぁ」

牛山だってさすがに火災が起きている坑道内はどうにもならないだろう。
ナマエはあのスーツをボロボロにして戻ってくる牛山を想像して胸を痛めた。どちらかと言えば牛山本人よりスーツを心配している。いくら刺青人皮があるとは言え、あの中に行かせるのはいかがなものか。とは言いつつも自分にはなす術もなく、ナマエと尾形はその場で待つ事となった。

すると意外にもすぐ杉元と白石を抱えて戻ってきた牛山の姿に、彼はとても驚いた。いくらなんでも早すぎるだろう。どうなっているのか、牛山は炭鉱夫達から英雄並みの声援を受けている。

その中にほのかに見覚えのある少女がいた。炭鉱夫の中に混じるアイヌのその服はよく目立つ。少女とその隣に立つアイヌの人間だろう男は、杉元と白石の元に水を持って駆け寄った。

「…あれは、」

「なんであんたがこんな所に…」
「連れと夕張に来ていたがふらっといなくなってな」
「連れ?」

ひとまず水で喉を潤した杉元は牛山に問いかけた。そして杉元の目が牛山の視線が向いた方に釣られて向けられる。その先にいた尾形は前髪を撫でつけ、ナマエはひらひらと手を振って見せた。どちらとも二度目の再会である杉元は驚き、白石は焦りのような表情だ。

「しょうがねぇ。そいつら連れてついてこい」
「お前はたしか鶴見中尉のとこの…、っミョウジも?!なんで牛山と?」



ナマエは辟易としていた。
剥製屋に戻るまで、杉元、白石の不躾な視線が鬱陶しかったのだ。言いたい事は分かっている。大方「何故尾形と牛山と一緒にいるんだ?」や「あの後どうしてたんだ」というものだろうからあえて聞きはしなかった。だがしかしとにかく鬱陶しい。ツンと知らんぷりをして尾形の隣を歩けば、さらに視線がうるさくなったが尾形はご満悦であった。

「贋作はおそらくこの六体の剥製を利用して作られた」
「贋作?」
「ナマエは見てなかったな。この剥製屋の江渡貝に中尉が発注したであろう偽の人皮だ」

そこは尾形が逃げ込んでいたあの部屋だった。六人の剥製は上半身だけが見事に切り取られていて、改めて見直すと気持ちが悪い。皆が皆その衝撃に顔をしかめる中、牛山の連絡を受けた土方が到着したのはすぐ後の事だった。

土方はナマエ達と手を組む前に、キロランケというアイヌの男にも出会っていたらしい。そのおかげか土方は剣を、杉元は小銃に手をかけ、一触即発状態になりかねない状況であった。しかし、コロコロコロッという不思議な音と家永の申し出により、ひとまず食事の席を設ける事となったのだった。