監禁のはじまり


鰊漁から帰ってきて数日。ナマエは自身の部屋にふさぎ込んでいた。どこか怪我をしたという訳ではないが、体調が全くすぐれないのだ。というのもここ数日のめまぐるしい事の成り行きに精神も身体もついていかない事が原因である。

まず仲が良かった尾形が造反した事はもちろん驚いたが、何よりも置いていかれたという事実はナマエに思いのほか重く圧し掛かっていた。更にその尾形が造反したという事実は、仲が良かったナマエにも疑惑の目が向けられる結果となり、どこに行こうとも監視の目がついて回るのだ。これにはさすがに参ってしまう。視線には慣れているが、それが監視となれば嫌な気分も倍増だ。

こんな毎日が続けば、精神的にも暗くなるし身体も自ずと動きたくなくなるもので、軍医に休めと言われてしまったのだ。


そして今。兵舎に戻ってきた中尉に呼び出され、重い身体を引きずって執務室へとやってきた。
だが、この選択が間違っていたと気づくのはすぐ後の事である。


他の部屋よりも重厚な扉を叩いて、入ってすぐに襲ってきたのは冷たい鉄の感覚だった。

「どういう事ですか」
「どういう事とは?」
「この手錠です」

心底嫌そうな顔を隠そうともせずナマエはその手首を見た。



扉を閉めその場で軍帽をとろうとした彼に、鶴見は「あぁ用事はすぐ終わる。軍帽はそのままでいい」と手で制しながら自ら椅子を立ち上がり出迎えた。普段ならば、椅子をすすめる鶴見に違和感を覚えながらも、上官の手前そんな事言えるはずもない。
真っ直ぐこちらへ歩いて来た鶴見を目で追うと、彼はナマエの真横に立つ。真横に立ったせいでかすかに触れ合うその細い手首を掴んで、薄く笑った。そして自身のポケットに手を突っ込んで取り出した手錠を、その手にガチャンッと嫌な音を立てて嵌めたのだ。

突然の事に呆気に取られていると、もう片方の手首にも同じように鉄が触れる。あっという間に細い手首にしっかりと嵌った手錠は冷たく重い。
手錠など、いつの時代も嵌める者は悪人ばかりである。まさかそんな物を嵌められると思っていなかったナマエは思い切り眉を顰めた。取れないと分かっていてもガチャガチャと手錠を動かして取れないか試みるが、やはり肌が擦れるだけだった。

「いや何。君は尾形上等兵と仲が良かっただろう?だから少し話を聞こうかと思ってね。ミョウジ上等兵」
「しかしこれは」
「逃げられたら困るからね」

尾形が造反をおこしたこの時期に、仲が良かった自分を呼び出すなど目的はそれしかないだろう。それくらいはこの部屋に来る前から分かっていた事だ。鶴見のぎらぎら輝く黒い瞳をまっすぐに見つめて、ナマエは「失礼ですが、それでも最初に手錠はないと思いますよ」と怒りに震えた声で言う。

「まるで俺が造反者のようではないですか」

後少し近づけば身体と身体が触れ合うかと言うほど近い距離感を保つ鶴見は、ナマエの顔をこれでもかと言うほど覗き込む。

その行為は言葉など最初から当てにせず、目の動き、反応を見ているようだ。目は口ほどに物を言う。いくらでも嘘が言える口よりも、目の方がよっぽど信憑性が高いと言う事だろう。鶴見の黒すぎる瞳からは、相変わらず何を考えているかは分からない。

「疑わしきは罰せず、なんて言うが甘いとは思わないかね?不穏分子の芽は、根こそぎ抜き取るのが鉄則だ」
君がなんて主張しようが、疑いがかかった時点で君の負けだよ。

そう言っているかのように捉えられる言葉にナマエは驚いた。これでは弁明も何もあったものではない。
鶴見はそんなナマエを中心に円を描くように歩きながら、穏やかな笑みを浮かべる。一瞬言葉を失った彼とは真逆に、随分と楽しそうだ。

「そんな」
「それにね。どちらにせよ君を外に出す訳にはいかなくなったんだよ」
「……俺に造反者の疑いがかかっているからですか」
「いいや。それとは別件でね。君の両親が北海道に探しに来ているのだよ。家出した君を」

髭を撫で、さも業務連絡のように軽く言い放った一言は、造反の疑惑よりもナマエに大きな衝撃を与えるには充分だった。鶴見が横からその顔を更に近くでじっと見つめ、「ミョウジ上等兵?」と呼び声が聞こえているのに、全く頭に入ってこない。驚きのあまり呼吸すら止まっていた。

呆然とした瞳が映していたのは過去の思い出だった。だだっ広い豪奢な部屋で、やる事なす事全てを制限されていた幼い頃の毎日がまるで走馬灯のように思い返される。愛はあれど、求める自由はなかった日々。

直立不動で固まったナマエの額から浮かんでいた汗が玉となって一筋伝う。その伝い落ちる汗を鶴見が指でふき取ると、ハッとようやく意識を取り戻した。少しばかり止まっていた呼吸を取り戻すように深呼吸をして酸素を体内へと送り込む。

「何故、俺が家出したと」
「君の生い立ちは知っていたよ。実は前々からご実家からお手紙ももらっていたからね」

時折忘れそうになるが、彼は『情報将校』として名をはせた人物なのだ。部下の中にどんな人間がいるのか、生い立ちくらいは既に知っていたのだろう。
情報は武器だ。
人を懐柔する事も、心を揺さぶる事もできる。こうして不意打ちで話を引っ張り出す事で、ナマエの正常だった心音を乱す事も簡単だった。

「せっかく君の事を黙っていたというのに、誰かが北海道でそれらしき人を見たと連絡してしまったようだ。手紙には数日以内に来ると書いてあったよ」
「…なんて事を」

北海道は広い。
しかし、その目撃情報から居場所はある程度絞られてしまうだろう。そうなれば見つかるのも時間の問題だ。自分自身目立つ自覚はあるのだ。聞き込みなどされてしまえばあっという間にここがたどり着くに違いない。

ナマエの顔に不安げな影が走る。軍での生活は苛々する事もあるが、それなりに気に入っていたのだ。食事も生活も家よりはあきらかに劣っていても、そこに自由と仲間がいたからである。

「(あぁでも、今尾形はいない…)」
「私としても君を隠していたのが明るみになると不味い事になる」

うんうんと一人で納得しながら、彼はまた靴音を鳴らしながら真っすぐに立つナマエの背に回った。
会ったばかりの人間に手錠をかける男だ。目を離したすきに、また何をされるか分かったものじゃない。考え事はひとまずやめにして、身体を捻って後ろを見た。彼は、それはもう嬉しそうに白い歯を見せて笑っていた。

「だから君が見つからないように、我々は君を秘匿にする」

背後から耳元に、ねっとりと囁かれると同時に布擦れのような音が聞こえた。
僅かに視線を動かせば、それは手錠の入っていたポケットから抜き取られた黒く長い、手ぬぐいのような布切れだ。その言葉を理解する暇も、何をするか考える隙も与えず、鶴見はその布で迷いもなくナマエの目を覆い隠した。簡単には解けないように素早くギュッと後頭部で縛る。

突然闇に覆われた瞼の裏は、後頭部を殴られたかのようにチカチカ光が散っていた。

「(何故、何故こうなってしまうのだ)」

視界が闇に閉ざされ、じゃらりと冷たく音を立てる手錠だけに神経が注がれる。その感覚は、そこから逃げる事はできないのだと言っているように思えて、ナマエはその場に立っているのがやっとだった。



「尾形上等兵が造反して良かったかもしれないな。君をここに留めて置ける正当な理由ができたのだから」

あぁ、ようやく鳥籠が完成した。

鶴見はその喜びを隠そうともせずに、不気味なほど白い歯をむき出しにして笑顔を浮かべた。
さて、捕まえた彼をどうしようか。考えれば考えるほど楽しくてたまらない。目の前に立つナマエの降ろされた手をそっと握ると、じゃらりと手錠の擦れる音がした。