君は僕の心臓-参


「おい家永。飯を作る前にこいつを少し見てくれ」
「大丈夫だって」
「甘く見ると痛い目にあうぞ」

ひとまず食事をしよう。

そう決まった途端、家の中に散って好きな事をしだす集団の中。尾形は真っ先にナマエの首根っこを掴んだ。突き出す先は家永だ。料理を作る気満々で白い前掛けと三角巾を手にしていた彼女はまるで良妻だが、彼は男であり、何人も殺して必要な部分を食べてきた殺人犯であり、そして医者でもある。

「どうしたの?」
「こいつがこめかみを強打された。一応見てくれ」
「あら」
「言っておくが、手を出したら撃つ」
「まぁ怖い」

そう言いながら家永の顔は全く怖がっておらず、頬は少し高揚しているように見える。口角はあがり、瞳はきらりと光る。それは獲物を見つけた時の動物に少し似ていた。白い布を握りしめたままじわじわと距離を縮めてくるその様は、彼女の中身を少しでも聞き及んでいる人間にとっては恐怖そのものだ。家永本人が嫌な訳ではないのだが、診てもらうのは遠慮したいとナマエは家永から距離を取るように後ずさった。
未だに家永は彼の顔を諦めていないのだろう。これでは本当に撃つ事になってしまうかもしれない。やれやれと髪を後ろに撫でつけながら、尾形もその診察に同席すればあからさまな舌打ちがついてきた。

診察は簡単な触診と問診だけで、案外あっさり、そして穏便に終わった。肌は色が変わっているが、問題はないとの事だった。しかし、二十四時間以内に眩暈や頭痛が再度訪れればもう一度診察しなくてはいけないと言う。ナマエは意地でも体調不良にはなるまいと誓った。診察だけでまた気疲れしてはたまったものではないからだ。

「それじゃあ私は食事を作ってくるけど、食事の前にはその汚れた身なりを綺麗にしなさいよ」
「「…」」

家永はそう言い残して台所へと消えていった。残された二人はお互いの格好を見る。格好など気にする暇もなく渦中に巻き込まれたせいか、すっかり汚れている事など忘れていた。たしかに指摘されるくらいには、二人とも汚れている。これで食卓につくのは衛生上よくないだろう。

かと言ってもこの剥製屋には備え付けの風呂などない。この時代、一般住民の家に風呂はなく、皆町の銭湯に通っていた。本来ならば銭湯に行きたい所ではあったが、のんきに風呂に行っている余裕もない。苦肉の策として出された案は、桶に水を張り、濡れた手ぬぐいで身体を拭く事だった。

ひとまず二人は外套を脱ぎ、己の身体を拭いていく。ナマエは尾形から移った灰の汚れくらいで、外套を脱いでしまえば案外綺麗だった。布自体は少し煙臭かったが、放っておけばいつかは取れるだろうと大雑把に考えていた。後は手のひらを拭けばおおよそ元通りだ。

「尾形、ここ汚れてる。拭いてやるからじっとしてろ」
「あぁ」

一方尾形はあちこち汚れていた。爆発に巻き込まれただけあって、手や顔、首など露出していた所は著しく汚れている。その汚れの大半は泥や灰だ。自分の見える範囲はきっちり綺麗になっていたが、顔だけは未だにそのままだ。鏡があるわけではないこの部屋では上手に拭けないのだ。自分では見えない顔回りを綺麗な手ぬぐいで拭き取ってやれば、あっという間の手ぬぐいの一面が黒くなった。拭った肌の下は、坑道でついたのだろう掠り傷がいくつもある。そこを更に拭けば沁みるのか、少し頬が引きつった。そのまま大人しく拭かれる尾形は子どものように見えてナマエは小さく笑う。

「はい、綺麗になったぞ」
「お前も、顔が汚れてるぞ」
「ん?本当か」

やはり顔というものは自分では分からないものだ。手にしていた手ぬぐいで頬を撫でてみたが、手ぬぐいに汚れはついていない。尾形に指摘された汚れは全く別の場所であった。見かねた尾形は持っていた手ぬぐいの綺麗な面を表にひっくり返す。

「どれ、拭いてやろう」
「ん」

先ほどとは立場が入れ替わり、尾形の手ぬぐいがナマエの肌を撫でる。頬や目の際を優しく触れると肌の上を汚していた汚れは綺麗に拭き取られた。尾形はその肌に、空いている手をそっと這わせる。ちゃんとそこにナマエがいる事を確認するように、親指で頬を撫でる。それがくすぐったくて、ナマエは下を向いた。

「…なぁナマエ」
「?なんだ」
「月島軍曹と口づけしたってどういう事だ?」
「ん?」
「さっき言っていただろう」
口づけしたい相手くらい忘れるなと。

尾形の手が頬からすべり、親指で顎をすくいあげる。自然と持ちあげられた視線は、ナマエの想像以上に近くで交わった。尾形の黒々とした瞳に驚いた自分の顔が反射している。
さっきは手を伸ばして届くくらいの距離だったのだが、いつの間に距離は縮んでいたらしい。まるでこれから口づけをする、そんな距離だ。ぴたりと触れ合った軍衣の釦と釦がカチャッと音をたて、服についていた何かが焼けたような匂いがより強くなる。

目の前に迫る尾形の表情はいつもと何ら変わりはないが、纏う雰囲気が少し刺々しい。すっかりその雰囲気にのまれたナマエはごくりと唾を飲んだ。

「そ、れは意表をつくためにだな……。作戦だよ作戦」
「したんだな」
「まぁ、したな」

なんだかとても悪い事をしたような、親に叱られている子どものような気分になって声はしりすぼみに小さくなる。

「(おかしい。何故問い詰められているんだ?)」

妙な焦りのような、罪悪感のような気持ちがじわじわと胸の内に広がる。もしかしてまずい失言でもしてしまったのだろうか、と思っても今更だ。追い打ちをかけるように真っ直ぐに見つめるその瞳が、今は気まずく思えてそっと目をそらした。

すると尾形が持っていた手ぬぐいが地面にぽとりと落ちた。空いた手でナマエの手首をぎゅっと握り、その場に縫いとめる。

「なに」
「黙ってろ」

そう言うや否や尾形はナマエの薄く開いた唇に、まるで動物のように噛みついたのだ。それは所詮甘噛みという奴であったが、思いのほか痛く驚かせるのには充分だった。至近距離で交わった瞳は大きく見開かれる。

「消毒だ」

「消毒というより最早罰じゃないか」とナマエは思ったが、ふいの口づけに心臓が高鳴る自分もいる。ヒリヒリ痛む唇を抑えながら、ドキドキとうるさい心音を誤魔化すように尾形を睨んだ。

「さっきもそうだが自分を囮にするのはやめろ。見ていない所でお前が危ない橋を渡っていると気が気じゃない」
「断言はできないが…、努力はする」
「頷け」
「嫌だ」

心配してくれているだろう事は理解できるが、できもしない事を約束する程ナマエは無責任ではなかった。そもそも囮になるのも怪我をするなというのも無理な話である。軍人に怪我も囮もつきものだ。それにナマエは、その時自分にできる事をしたまでなのだ。

「お荷物になるのは嫌だ」

フンと顔を背けて見せれば、その態度が尾形には気に障ったらしい。皮膚の厚い指をまたその頬に伸ばすとぎゅっと指先に力を入れて引っ張った。

「にゃにしゅんら」
「言う事を聞かない奴はこうだ」

左右に伸びる頬は例えるならば餅のようだ。上へ下へと引っ張れば形が変わって面白い。美しい顔をこんな風にできるのはきっと自分だけだ。そう思うと優越感もわいてくる。嫌そうな目でじっと見つめるナマエに負けず、頬のやわらかさを堪能しているとふと尾形の脳裏にまた別の人物が思い浮かぶ。

「そういや杉元達とも知り合いみたいだな」
「尾形だって杉元達と知り合いじゃないか」

いい加減頬が痛くなって、その手をやんわりと払いのければそれ以上追及はしてこなかった。ヒリヒリ痛む頬を労わりながら、ナマエはふと炭鉱で出会った時の杉元の反応を思い出す。あの時たしかに自分だけでなく尾形にも反応を示していた事はしっかり記憶していた。
今度はさっきの仕返しをするように言ってみれば、尾形に特に悪びれた様子もなく顎の傷を撫でた。

「それはこの怪我はあいつのおかげだからな。戦った相手くらい覚えている」
「…」
「だけど俺は根にもつ性格じゃないんでね。もうこの事は水に流したさ」
「なら、その水に流すってのは俺には適用されないわけ?」

ケロリとそう言ってのける尾形に、ナマエは首を傾げた。
何せ尾形の顎の傷は杉元との交戦によって瀕死にまで追い込まれた証である。それは造反者になり、ナマエが軍を抜けるきっかけにもなった大事であった。それをさらりと水に流すというのに、何故先ほどから先ほどから自分の事は水に流してくれないのだろうか。月島や杉元達との接触など、それらに比べたら小さな出来事だというのに。

「お前は駄目だ」
「なんでだ」
「お前がたらし込んだ奴らを許せるほど俺の心は広くねぇ」

どんな流れで月島に口づけをしたのか、杉元達と一緒にいたのかなんて事は尾形には分からない。けれど聞いた時から心のどこかで嫉妬のような炎が燻っていた。彼に関する事は、水に流す事など到底できやしない事は既に自覚していたのだ。
愛しい、けど憎い彼の首にするりと手を添える。

けれどナマエは、今度はその手を勢いよく叩き落した。

「……なぁ尾形、さすがにそれは俺も傷ついたよ」

尾形の無茶苦茶な言い訳をさほど気にもしていなかったナマエも、たったその一言が琴線に触れた。「人を誑し込む」なんて言葉は、酷く罵られた気分だったからだ。今までだって周囲の噂話でそういわれた事はあるが、尾形に言われるのは何よりも衝撃だ。まるで心臓をえぐられたように胸が痛い。

その心情が顔に出ていたのか、尾形がハッと気づいた時にはもう彼はその腕の中から抜け出していた。



バンッ

「「?」」

少し開かれていた扉が勝手に大きな音を立ててあいたものだから、杉元と白石は目を丸くしてそちらを見た。そこに立っていたのはナマエであったから、彼らは更にきょとんとした。てっきり仲間であるアシリパが勢い余って扉を開けたものだと思ったからだ。
しかも、先ほど再会した時は穏やかだった彼は、今や眉間に皺を寄せて見るからに怒っている。怒っている顔もいやはや美しいのだが、杉元達には何故怒っているのかなんて事は分からない。ただただ突然やってきたナマエにポカンとしていると、彼はズンズンと杉元の元へやってきて背後に回ってはその軍衣を握った。そして背後からそっと自分が入ってきた扉の方を睨む。

「匿え」
「は?」

何から何を?
杉元がその言葉の意味を考えていると、すぐにその原因がドタドタ足音をたてながらやってきた。開いた扉の向こう側に姿を現した尾形は、キョロキョロと周囲を見渡した後、白石、杉元の順で見た。やはりこちら険しい表情だ。少し髪を乱し、慌てているようにも思える。

「おい杉元。そいつを差し出せ」
「えぇー何この状況…」

白石が嘆いた。杉元と白石を挟んで尾形とナマエが睨み合っているのだ。まさに板挟み状態である。一瞬にしてできあがったこの構造に、二人は疑問が止まらない。一体何があってこうなったのだろうかと。
杉元の後ろに隠れるナマエは、軍服を握る拳にぎゅっと力を入れる。服を握るなんてかわいらしいものじゃなく、絶対に逃がさないという勢いだ。

「俺を差し出したらあの日言っていた寝言をアシリパさんに言うからな」
「えっ俺何を言ったの?!」
「出さなきゃ撃つ」
「ひぇ〜」

尾形の目は本気だ。物騒にも背中に背負った小銃の弾を補填しながら、ドスの聞いた声で脅しにかかる。片や人を盾に、片や銃を持ち、間に挟まれた杉元は顔を青くした。自分の小銃を出そうにも、背中に回ったナマエが邪魔でどうすることもできない。「助けてくれ」という意味を込めて白石を見ても、最早知らんぷりだ。部屋の剥製に話しかけている。

「(くそ、どうすればいいんだ)」

いざという時に役に立たない白石に、杉元は思わず舌打ちをした。このままだと訳も分からず再び尾形と戦わなければならなくなってしまう。そこへまた慌ただしい足音と、コロコロコロと不思議な音が聞こえてきた。その足音はやがてこの部屋までやってくると、ひょっこり顔を見せた。

「おい、食事の準備ができたぞ」
「「アシリパさん!!」」
「…?皆で何やってるんだ?」
「とりあえず尾形の銃口をおろして!危ないからぁ!」
「?分かった!」

こうしてアシリパのおかげで銃口から逃れた杉元は、人知れず息を吐き出した。しかし、未だに背中に張り付いた体温は剥がれる事はなく、射殺すような視線に晒されたままであった。