罪ばかりの密
「は?尾形が意識不明の重体!?」
「はい。今は小樽の病院にいますのでお伝えに」
「…分かった。ありがとう、悪いけど俺は先に帰る。お前は後から来い。後この書類も頼む」
「ハッ」
まさに青天の霹靂だった。
鶴見から言い渡された武器輸入の交渉という任務を遂行した帰り。部下から知らされたその一報はナマエを動揺させるには十分だった。
部下曰く尾形は数日前に腕を折られ、顎骨が割れたにも関わらず川から這い上がった所を発見されたらしい。
生きている事には安心はしたものの、意識不明の重体という事にはやはり油断はできないだろう。
物わかりの良い部下へと手に持っていた書類を押し付けると、乗ってきた一等足の早い馬の腹を蹴った。
冬の北海道を馬で駆けると、雪が降っていなくてもとてつもない冷気が体中を襲う。外套を着ていようがおかまいなしに身体の熱を奪われていく。特に顔は覆うものがなく、まつ毛についた水滴が、あっという間に冷えて氷になった。
(目は開けられる。大丈夫、いける)
小樽の兵舎までは海沿いを走っていけばすぐに着く。目印代わりに海沿いに馬を走らせていると、少しずつ海の上に船が見え始めた。馬を走らせれば船の数は増えていき、やがて小高い丘の上から、低い屋根が立ち並ぶ小樽の町を見下ろした。
あと一息だと馬を励まし、一直線に病院へと走らせる。馬に乗るというのは中々に体力がいるもので、病院に着く頃には息が上がってしまっていた。
適当な所に馬の手綱をくくりつけ、通りかかった看護師に声をかけた。
「すいません、数日前に担ぎ込まれた尾形という兵は、」
「!!お、尾形様ですねっ!案内しますっ!」
「どうも」
顔が良いとこういう時は便利だと頬を染めて案内をする看護師の後をついていく。
ギィギィと音の鳴る床の上を歩き、角を曲がるともう尾形の眠る部屋らしい。彼女はナマエの顔を見て更に頬を赤くすると、「ごゆっくり!」という言葉を残して立ち去ってしまった。
悪い意味ではないのだろうが、人の顔を見て逃げられるといつも人の視線には慣れていても少し傷ついた。
「はぁ…尾形、入るぞ」
返事はないとわかってはいるが、ドアを叩いてから部屋に入ると部屋の中はやはり静かなままだ。
眠っている尾形の傍に寄ると、顔は腫れあがり、腕はこれでもかというくらい包帯でぐるぐる巻きにされている。
ナマエの中の尾形はいつでも飄々としていて、射撃手としても一兵士としても強い男だった。それがこんな大怪我をして帰ってきて、一体何があったのだろうかと心配せずにはいられなかった。
「…早く起きろよ、尾形。お前がいなきゃつまらないだろ」
苦しそうに息をする尾形に、ナマエは下手な励ましの言葉をかける事しかできなかった。
そうして部下が戻ってくるまでの間、ナマエは病室で飽きもせずに尾形の顔を眺めていると、ある時ピクリと瞼が動いた気がした。
「尾形?おい、尾形!気が付いたか!?」
慌てて声をかけると、その瞼は薄っすらと開き黒い瞳がこちらを見た。
続いて無傷だった左手で文字を書くように人差し指をたてると、指は白いシーツの上を滑る。ナマエはしっかりと指の動きを見て、それを正確に読み取る事ができた。
それは「ふじみ」という三文字でナマエにはさっぱりなんの事だか分からなかった。だが上司である鶴見中尉ならば知っているかもしれないと、しっかりと脳内の報告内容に追加された。
本来ならばこういった情報は一刻も早く上司への報告するのが軍人としての義務であったが、ナマエにとっては軍人としての義務などどうでも良い事だった。
また意識を失ってしまった尾形を優しくなでた後、より安らかに眠れるようにと握りしめられた拳をそっと解いた。ゴツゴツとしていて、自分よりも一回りも大きな手だ。同じ男だというのに、手だけでも何故こうも違うものだろうかと自分の手と見比べていると、ふとドアの向こう側からギィギィと床の鳴る音が聞こえてきた。
それは確実にこちらに近づいてきていて、床の鳴る音はピタリとドアの前で止まった。続いてコンコンと軽やかなノックの音が響く。
「失礼します。…あぁやはりこちらにおられましたか」
ひょこりと姿を現したのはつい数時間前に置き去りにしてきた部下だった。それなりのスピードで走ってきたのだろう顔が真っ白だ。
「おかえり。私情で抜け出して悪いな」
「いえ。これから鶴見中尉の元へ向かいますがミョウジ上等兵はいかがなさいますか」
「俺も行く。報告する事が増えた」
「かしこまりました」
部下が部屋を出ると、ナマエも尾形の寝顔を一度見てから病室を出た。
表には先に出た部下が見つけてくれたのであろうナマエが乗ってきた馬が既に待機していた。休んだことですっかり元気になった馬は元気よく蹄を踏み鳴らしている。
「あと少し、よろしく頼むぞ」
そう声をかければ馬は言葉を理解したかのように嘶いた。
馬の横から鐙に足をかけ、鞍を掴んでから鐙を踏む足を軸にして弾みをつけて跳ね上がると、浮いた足で馬を跨いで両足を鐙にかけた。手綱を掴んで前を向けば視線はぐんと高くなる。何回乗っても視線が高くなるのは不思議な気分だった。
「準備完了しました」
「よし、行くぞ。兵舎まではすぐそこだ」
先頭を切って馬を走らせると、兵舎までは本当にあっという間だ。歩きならば時間がかかると感じても、馬だと一瞬なのだ。まだ走り足らないと言わんばかりに馬は鼻息を荒くしたが、ナマエが宥めるように撫でると、少しだけ大人しくなった。
それを見計らって部下と馬の手綱と交換に資料を手渡した。武器商人との会話の記録がなされたそれは、これからの報告になくてはならないものだった。欠けている所がないかパラパラと確認した後、小脇に挟んで上司のいるであろう兵舎の一室へと向かった。
途中で中尉が連れて行った兵士がちらほらいる事から、戻ってきているのは確実だ。目的である兵舎の中で最も重厚なドアを叩くすると、中から「入りたまえ」という声が聞こえてきた。
「失礼します」
「やぁミョウジ君。待っていたよ。どうだったかね、武器商人との交渉は」
部屋の中に入り敬礼をすると、中尉は読んでいた本をぱたんと閉じるとこちらに向き直った。
相変わらず何を考えているのか分からない瞳だった。上司ではあるが、ナマエは鶴見が少し苦手だった。何故第七師団には中尉信者が多いのか疑問に思う程には。
だがそんな事言った所でこの上司が変わる訳ではない。ぎらりと煌めく黒々とした瞳の目の前に、にこりともせずに無表情のままで紙束を差し出した。
「こちらに内容をまとめておりますのでお目通しを。それよりご報告があります。尾形上等兵の事です」
「何かあったのか?」
「先ほど一度目を覚ましました。その際に指で「ふじみ」と書いて伝えてきました」
「ふじみ…ミョウジ君は何か心当たりがあるかね?」
「いいえ。何も。ただ尾形が伝えた三文字ですからきっと何か意味があるはずです」
*
尾形の意識が浮上したのは白い光が窓から差し込み始めた朝の事だった。
まだ誰も起きていないのだろう、静かな病院の一室で重たい瞼をゆるりと上げた。最初に目に入った見知らぬ天井に疑問が浮かんだが、自分の身体に走る激痛とほんのり香る薬の匂いにここがどこなのかを理解した。
(…どうにか助かったか)
腕も動かなければ喋ることもできず、思ったより重症ではあったが尾形はひとまず安堵した。
身体が動かないとなると、唯一動く目だけは情報を得るためにキョロキョロと動く。そしてぴたりと視線が止まった。
(ナマエ)
尾形が眠っていた病床から少し離れた所でナマエは壁に寄りかかって本を開いていた。ゆっくりではあるがページめくって活字に目を通しているその横顔は、真剣に射撃の訓練をしている時に似ていた。
だが時折こぼす欠伸であきらかに眠さを我慢しているのが分かる。目の下にはうっすらとだが隈のようなものも見えた。
(…可愛い奴だな)
寝ずに傍にいてくれたのだろう。いつも悪態をついてはいるが、この男は一度懐に入れた相手には甘いのだ。
尾形がぎこちなくだが動く左手で床をトントンと叩くと、そのわずかな音をナマエの耳はしっかりと聞き取った。しょぼしょぼとしていた目は一瞬でハッと見開き、ばっちり視線が交錯した。
「…尾形?目が覚めたのか」
ぱたんと本を閉じ、ゆっくり身体を起こすとそっと尾形の傍にやってきた。横になる尾形を見下ろすその目にはじわじわ水の膜が張られ、目尻に今にも零れそうな雫を作る。それがあくびによるものなのか、自分が起きた事への安堵なのか、尾形には分からなかった。
目に涙を浮かべて、でもいつも通り意地の悪そうに笑うナマエは眠っている間に起きた事を事細かに喋った。尾形がしゃべれない分を埋めるように、時折いつもの愚痴を言いながら。
普段ならばひとつひとつ返してやる相槌も、今日ばかりはできずに歯がゆい思いもした。だがスッと馴染む、落ち着いた声に耳を澄ましていればふと意識が遠のいていくのが自分でも分かった。
「あぁ眠いのか…。そうだな、今のお前には休息が必要だ」
せっかく起きたのだから、まだ眠りたくないと心の内は叫んでいたが、身体は欲求には正直だ。重い瞼に何度も逆らってみたが、視界はやがて狭まり意識が飛ぶ感覚が短くなってきた。
「おやすみ、尾形」
最後に瞬きをすると、ナマエが目を細めて笑った気がした。
その笑顔はひどく穏やかで、いつの日か外国人が描いて見せてくれた神様の絵に似ていると暗くなる意識の中でふとそう思った。