まだ春の鼓動を知らない


「兄様!」
「…おはようございます、花沢少尉」

あぁ忌々しい。この笑顔も、兄様という呼び名も。

尾形は目の前の男に気取られぬように小さくため息をついた。各自の持ち場へと移動する中、こうして彼は現れる。腹違いの弟、花沢少尉は人懐っこい笑みを浮かべて、部下である尾形を「兄様」と呼んだ。周囲の目があるというのに、まばゆいほどの笑顔を浮かべて見せるこの男。尾形にとっては半分血のつながった兄弟とは言え、真逆の存在に思えて仕方がなかった。

「今度射撃の訓練を…」

誘いの言葉を右から左へと流しながら、尾形はどうしたものかと悩んでいた。
この弟は、世間一般的に言えばできすぎた好青年である。明るく、真面目で品行方正だ。しかし、尾形にとってはあまり絡みたくない人間の部類に入るのだ。かと言って仮にも上司であるこの男に無礼を働くわけにもいかず、しかし付き合っているほど暇でもない。

ちらりと周囲を見てみれば、通りがかる兵士達は興味半分で手出しはしてこないようだ。興味本位の視線ほど、鬱陶しい物はない。通り過ぎる人々に「見るな」という意味を込めて睨むと、偶然にも通りかかった内の一人と目があった。

それは見た事もないほど、美しい顔立ちの男であった。スッと通った鼻筋に、少し伏せられた瞳は美しい。何故か眉間に皺を寄せていたが、その肌はつるりとしている。
その美しさに普段ならば少しは驚いたりするものだが、いかんせん目の前で喋る男にほとほと困っていた尾形は面倒くさそうな表情から変わる事はなかった。

彼は尾形と目が合うと、続いて楽しそうに喋る花沢少尉を見てその足を止めた。そのままスタスタと足早にこちらに近づいてきて、耳にスッと馴染む低いとも高いともつかない、よく通る声で告げた。

「お話し中の所失礼します。あー…尾形上等兵、鶴見中尉がお呼びですよ」
「む、そうか。兄様、お呼び止めしてすいません」
「いや。それではこれで失礼します」

鶴見中尉と言えば尾形にしてもこの少尉にしても、上司にあたる存在だ。呼ばれたならば行かねばならない。
花沢少尉から離れる理由を得た尾形は、そのまま呼び声をかけた男の後ろ姿についていった。長い廊下を歩き、階段を上り、いくつも廊下の角を曲がる。そして二人はどんどん人気のない場所へ進んで、前を歩いていた彼はようやく足を止めた。

「…恩でも売ったつもりか?」

尾形はすぐにその後ろ姿にそう吐き捨てた。
彼が言った鶴見中尉が呼んでいるという事が嘘だという事くらい分かっていた。何せ鶴見中尉の部屋とはここは真逆なのだ。それを分かっていてついてきたのだ。自分を助けた所で得などないはずだが、尾形はこういった不自然な動きには人一倍敏感であった。

彼はくるりと踵を返して、尾形の顔を見る。刺々しい言葉に嫌そうな顔をするわけでもなく怒るわけでもない。ただ興味もなさそうな、ひどく冷めた目をしていた。

「なんの話だか分からんな」

そう呟いた男は、尾形の横を通り過ぎてすぐにその場から立ち去った。



「ミョウジナマエ?」
「そうだ。あの富豪のミョウジ家の息子らしいぜ」

なんらいつもと変わり映えの無い朝。

決まった時間に起床し、今日も今日とて食堂に集まり朝食を求めて列をなす。例外なく尾形も列に並び、後からやってきた同室の男の言葉に耳を傾けた。
噂好きなこの男は、聞いてもいないのにペラペラ喋るのだから、聞きたくなくてもこちらまで軍内部の情報に詳しくなる。しょうもない事件から誰と誰が仲がいいとか、そんな事だ。特に軍内における個人情報なんていうものは皆無で、誰がどこの出身だのそういった事はすぐに広まる。尾形も例外ではなかったのだが、今名があがった男に関しては、毛色が少し違うらしい。

「…おっと噂をすれば、ほら。あいつだよ」

同室の男の視線を追えば、大勢が食事をする中でぽつんと一人で食事をする男が目に入った。遠目からでも分かる背筋をピンと伸ばした良い姿勢。茶碗を持つという誰しもが行う行為もなんとなく気品があるような。
ただ一人で食事をするその姿はどことなく寂しさが感じられた。食事に向けられている伏せた瞳はあげられる事がない。

「(…ミョウジってあいつの事だったのか)」
「あんなに綺麗な顔なのにいつも表情が死んでるんだよな〜。勿体ねぇ」
「ほぉ」

たしかに前に見たあの時も冷めた顔をしていた。
尾形も表情に関しては他人に口出しをできるほど豊かではなかったが、それでも彼は刺々しい人を寄せ付けない雰囲気をまとっている。

彼は美しく、富豪の息子という揃いすぎた人間であり、人の中心にいる人間だろう。話だけ聞いたらとても恵まれた、むしろ恵まれすぎている人生である事は容易に予想がつく。あの見た目じゃきっと両親からも愛されたはずだと尾形は無意識の内に思っていた。

だと言うのに、明朗な義理の弟とは違う。影があるあの雰囲気は、どちらかと言えば自分に近い。

「……」
「あ、前進んだぞ」
「ん」

後ろの男にせっつかれ、そこで一旦尾形の意識は朝食へと戻った。
今日は随分と配膳が早いらしく列の進みが早い。いつもより早く、暖かい食事が乗った盆を手にする事ができた。

さて、どこで食べようか。後ろの男と食べてもいいが、部屋でもうるさいというのに食事時くらい静かに過ごしたいものだ。盆を持ったままフラフラしていると、再びあの男に目がいった。あの美しさに気圧されているのか、周囲には誰も座っていない。

これは静かに食べられそうで丁度いい。黙々食べ進めるミョウジの前に盆を置くと、伏せられていた一瞬瞳がこちらを向いた。人形のように完璧な形の瞳を縁取る睫は長く、くるりと上を向いている。そんな彼を盆をおいてそのままじっと見ていると、ゆっくりと顔があげられた。

「何か用か」

抑制のない、淡々とした声色だ。
尾形はそれに全く動じずに席に座り、さっそくと盆に乗ったみそ汁に手をつけた。今日のみそ汁の具はモヤシだ。なんとも質素であるが、尾形は嫌いではなかった。シャキシャキした歯ごたえに、ほどよいしょっぱさが口の中に広がる。

「用事がなきゃ来ちゃだめなのか」
「そういう訳ではないが」
「まぁそうだな。強いて言うならミョウジ家の坊ちゃんがなんでこんな所にいるのかって噂でな」
「またその話か」
「直接聞いてみようってわけだ」

まどろっこしいのは尾形も面倒で嫌いだ。
味噌汁の椀を持ったまま、そう言ってみればミョウジはもうおおかた食事を終えていたらしい。盆の上には小皿の漬物が残っているだけだ。それを口に放り込み、ポリポリと耳に心地いい音をならす。
けれど尾形には、彼がイライラしている気持ちを音にしたらこんな感じだろうかと捉えていた。

「俺もお前の事は知っていた。花沢中将の子、あの少尉の兄上だとか」
「知られているとは光栄だね」
「あれだけ花沢少尉が『兄様兄様』と言っていればさすがに聞こえる」

やれやれ、と言うように肩をすくめて見せる彼は、てきぱきと盆の上の皿をひとまとめに重ねていく。

ある意味彼らはこの軍の中で噂の際たる所にいる人間だった。片や富豪の息子。片や中将の子。お互いの事は当然聞きたくなくても聞こえてしまうのだ。そしてきっとこうやって接触した事も尾ひれがついた噂になるのだろう。それくらい噂のネタであった。それくらいは尾形も分かっていたが、他人など気にしてビクビクするなど馬鹿馬鹿しい話だ。
だが、彼は周囲のざわつきがどうにも鬱陶しいらしい。纏わりつく視線と小さな内緒話に、苛立ちを隠そうともせずに席を立ちあがった。

「じゃあな。俺はもう行く」

ミョウジはそう言い残して、盆を持って片付けにいってしまった。
席についたばかりだというのに、あっという間に一人きりの食事となった机は想像通り静かだ。

「……」

再びみそ汁に口を付ければ、先ほど飲んだものと全く同じ物だと言うのに心なしかしょっぱさが増した気がした。己が望んで静かな場所を求めてきたのだが、なんだか味気もない。
何故だろうか。一口、また一口と料理を口に運びながら考える。人の有無で味など変わるわけがない。ないのだが、差異なんて物はさっきまであった人影くらいだ。ふと彼が歩いて行った方へと視線をやっても、もうその姿を見つける事はできなかった。





それから尾形の視界の中には気づけばミョウジがいつもいた。彼はいつも機嫌が悪そうだったが、それでも時折花沢少尉に困った尾形を助けてくれるのだから、尾形にもその真意は分からなかった。

しかし、尾形もこれをきっかけにミョウジの傍に行くようになった。何せ兄様兄様とカルガモの子どものようにまとわりついていた花沢少尉も、ミョウジといると何故か来ないのだ。これは良い隠れ蓑だと内心尾形はニヤリと笑った。ミョウジも特に何も言わなかったのだから、特に気にも留めていなかったのだろう。

こうして尾形とミョウジは暇さえあれば隣にいた。朝食の時。任務の時。訓練の時。朝、昼、夜と共に過ごせば見えなかった部分もよく見えてくる。

尾形と張り合うくらいに狙撃がうまい事、不意打ちは得意だが真っ向勝負の白兵戦はあまり得意ではない事。てっきり富豪出身だから家事は駄目だろうと思っていたが、ちゃんと教えればできる事。(神は天に二物を与えないんじゃなかったか?)
傍にいればいるほど面白い。ただ、どんなに一緒にいてもその険しい表情が変わる事はなかった。


そして軍にとって貴重な休日の事。皆思い思いの休みを過ごしていた。町に出たり、訓練をしたり過ごしている。

そんな中、尾形は兵舎の裏に生える大きな木の上にいた。太い幹に背を預け、青い葉を付けた枝が揺れる。
木の下にいる分には何か用事がある将校に話しかけられて雑用を頼まれたりするのだが、上にいると気付かれる事はない。もちろんあの異母兄弟にもだ。それに不思議と木の上は落ち着くのだ。枝葉を揺らす風に耳を澄ませて何をするわけでもなくじっとしている。すると、木の上から見える廊下をミョウジが歩いているではないか。手持無沙汰なのだろうか、フラフラしていた。

「ミョウジ」
「尾形?」
「ここだ、木の上」

木の上、というとようやく気が付いたらしい。大きな瞳をさらに大きくして木の上を見た彼は、大げさに驚いた。

「よぉ」
「驚いた。何してんだ?…って木登りか」
「まぁな」

聞くまでもないかとミョウジは肩をすくめてみせた。

「ちょっと待ってろ」

そう言って彼は一度その場から離れ、わざわざ玄関から出直してきた。誰もいないのだから窓を開けて飛び越えてくればいいものを、と尾形は思ったがすぐにミョウジの生い立ちを思い出して口を噤んだ。

木の下にやってきたミョウジは、大きな木を見上げぽかんと口を開けている。

「気持ちよさそうだな」
「あぁ。お前ものぼるか?」
「いいのか?」
「もう一人くらい平気だろう」

今登っている木の枝はかなり太い。大人が二人乗った所でびくともしないだろう。ただ今登ってこられても彼が立つ場所がない。登ってきた時のために少し幹から離れて足場を取っておこう、と思い立った尾形が幹に手を付いて立ち上がったその時。

ドスンッ

「???」

何やら重たい物が落ちる音がした。音源は木の下からのようだ。
落ちないように木の幹に手を付けながら、そっと下をのぞくと、まるで落ちた蝉のように背中を地面につけてぽかんとしているミョウジがいた。

間違いなければ彼は、

「…落ちたのか?」
「…落ちたな」
「お前、木登りもできないのか」
「悪いか」

ごろりと身体を起き上がらせて、服についた土をぱんぱん払うその顔は見間違いじゃなければほんのりと赤い。よっぽど恥ずかしいのだろう。ツンとそっぽを向いている。
いつも飄々となんでもこなす彼が、まさか木登りで落ちると思ってもいなかった尾形にとっては、その事実がなんだか面白くて笑いを零した。

「いや、ククク…、お前にもできない事があるんだな」
「俺だって完璧な訳じゃない」
「それもそうだ」

それにしたって中々衝撃的な絵だった。思い出してもまた笑える。きっと後にも先にもあんな姿は一度だけだろう。何せ彼は教えたらおおよその事はできてしまうのだ。
だが登れないのならば登り方を教えればいい。呼んだ手前彼を下に置いておくのも忍びないし、木の上に登れて損な事はないからだ。

尾形はひとまず木の上から降りて、一から木を登って見せた。

「この木の瘤に足をかけて、馬に乗る時のように地面を蹴りあげて身体を浮かす。あぁ、…手より足で登る事を意識しろ」

手に頼るな、内腿に力を入れろと細々した助言を入れながらとんとん拍子に再び同じ位置まで登りきる。

続いてミョウジに木を登る様子を上から見守る。元々木に登れるくらいの筋肉や運動神経はある男なのだ。容量を掴めば後は早い。粗削りながら手と足を使って、先ほど尾形が座っていた枝まであっと言う間にこぎつけた。

枝の根元に腰をかけ、吹き抜ける風を一身に受ける。

「初めて木登りなんかした。気持ちがいいな」

その風は細く、やわいミョウジの髪をふわりと舞い上げた。乱れた髪を軽く手櫛で直しながら、彼は一気に高くなった視界に目を細める。たった数メートル視線が上がっただけなのに、それだけで胸が躍る。

「……」
「……」

ミョウジは景色を見下ろしながら、尾形は時折その横顔を見ながら無言であったが、特に気まずいと感じるわけではない。むしろなんて穏やかな時間なんだろうかとすら思えるほどだった。しかし、先にその無言を打ち破ったのはミョウジであった。

「家にいた時はこんな事させてもらえなかったな」
「…そりゃ大層大事にされただろうよ」
「まぁな」

三男とはいえ大富豪の息子、しかもこの容姿だ。自分とはくらべものにならないくらい、それこそ箱入りのように育てられた事だろう。意図せず棘のある言葉を吐いた尾形に、ミョウジは視線をあげて遠くにある大きな家々を見ながら言う。

「尾形はさ、前に俺がなんでここにいるかって聞いただろう」
「あぁ」
「俺家出してきたんだよ」
「家出?」
「そう」

聞けばミョウジはやはり大事にされていたらしい。「そうだろうな」と尾形も言わずとも分かり切っていた事に相槌を打つ。
しかし何事にも程度というものがある。彼の受けた愛は、徐々に重くのしかかり、やがて逃げ出すまでに至ったのだ。尾形に家族の愛が欠けていたように、ミョウジはまた満ち足りすぎていたのだ。親からの愛を得られなかった尾形と、溢れるほどの愛が毒になったミョウジ。二人は対極の存在にありながら、結果として似た者同士になった。

「家出したってのにまた名前に縛られるとは思わなかったけどな。ミョウジって苗字で呼ばれるのは本当は好きじゃないんだ」
「…」
「尾形だっていちいち花沢中将とか花沢少尉の話をされるのは嫌だろう」

苦虫をかみつぶしたように、眉間に皺を寄せるミョウジは足をふらふら揺らす。それがどこか幼く、一瞬だけ彼が子供のように見えた。

「なぁ尾形。これは相談なんだが、俺と二人の時はさ、ただの尾形とただのミョウジナマエでいてくれないか」
「?」

突然の言葉に、尾形はふと顔を上げてミョウジを見た。遠くを見つめていた瞳は、今や尾形を映していた。ゆるく弧を描き、やわらかな笑みを浮かべるその表情はやはり尾形の心を揺さぶる。

「家の話とか地位とか、関係なしにありのままでいようって事」

俺だって少しは息抜きができる場所が欲しいのさ。そう言うミョウジに、尾形は今度こそ真っすぐその瞳を見つめ返した。美しい瞳に自分が写っているのかと思うと、気分が高揚するのだから不思議なものだ。

「ナマエ」
「!何」
「呼んでみただけだ」

尾形は直接、彼の言葉を肯定する事はしなかった。だが名前を呼ぶ。それが彼なりの肯定であることを、ナマエもまた時を共に過ごして理解をしていた。苗字ではなく、名前で呼んだのも彼なりの優しさなのだ。

それでも唐突の事に少し呆気にとられた後、彼は春の日差しのように、穏やかに笑って見せた。

「尾形、ありがとう」
「!」

初めて見たその笑顔はやはり想像通り、美しいものであった。夢でも見ているのだろうかと思ってしまう程に、きらきらと輝いている。

その輝きも、目まいがするほど強く、尾形はまるでその場に縫い付けられたかのように指一本すら動かす事ができなくなってしまった。何かを言おうとして、でも言葉が浮かばずに口を閉じる。

今はただ、その姿を目に焼き付けておこう。どんな彼も美しいと誰もが言うが、きっと自分が見ているこの笑顔が最も美しいのだから。



「…」
「おはよう。今日は随分よく寝てたな」
「あぁ…」

夢か。

あれからもう何年たっただろうか。夢の中のナマエと、目の前のナマエは見た目こそ変わらないが昔と比べて表情は幾分か柔らかい。

彼らはもう、長い間隣にいた。戦争でも、普段の生活でも、そして今も。時が流れようとも、ありのままでいられる隣はどこよりも心地がいい。相反する二人だからこそ、惹かれあったのかもしれない。

「朝食は俺が取ってきた鳥の鍋料理だ」
「うまそうだな」
「だろう?ほら、早く食べよう」
「あぁ。…それじゃあ」
「「いただきます」」