うさぎ好みの熱
「ミョウジ上等兵?どうしたんです?」
「これ、持ってきたの誰だっけ」
「宇佐美上等兵ですが、またですか?」
「まただ、あの野郎…」
くしゃり。
細くしなやかな指が、質の悪い薄っぺらな一枚の紙に大きな皺を作る。更に紙は両の手に挟まれ、くしゃくしゃに縮まって机の上に置かれた。椅子の背もたれに大きく寄りかかりながら、再度その紙に視線をやると、皺のよった紙面の上にはお世辞にも綺麗とは言えない個性的な字が躍っている。字が載っているならまだしも、更に字の周りは綺麗さっぱりの白紙である。
何度見ても中身が変わることはないのだが、それでも見てしまうのは何故だろうか。
思わず「ふぅ」と悩ましげな息もこぼれてしまう。ナマエは頬杖を付きながら、傍に控えていた部下を横目で見た。
その姿をじっと見守っていた彼の部下である男は、反射的にごくりと喉を鳴らす。座っているナマエを、斜め上から見ると扇状に広がる長い睫がよく見えた。
「悪いんだが、宇佐美を呼んできてくれ」
「ハッ」
「あ〜〜……あいつ本当、はぁ」
バタバタと出ていく部下を背に、ナマエは体内の全ての息を吐き出すような大きくて深いため息をついた。
ナマエの目の前には今、これでもかと書類が溜まっていた。
これらの書類は他の上等兵たちの記録やら、武器庫の武器一覧などいろんな書類が混ざった紙束である。というのも、この紙束元々はちゃんと分けてあったのだがうっかりどこかの伍長が混ぜてしまったらしい。その仕訳が何故か幸彦と部下に回ってきたのである。とんだ貧乏くじだ。
しかもついでに中身の精査もしろというのだから全く伍長とは良い身分だとナマエは紙を一枚一枚捲りながら呟いた。
そういう訳でこの書類の束をどんどん仕分けて、提出するもの、伍長が見なければならないもの、…と分けているとこの紙束の中から必ず一部差し戻さねばならない書類がいくつか出てくるのだ。そしてそのおおよそが宇佐美上等兵の出してきた書類である。
誤字だらけで到底上に見せられるような文章ではなかったり、期限がギリギリだったりととにかく宇佐美が出したものは念入りに見なければならない奴だとナマエには認識されるほど問題がある奴だった。今回が特別なわけではなく、日常的に上等兵の書類を取りまとめる時にはいつも差し戻していたりするのだ。
「ミョウジ上等兵、なんですか〜?」
「宇佐美お前いい加減にしろよ」
「おや?怒ってます?」
「当たり前だ。これ全部やり直しだ」
けろりとした表情の宇佐美の前に紙束を突き出せば、「え〜っ?」とこれまた間延びした声で驚いて見せた。
宇佐美という男は、元々顔立ちが招き猫のような、愛嬌のある愉快な男だ。
ナマエに言わせてみれば生活態度もその両頬のホクロもふざけた奴だった。書類は必ず差し戻すわ、同じ班で仕事をすると必ず寝坊をするわ、忘れ物をするわととにかく何かしでかすのだ。最早宇佐美という名を聞くだけで「また何かしたのか」と眉間に皺がよるほどである。
しかし、周囲に聞いて見れば特に変わったことはない。いたって普通の奴だと皆口を揃えて言うのだから不思議な話である。
今だって怒っているというのに気にもしていないようで、ニコニコと口角をあげている。その姿はどう考えても”普通の奴”ではなかった。
「以後気を付けまーす」
「それもう何度目だ?」
もはや例文と化したその言葉に、ナマエは更に怒りを募らせる。
もう数えるのをやめたくらい聞いている言葉だ。その度に次こそは次こそは、と期待はしているのだがこの男は見事にそれを裏切ってくるのだから信用も何もあったものではない。じりじりと頭が痛くなってくるのを自覚しながらも、これ以上態度に出すのは大人げない。どうにか自分をなだめながら、やり直しの紙束をその胸に押し付ける。
「怒ってます?」
「怒ってるに決まってるだろう」
「本当に?殴りたいほど?」
「ねぇねぇ」とまるで子どものように、顔をのぞきこんできた宇佐美は、驚くほど楽しそうだ。その瞳にはワクワク、ドキドキとした期待のようなものが混じっているように見える。今彼は怒られていた最中だったのだが、何故こうも想像していた反応とは真逆の方向へ行くのか。
キラキラな瞳とは相反して、ナマエの瞳はスッと細められる。
「殴りたいけど問題になるからな。殴らないぞ」
「えぇっ殴ってくれないんですかっ?!罵ってもくれないし、じゃあもっといけない事しないとですね。次はどうしましょう、書類破きます?」
「…」
目をカッと開き、頬を赤らめながら喋るその姿は、誰の目から見てもあきらかに興奮していた。
息を継ぐ暇もなく、機関銃のように飛び出す言葉は熱を帯びてわずかに上擦っている。ぎゅっと握られた拳はその興奮を伝えるようにブンブンと振られていて、まるで憧れの人に出会った時のような反応だ。
しかし、言っている言葉と行為がいまいち理解できなかったナマエは一瞬きょとんと呆けてしまった。
果たして今のは聞き間違いじゃないだろうか、とわずかな期待を持って部屋の隅に控える部下を見ると彼もまた同じように面喰った顔をしていた。どうやら間違いではないようだ。「ふむ」と腕を組んで、ひとつ浮かんだ質問を投げかけてみる。
「お前、もしかしてわざと?」
「怒られたくってやりました!」
おそるおそるの質問に、答えた宇佐美の笑顔は今日一番良い笑顔だった。
「…お前このクソ野郎ッ」
「!ミョウジ上等兵!抑えてくださいッ」
ギシリ。使い古されて軋む椅子から立ち上がり、宇佐美の元まで歩くとその手は連隊番号が光る襟を掴んだ。グッと引き寄せると、腹立たしい顔が近づいてそのホクロを引きちぎりたくなる衝動に襲われる。いっそ本当に引っ張ってやろうかと一瞬脳裏に物騒な思考がよぎると、さすがに見守っていただけの部下が「まぁまぁ」と割り入ってきた。
何せ理由が理由だけにナマエの怒りは頂点だった。いくら人に好かれる笑顔だろうと、こればっかりは許せない。何せ一番迷惑をこうむっているのはナマエで、毎度毎度尻拭いをさせられていたのだ。それがわざとならとんだ迷惑話である。
「ミョウジ上等兵殿、待った!これでは宇佐美上等兵の思うが壺ですよ!」
「いやしかしこいつをこのまま野放しにしておくわけには…!」
「あ〜っその顔最っ高です!興奮します!!もっとその冷たい瞳で見下してください!なんならその長いおみ足で踏みつけて下されば!ふふふ、夜のおかずには事かきません!さぁどうぞ思うがまま怒り散らして下さい!」
抵抗するつもりがない事を主張したいのか、両手をあげながら「はぁ」と色めく感嘆の声をあげる宇佐美は一言で言えば”そういう人種”だった。
目と鼻の先で美しく顰められた眉も、いつもより汚い言葉を吐くその口も、襟を掴む腕も全てが宇佐美の息遣いを荒くさせる。それこそ本当に靴で踏まれても大歓迎だ。その嫌そうな顔も、行為もその時だけは自分だけに向いているのだ。興奮しないはずがない。むしろそうして欲しくてやっていたというのに、彼の部下は全く余計な事をしてくれたものだと、わずかに冷静な脳が内心舌打ちをする。
「……説教はこれで終わりだ」
そんな宇佐美の心を見透かしたように、襟からそっと手を離すとあきらかにがっかりしたものへと変わるのだから分かりやすい奴だ。
子どもの頃からそういった人種には好かれやすいナマエである。対処方法くらいは心得ていた。
本当の事を言えば未だに拳は怒りに震えているのだが、今殴ってしまえばまた満面の笑みになるだろう。想像すると背中に一滴の水を垂らしたように、ぞわっと肌が粟立つのが自分でも分かる。
途中から何かおかしいと思っていたが、まさか身近にこの趣味がいようとは。
「あっ、ちょっと待って下さい!さっきみたいにこう胸倉をガッとやってくださいよう」
わずかに痛みを訴え始めた胃を抑えながら、ひとまず冷静になろうとナマエの足は出口へと向かう。ここにいたらまた苛々してしまいそうだ。
「お前、宇佐美をどうにかしてくれ…」
「はい」
「あ、ちょっと〜!」
「行かせませんよ!さぁ観念して下さい!」
何かを期待するように、キャンキャン騒ぐ宇佐美を部下が抑えている間に廊下に出ると、ひやりとした冷たい空気が熱くなった額を撫ぜる。やはり怒りで熱くなりすぎていたようだ。普段ならば寒いはずなのに、冷たい空気がやけに心地良い。
「…はぁ」
未だ背後を見れば、部屋の中から「ミョウジ上等兵〜!」「うるさいですよ!」と声が漏れている。これは早めに立ち去ったほうがよさそうだ。犠牲になってくれた部下に内心謝りつつ、ナマエは通り過ぎる人が驚くほどの早足で自室に戻った。
そしてそこでようやく部屋に置きっぱなしの仕事を思い出して、顔を青ざめさせるのだった。
*
「おいナマエ。なんだそいつは」
「…助けてくれ尾形。頭が爆発しそう」
「はぁ、僕は幸せすぎて頭が沸騰しそうです」
そんな事があった翌日、そして更にまた翌日。ナマエの周辺をウロつく宇佐美がいたという。
曰く視界に入る度に見れる冷たい目が好きなのだとか。
その分苛々させられるのはナマエである。行く所行く所チラつくその顔と、沸き立つ怒りにいい加減頭も痛くなってくる。
「最終手段だ、鶴見中尉に報告してやる」
「えぇ〜っ!あ、でもそれはそれで興奮しますねぇ」
「こいつは重症だな…」
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私の中の宇佐美が変な趣向の人に…。
ちなみに年齢的に宇佐美の方がナマエより年下なイメージなので敬語です。