赤い吐息を零す


「おはようございます、牛山さん」
「…毎度思うが、お前は随分早起きだな」
「軍の生活ですっかり身についてしまって」

ナマエは「もう少し寝たいのも山々ですが」と、苦い物でも食べたように整いすぎた顔を渋くしてそう言った。

一行は未だ月形の樺戸監獄へ向けて森の中を通過していた。
樹木の芳香な香りが漂う森は、樹齢何百年だろう大木が幾重にも入り組んでいる。そんな森の中で適当に切り開けた場所を見つけては、暗くなる前に食事を取って、各々眠る。それがここしばらくの過ごし方だった。

そして朝。薄暗い森の中に日の光が入ると、そのかすかな光に牛山の目は覚める。
目が覚めると、ナマエはいつも朝日の中にいた。細くやわい朝日がその姿を光が照らし出し、恐ろしく均整の取れた横顔がこちらを向くのだ。その度にかっちりと着こまれた軍服の襟からわずかにのぞく項がいつも妙に印象的だった。

この中では比較的自分は起きる方が早いと思っていたが、上には上がいるものである。最早朝起きてその顔を見るのが”毎日”になりつつあった。

しかし、彼が起きているからと言って牛山の毎朝やる事は変わらない。胴着に着替えた後、ここらで一番太い木の幹に使い古したを結び、千回も背負い投げの練習をするのだ。これは牛山の毎日に欠かせない修行である。

一方ナマエはと言えばある日にはぼうっと空を見上げ、またある日にはただごろりと横になったりと時間を持て余しているように見えた。今日は気が向いたのか、牛山の鍛錬を長い睫に縁取られた瞳でじっと見つめていた。

「見ていて楽しいか?」
「えぇ、前々から興味はあったので面白いですよ」

その強さは一体どうやって作られているのか気になったのだと、牛山の鍛錬を見ながらナマエは言う。ただ、見ているだけという姿は牛山にはやはり手持ち無沙汰に見えて仕方がない。時間は有限、何もしないというのは何とも勿体無い。

「見てるだけなら手伝え」
「手伝えって背負い投げられるのは嫌ですよ」
「お前みたいな軽い奴を投げたって何の練習にもならん」

千回もの背負い投げの練習をした後。牛山は木に結んだ帯を一旦解きながらナマエを見た。乱れた胴着の襟を正し、黒帯をギュッと締め直した牛山は、まさに絵に描いたような柔道家だ。今までだってその姿は見てきたわけだが、やはり服装というのは大事だ。その屈強な筋肉がよく見えるせいか、いつもより更に強そうに見えるのだ。

そんな牛山に「手伝え」と言われてたナマエの脳内には一瞬空へと放り投げられるような妄想がよぎる。牛山の手伝いなど背負い投げ人形になる事くらいしか思いつかない。もしくは実戦形式の取っ組み合いか。

けれどその手伝いというのは全く持って平和なものであった。
踵のように皮膚がぶ厚くなった大きな手に招かれて恐々近づくと、牛山は地面に手とつま先を付けてピンと背筋を伸ばした。その体制には、ナマエも心当たりがある。そーっとその背中に腰をおろすと、体重をかけたからと言ってその身体は沈む事も震える事もない。牛山はナマエを乗せたまま、ゆっくりと肘を曲げ、伸ばし、ひたすらにそれを繰り返す。

「うわっ」
「まだまだ軽いな」

平均的な男性の体重をしているナマエは、それなりに重いはずなのだがそれでも牛山には軽いらしい。「フン」「フン」と荒い鼻息と共にぐわんぐわんと上下に動く。人を一人乗せているとは思えないほどの速度で腕立て伏せをするその背中は、同じ男から見ても広く立派で憧れる物がある。
家永が牛山の身体が欲しいといっていたのにも納得だ。このたゆまぬ努力が底知れぬ力と強い身体を作っているのだろう。

同時に、ナマエは少し傷付いてもいた。たしかに牛山の錘として役立ってはいるが、こうも簡単に持ち上げられてしまうと悲しくもなる。

「お前も筋肉付けろ。薄いぞ」
「そうですね〜…」

決して筋肉がないわけではなく、むしろ軍人なりに整った筋肉はついているのだ。自分の腹に触れれば堅い筋肉がついている。
けれど、筋骨隆々なその体と比べてしまうと自分の身体が貧相に思えてくるのは仕方がない事だろう。男としては牛山のような身体は憧れるというもので、当の本人からそう言われてしまえば鍛えた方がいいと思えてきた。

そうして牛山が休憩するというのに合わせて、安定感すらあるその背中から降りたナマエはひとまず腹筋でもしようかと思い立った。丁度一人もぞもぞと身体を動かし始めた寝起きの杉元を捕まえて、自分の足を押さえておいてもらう。抑える事くらいは寝起きでもできるだろう。

「一、二、三、」

まだ半分夢の世界にいる割に力強い杉元の抑えを起点に胸の前で腕を組んだまま一回二回と上半身を起こす。さすがに軍にいた頃からずっとやっていただけあって、その速度と回数は一般人よりもはるかに上である。快調に飛ばしていくナマエの腹筋回数は着々と数を積み重ねていく。


「ふっ、んっ、はぁ、今何回目だっけ」

杉元の目がすっかり覚める頃、ようやくその速度が落ちてきた。残された力も少なく、身体もプルプルと震えている。

「…あー、忘れた」
「かぞえ、といて、くれよ!」

声を絞り出しながら、どうにか一回上半身を起こすと、もう何回目になろうか。足元を抑える杉元と必然的に目があう。回数を重ねるたびに素っ気なく、いや、目を合わせようとしなくなっていくのは何故だろうか。目線があちらこちらに泳いでいる。

しかし今はそんな事よりもせっかく頑張ったというのに、回数を忘れられた事のほうが重大だ。目標となる数字もなくなったせいか、ドッと力も抜けてしまう。思わずバタリと後ろに倒れ込むと、酷使した腹筋からじわじわ熱を持った疲れが広がっていく。

「っはぁ〜疲れた…はぁ」
「なんだ、もう終わりか」
「う、しやまさん、…これ以上はもう、はぁ、無理ですよ」

はぁ、はぁと短い呼吸を繰り返す幸彦はみっともない顔をしているだろうと隠すように顔の上に腕を乗せる。

たったそれだけの、小さな仕草と荒い息に牛山と杉元の身体はビシリと固まった。身体、というよりは脳が一瞬考えるのをやめた。
鬼灯のような赤みが差した頬と、少し苦しそうに歪められた顔。ゆるやかに開いた唇が酸素を求め、大きく胸を上下させるその姿は、さわやかな朝にも関わらずどこか夜のいけない姿を連想させてしまうのだ。

一度その考えに至ってしまうと、久しく感じていなかった本能的な”何か”が雄叫びをあげる。一瞬で沸騰したかのような熱い血が全身を駆け巡って、一点に集中していくような感覚。まさに煩悩が目覚める瞬間だった。

「ハァ、男…。男か…、いけるか…」
「おいちょっと待て牛山。こんな所で発情するな!」
「いや、いける。この顔だ…」

フーッフーッ、と暴れ牛のように鼻息を荒げる牛山は今にも理性が振りきれそうだ。今はまだ彼が男だという事実に自問自答しているのだろう、グラグラと熱に浮かされたように頭が身体が揺れている。きっと彼の理性が振り切れたならば、手が届くのはあっという間の事だろう。

だと言うのに疲れからか、全く人の話を聞かずに地面に転がるナマエに、杉元は芽生えたやましい気持ちを振り落すように頭を小さく振った。自分まで一緒になっては未だ眠る男に撃たれそうだ。「全く、この無意識人間め」と心の中で悪態をつきながら、放っておけないのだから杉元も中々の世話焼きである。

意思とは無関係に熱に浮かされる身体をどうにか理性で抑えながらぐっと腹に力を入れる。
そして大きく息を吸い込み、

「尾形〜アシリパさ〜ん起きて〜!!大変だよ〜!!」

ここら一帯の森全域に聞こえるような大声で、未だに眠っていた二人をたたき起こすのだった。



結局杉元の大声で否が応にも起こされた尾形とアシリパのせいもあってか、牛山の暴走は未遂で終わる事となった。いまだ鼻息は荒いものの、しっかりとした足取りで一行の先頭を切って森の奥へと進んでいく。
それでも油断はならないと、ナマエは一番最後尾の殿を務めていた。

「おい杉元。お前、想像しただろ」
「(ギクッ)何をだ?」

そしてナマエと共に後方を歩く尾形は、ふと彼から離れて前を歩く杉元の背後にそっと忍び寄ってそう言った。

突然始まった尋問のような質問に、杉元はギクリと肩を揺らす。何を、なんて言わずとも心当たりはあるのだ。
それを見透かしたように問いかけてくる山猫の顔など、見なくたって分かる。だからこそあえて後ろを振り向かず、まっすぐ前を見ると更に前を行くアシリパには聞こえていないのだろう、楽しげな鼻歌が聞こえてきた。

「何をって…分かってんだろ」
「おい、小突くな!何気に痛い!!」
「これくらいで済んでるんだからありがたく思え」
「あれは不可抗力だろ、痛ッ」

一方その不思議な組み合わせを見たナマエは「(あいつら仲好かったっけ?)」と一人、目をまあるくさせてその姿に小首をかしげるのだった。