美しい病の終り方
※このお話は 田山花袋「少女病」のオマージュ作品です。そういったものが許せない方はブラウザバックをお願いします※
壱
雄大な山の向こう側から太陽が昇り、やわらかな日の光が差し込む朝方。
小樽のとある大通りに面する、古い木造平屋の引き戸が開かれた。立てつけの悪い引き戸はガタガタと音を立て、静かな通りによく響く。
そこからひょこりと顔を表したのは一人の男である。いかにも眠そうな顔をした男は、店の前の大通りを歩く随分と早起きな人達を横目に、軒先にのれんをかけて「くぁ」と小さなあくびをした。
北のウォール街と呼ばれる小樽であるが、その実町はこじんまりと収まっている。それ故に皆一様に主要な建物がぎゅっと詰まった大通りを歩くのだ。
その大通りの端で骨董品を広げるこの店は、昔ながらの、言わば古株であった。周囲が着々と煉瓦造りに変わる中、家鳴りのひどい平屋を立て替えようなんて考えたことのないこの男は、今日も古ぼけた店先を竹箒を片手に掃除していた。
店先の掃除などという小さな仕事は雇っている小間使いにでも任せればよいのだが、彼は一度もその仕事を譲ったことがない。
太い竹の柄を持って、何も落ちていない地面を慣らすように竹箒で撫でる。そのおかげで砂ぼこりが舞って、余計に引き戸に嵌めこまれた窓硝子を汚すのだが、彼はそれを見てもなんとも思わなかった。
何せ通りを歩く人々が巻き上げる砂埃で汚れるのはいつもの事であったし、意識は通り過ぎる人々に行っているのだ。竹箒で一掃き、二掃きすればその目には行きかう人々の影が反射する。
男は、美しい物を見るのが好きだった。
その内には人も含まれる。女も、男も、とにかく美しい人を見れば日々ときめいていた。人混みの中に美しい姿を見つけては思わず仕事を止めて、一挙手一投足をじっと見つめる。一度美しさを覚えた人達は、その視界の端に映るだけでも男の胸を高揚させるのだ。
手の込んだ刺繍が華やかな着物の見るからに令嬢と言った女性や、快活に笑い飛ばす西の言葉を喋る商人。資産家らしき老夫婦は豪華な馬車に乗ってその道を走る。貿易の拠点である小樽は、実にいろんな人がやってくる。
そして今、男が探しているのはこの小樽に拠点を置く第七師団の軍服である。
濃紺に、パッと目が覚めるような朱色が入った軍服の男達は、この大通りでは見かけない日のほうが少ないくらいにはよく見る服装だ。だからこそこの大通りを通る事を毎日見つめる男には、行きかう人々の中から第七師団を探し出す事など造作もない事である。ただし、見つける事と同じほど彼はがっくりと肩を落とす事も多い。
人混みの中をゆく濃紺を、あくまでも自然に、掃除をしながら目だけで追っていく。
少しやつれた頬が印象的な顔がそっくりの双子。
「(違う)」
大きな目がきらりと輝くうら若き好青年。
「(違う)」
雄雄しい眉と、戦いの勲章であろう傷が頬にある男と、ゆるりと目じりの下がった男。
「(違う)」
一人一人顔を確認しては、内心ため息をつくばかりだ。
「(今日はもしかしたら外には出てこないのかもしれないな)」
男の顔に諦めの色が浮かぶ。
今日はあと一人を見たら店内に戻ろうか。そして店番をしながらいつ来るか分からない客でも待とう。
そんな事を思いながら、竹箒の柄にあごを乗せる。
すると人影の中にまたふらりと濃紺の軍帽が見えた。歩く和洋折衷の中に、特徴的な形をした軍帽は遠目からでもよく見えるのだ。
諦め半分、なにとなしにそちらに視線をやると、男の目はわずかに見開かれた。
まるで雷が落ちたような衝撃。ゆっくりと刻まれていた心臓が一気に速度をあげて頭から指先まで熱を走らせる。
「(第七師団の青年だ!!)」
それは間違いなく男が探していた麗しの青年である。
青年は切れ長な目を真っ直ぐ前に向け、余所見する事なくこちらに向かってくる。一歩、また一歩と近づいてくるその姿に、男は興奮を隠して再び店先の掃除をはじめた。
男と彼は顔見知りというわけではなく、一方的に男が意識しているだけの関係である。知人のような挨拶など交わされるはずもなく、彼は少し足早に男の真横をスッと通り過ぎた。
硬い軍服の布擦れの音。小さく吐き出される吐息。たなびく外套からはふわりと金木犀の香りがする。たったのそれだけで男の脳はビリビリと痺れるようだった。
少しもしない間に雑踏の中に姿を消した青年は、今日もしっかりと男の目に焼き付けられた。
すらりと伸びた手足に、軍帽からのぞく男にしては長い烏の濡れ羽色の髪。シミひとつない白い肌に軍服の濃紺はよく映える。それが自分の真横にいたのだと思えば男はなんとも言えない幸福感に満たされる。
少しでも息を吸い込めば、金木犀の残り香が胸いっぱいに広がった。もうその姿はないと言うのに、匂いだけであの青年を鮮明に思い出せるのだから、匂いというものは時に視覚よりも心を揺さぶるものなのだ。余韻を楽しむように、再び大きく吸い込んだ息を吐き出す頃には、特段好きではなかったはずの金木犀が妙に恋しくなっていた。
「はぁ……」
揺蕩う残り香に酔いながら男はその姿を思い出した。そしてあれやこれやと彼について想像するのが今のもっぱらの楽しみである。
人目を避けるように帽子を目いっぱい深くかぶり、鍔の影で目を覆う。身体の線を隠すように巻かれた外套が、彼の纏う美しさを覆い隠しているようだ。むしろ隠されていた方が、更にその奥の姿を想像してしまう。
彼はどんな生活を送っているのだろうか?
この後はどこへ行く?
その軍服から覗く細い指には、この有田焼の茶器が似合うだろう。あぁ、でも軍に所属しているのだから、きっとその服の下には引き締まった筋肉が隠れているに違いない。
声色は?どんな言葉を話すのだろう?
誰か心に思う人はいるのだろうか。
結婚は、しているのだろうか。
彼の隣を歩く人が、彼が許す人がいるのだろうか。
彼は若く、あんなに美しくあるのだ。欲しいと思う人間など山のようにいるのだろう。そんな事を考えると酷く悲しく、口惜しく思えてきた。己も、彼に躊躇なく話しかけられるような人間であれば。なんて馬鹿馬鹿しい世迷言も出てくる始末だ。
青年がいなくなった後も、華やかな女性達は目の前を通り過ぎていく。だと言うのに彼女たちを差し置いて、謎めいた彼の美しさが今日も一際男を惑わせた。
「お疲れ様でした」
「また明日もよろしく」
そんな事を考えていたらあっという間に時間は過ぎて、もう閉店の時間だ。
適当に小間使いを家に帰した後、軒先に出していた見世物用の骨董を店の中にしまう。そして暖簾を下げればもう今日の営業は終了だ。
相変わらず真っ直ぐに閉まる事のない引き戸を揺らしながら半分閉めると、戸にはめ込まれた硝子の歪みが沈みかけの夕日で、地面に影を作っては揺らめいていた。黄金色の光は、昼間に嗅いだ金木犀を思い出させる。
彼を、男はもう数えきれないほど見て、知っていた。そして彼もまた、自分の事を知っているだろうと男は思っていた。
毎度毎度素知らぬ顔をして、でもわざと店先の前を通るのだ。きっと恥ずかしいに違いない。なんていじらしいのだろうか。じわじわとこみあげてくる愛しさに、男はまた店先の人混みに、いもしない彼の姿を探すのだった。
弐
男が彼に知られていると思っているのはちゃんと理由がある。
いつも通り、店先の掃除をしていた時の事だ。
人や馬が行きかう大通りをふと見た時、濃紺に身を包んだ彼がこちらへ歩いてきた。今日は目にも眩しい黄色の風呂敷包みを両手で抱えている。第七師団の兵舎にでも戻る所だったのだろう。いつもは濃紺と朱色に包まれている彼は、どうやら黄色も似合うようだ。
一応形ばかりの掃除のために手を動かしながら、「彼が似合わない色はあるのだろうか」なんて事を考えている間の一瞬。たった一瞬だが彼とぱちりと視線が交わった。それはまるで顔に火がつくような熱い視線だった。それもこれまた瞬きをしているうちに別の方向へと向けられてしまったが、男にとっては何よりも衝撃的で奇跡的だった。
きっと「いつも店先で掃除をしている奴だ」と思ったのだろう。
しかし、男は知り合いのように会釈をする事も、「いらっしゃいませ」の一言も言えなかった。ただこの赤い顔が見られぬようにと俯くと、彼は人混みに紛れてこちらに歩いてくる。
ザッ。ザッ。
下を向いていると視界の端に靴のつま先が映る。わずかに砂を巻き上げて、目の前を通り過ぎるのが分かった。すると薄っすらと砂埃が舞う土の上に、鈍い光を放つまぁるい釦がころりと転がってこちらにやってくるではないか。
「(彼の釦だ!)」
急いでそれを摘み上げて見ると、それは何度も見た事がある真鍮の釦である。
男はすぐさま「軍人さん!」と声を張り上げた。目があった時は何も言えなかったのにその時ばかりは不思議と腹の底から声が出た。
青年は一瞬足を止めて、周囲をきょろきょろと見渡した後ようやく自分を呼び止めた男に気がついた。男の手のひらには釦がひとつ転がっている。それを見た彼はすぐさま自分の軍服を見た。釦があった場所からは糸がひょろりと飛び出ており、それが自身の釦だと気がついた青年は「うわ」と驚嘆した声をあげる。
そしてすぐさま駆け寄ってくる足音に、男は頭が真っ白になって、釦の乗った手をサッと差し出した。この釦が今ばかりは大層高価な宝石に思えて、深い手相が刻まれた手のひらに薄らと汗が浮かぶ。
青年はころりと転がる釦を優雅な指先でつまむと「拾ってくださってありがとうございます」と礼を言いながら瞳を伏せた。恥じらうように伏せた瞼から生える長い睫がその顔に影を落とす。外れた釦はその場で付けるわけにもいかず、腰に備えられた弾盒の中にそっと仕舞われた。「ありがとうございました」と彼は再度礼を言ってから、丁寧に帽子を取って頭を下げた。さらりと風に舞った髪の隙間から、傷一つない額がのぞく。
しかしそれもほんの僅かな時間の事で、すぐに軍帽をかぶって立ち去る後姿を男は黙って見守った。青年がいなくなった後、男はじわじわと口角をあげて、最後には笑う事が耐えきれなくなって顔を手で覆い隠した。彼の指先が触れた手のひらから、喜びが全身を駆け巡っていく。
これで彼は、己の顔を覚えたはずだ!何せ言葉を交わしてその瞳に己を映したのだ。きっとこの後、この通りを歩くたびに、この店を見る度に「釦を拾ってくれた人」として己を思い出して、気がついてくれるに違いない。絶対にそうだ。
不思議と男は、彼がそう思っているに違いないと妙に確信めいたものを感じていた。
参
この男が開く骨董店は中々繁盛していた。各地で作られた華やかな骨董品や調度品は、贈答用に観賞用にと重宝されているのだ。他には古美術商から古い絵や陶器を買い、売る事もある。そうともなれば店の細かい事にまでは手が回らず、雇っている小間使いたちに任せることが多い。
男は小間使い達に店番を任せ、今日は商品選定のためにと店の中にこもっていた。
するとヒソヒソと小さな噂話が聞こえてくるではないか。今、店内にはおそらく小間使い達しかいないはずだ。きっと聞こえていないとでも思っているのだろう。大方ここらの商人達の噂に違いないだろうが、そんな事は言わせておこう。口止めをした所でお喋りな性質はすぐには変わりやしないのだ。
男は早々に噂話をやめさせる事を諦めて、部屋の隅に置かれたカビ臭い木箱に向き合う。古美術商から買い取ったこの木箱は、ひどく傷んでおりあちらこちらに歪みが生じていた。静寂に包まれた部屋の中で、木箱と対峙していると時折ぽつぽつと小間使い達の言葉が嫌でも聞こえてくる。
「そういえばこの前の見た?大将のいつもの癖」
「あぁ見た見た。相変わらず掃除そっちのけで美人を見ていたね」
「いつもの事とは言え、ちょっと病気染みているよね。美しい物だけじゃなくて、人も美しいと崇めるんだから」
「シッ。あんた、もっと声小さくしなよ。聞こえるかもしれないだろ」
「聞こえた所で何も言ってきやしないよ。今までだってそうだったじゃない」
「…そうだけど」
「きっと美しいもの以外には興味がないんだよ。でも、興味があったからと言って店主は見てるだけ。美しいって思うだけで、…やっぱり変なんだよ」
「うーん」
「普通は手に入れたいって思うだろ?まさに美人、いや美しいモノ万歳だ」
「そのせいで今でも独り身なんだろう」
「うむ。違いない」
それは一字一句間違いなく男の耳に入ってきた。
実に腹立たしい話だ。たしかにもういい年をして独り身ではあるが、こんな所で冷やかすのは悪意しかないだろう。やっぱり噂話などやめさせればよかった。
重たいため息をつきながら閉じられていた古い木箱を開けると、中でたんまりと埃がたまっていたらしい。開けた拍子に待っていたとばかりにボワッと空中に広がった。小さな打ち上げ花火のように、空中に舞いあがった埃はひらひらと舞い落ちる。
男には、この木箱が玉手箱のようだと思った。
そうだ、自分はもうそんな事を言われるほど年を取ってしまったのだ。若い頃、特にこれといった特徴もない青春を過し、今になって後悔をしたって仕方がないのだが。
何故、青春時代にしかできないような、燃えるような恋をしなかった?何故目の前にある美しい身体に手を伸ばさなかった?何故、その身が纏う香りを間近で嗅がなかった?その体温を何故感じなかった?何故、何故。
いくらその美しさにあこがれたからと言って、もうその隣を歩ける年齢ではない。恋をした所で、かなうはずもない。もう、いい年をした世間で言う”おじさん”なのだ。現実を考えると激しい怒りで頭を抱えてしまう。
男は何もかもが嫌になって、小間使いの噂から逃げるように店の外へ出た。
部屋の中にいて気が付かなかったが、空から幾重にも雫が落ちてきている。「おや」と思う頃には、それは雨となっていた。とめどなく降る雨は、やがて地面に水溜りを作り始める。
雨の中、店先を掃除するわけにもいかず、かと言って店内に傘を取りに行くのも面倒だ。雨風にさらされ、古びた壁に寄りかかりながら男はただ左右に流れていく人の塊を見つめる。合間合間に大きな馬が贅を尽くした馬車を引いて、視界を適度に遮っては派手に泥水を跳ね上げた。着物の裾がわずかに汚れたが、その目に映るのは今まで見初めた美しい人達の面影だった。
今までの人生、ただ美しいものや人を見るだけの人生であった。きっとこれからもそれは変わらないのだろう。そう思えば、唐突に「なんて寂しい人生だろうか」と、とてつもない虚無感に押しつぶされそうになった。
あぁ、もし、もし願いが叶うのならば。金木犀の彼の、白く美しい腕がこの身を抱いてくれないだろうか。そしたらきっと、この寂しさからも虚無感からもきっと救われるというのに。
気づけば薄っすらと瞳には涙のような、雨のような雫が溜まっていた。ゆらゆらと水面のように揺らめく視界が煩わしく、着物の裾で拭えば袖の色が一段と濃くなる。
そして、視界が鮮明になった時、男はハッと驚いた。
「(あの子がいるじゃないか!)」
男が涙を拭いた時には、向いの店の軒先に雨宿りをしている青年がいた。
今日は非番なのだろう。海面を映したような鮮やかな青一色の着流しと羽織を着ている。いつもは軍服を着ていた彼を、男ともあろうものがうっかりと見逃していたのだ。
長めの髪が、雨でぬれたのかぺたりと肌に張り付いている。傘を持っておらず、少し濡れてしまったのか。布にまとわりつく水分を飛ばす様に、肩から腕、腕から手へとパッパッと着物を払っていく。布を払う桜貝のような爪先。今までは外套に隠されていた白い首筋と鎖骨がちらりと覗く。
美しい首、美しい顔、美しい身体。どうしてこんなに乱れた俗世にこんなに麗しい人がいるのか。その姿はまるで芍薬の花のようだ。凛と真っ直ぐに背を正し、その花弁を誇らしげに広げている。誰もが手を伸ばしたくなる艶やかさだ。
男は初めて見る着物姿の青年に頬を赤らめながら、一人激しい妄想に襲われた。
彼は誰の隣を歩いて、誰を抱くのだろう。
きっと彼がその美しい顔に笑みを浮かべて、誰かの隣を歩くのならばその時は呪わずにはいられないだろう。
男は目の前を行ったり来たりする人達には目もくれず、少し先に立つ青年をじっと見つめる。そして、心に芽生えたほんの少しの欲望で無意識の内に一歩、軒先からその足を出した。足袋のつま先が白から灰色へと変わっていく。足先に力を入れればぐしゃりと不快感が指先から伝わってきた。それでも濡れる事を躊躇わず、また一歩足を前へ出すと今度は肩が濡れていく。また一歩、踏み出すと今度は頭のてっぺんから雨に打たれて、少ない髪をぺったりと頭皮に張り付いた。
男が雨の中へ踏み出す度、服も雫であっという間に重くなってしまった。
雨音もより強くなって、通りを走っていく人も馬も足並みが自然と早くなる。打ち付ける雨音。騒がしい下駄の音。止まる事のない喋り声。遠くからは馬が鳴らす蹄鉄の音が規則的に近づいてきている。
世界はこれ以上に音に溢れているというのに、男の世界は単純だった。己と、彼だけの世界。聞こえもしないのに、彼の胸が上下するたびにその息遣いに身体が熱くなる。
そのうち青年は、自分に近づいてくるすっかり濡れ鼠となった男に気が付いた。驚いたように大きな美しい瞳を見開いて、その姿を映し出す。
「(やっぱり気がついてくれたのだ)」
そう思うと自分に向けられた視線に堪らなくなって、男は衝動のまま走り出していた。その美しい姿に目も、意識も何もかも奪われてしまっていたのだ。
だから気が付かなかった。
誰かが「危ない!」と大声をあげた時。初めてあたりの音が一気に騒々しく感じられた。耳の真横で、ガタガタと何かが揺れる音と馬の鳴き声が聞こえる。
「あっ」
それは、一瞬の出来事だった。
青年に頭のてっぺんから指先まで全てを持っていかれていた男の上に、黒く大きな影が覆いかぶさった。瞬きをする暇もなく、それは大の大人の身体を地面へと激しく叩きつける。地面にできた大きな水たまりの中に、男が倒れ込むと、にぎやかだった大通りはわずかな間静まり返ったかと思えば、あっという間に再び騒音に包まれた。
「きゃああああ」
「大変だ!馬車と人がぶつかったぞ!」
泥で汚れた水溜りに、赤が混じる。そのすぐ隣には、甲高い嘶き声をあげる馬と、ひどく重そうな馬車が荒々しい足跡を残して止まっていた。
*
ナマエはただただ茫然としていた。
久々に与えられた休日を有意義に過ごそうと、雲行きが怪しいにも関わらず外に出てきたせいか。道中で雨に降られ、雨宿りをしていたらまさかこんな事になるなんて誰も想像だにしなかっただろう。
目の前で突如として起きた馬車と人の衝突事故が起きるなんてことは。
「……」
周囲に目を配ると、惨劇の現場をやじうまが遠巻きに見つめている。誰かが呼んだのだろう、警察が馬車を操っていた御者に話を聞いていた。
未だ雨はやむ事なく、現場で倒れた男の身体に打ち付ける。目を見開いたまま、瞬きもしない。警察曰く打ち所が悪かったらしい。既に事切れてしまっているのだろう。ナマエがその姿を見ている間に、男はすぐに運ばれていった。
その後も着々と事故現場の処理は続いていく。
ナマエにとっては死体など、それこそ戦場でいくらでも見てきた、慣れたくなくとも慣れてしまったものだった。
しかし、しかしだ。彼はその場から動けなかった。傘もなく、雨の中を歩いて行くのも躊躇われたのも理由のひとつであったが、それ以上に一瞬瞳に映った男がその足をすくませていた。
すると茫然と立ち尽くすナマエの前に、未だざわざわと落ち着かない傘の群れの中から一人がするりと抜け出てきた。
「ナマエ」
「尾形…。どうしてここに」
「お前、出かける時傘を持っていかなかっただろう。迎えに来た、…が随分ひでぇ場面に出くわしちまったらしいな。顔色が悪い」
やってきたのは尾形であった。傘を二本持って、そのうち一本を空へと開いている。軍服は濡れていなかったが、脛に巻かれた脚絆には泥水が跳ねた跡がある。
いつまでたっても帰ってこないナマエを心配して急いでやってきたのだが、まさか人混みの中心にいるとは思いもしなかった。しかも、いつもは朱をさしたような頬が、色を失ってすっかり青い顔をしている。
おおかたこの事故を見てしまったのだろう。全く事故など戦いに比べたら平和なものだろうに。内心少し呆れながらも、その顔色の悪さはさすがの尾形も心配した。「大丈夫か」と安心させるようにその身体を抱くと、すっかり冷えた身体をぶるりと震わせてナマエはぽつりとつぶやいた。
「あの男、馬とぶつかる瞬間俺と目があったんだ」
「!」
「普通、ぶつかるって分かる時は受け身取ったりするだろ。でも、馬に気が付いてもなお俺の事を見て笑ってたんだ…」
馬があの男とぶつかる直前、たしかに自分に向かってくる脅威に気づいていたはずなのだ。避けようと思えば、少なくとも即死は回避できただろうに。
なのに、どうしてだ。どうしてこちらを見て笑ったんだ。
それは、笑顔のはずなのにナマエにとっては恐ろしい以外の何者でもなかった。
「お前の知り合いだったのか?」
「…いや、知らない」
「なら忘れろ。知らない人間の事なんか、お前が背負わなくていい」
ぽん、ぽん。
子どもをあやすように、柄にもなく腕の中の青を叩いてやる。忘れてしまえ、忘れてしまえ。そう強く念じながら、一定の間隔を保ちながらただひたすらに宥めると、彼は腕の中で「子どもじゃないんだぞ」と小さく笑った。ほんのわずかだが、頬に赤みが差している。
「帰るぞ。お前のせいで夕飯の時間に間に合うかどうか」
「なら早く帰ろう。俺ももう今日は疲れた」
尾形がもてあましていた傘を奪い取って、空へパッと広げると先ほどより雨足は弱まってきているようだった。それでも差さねばまた濡れてしまう。耳に心地良い雨音を聞きながら、二つの傘は並んで第七師団の兵舎へと向かって歩く。
その足取りは、「夕飯の時間に間に合わない」なんて言っていたとは思えないほどゆっくりだ。地面を引きずるような草履と、規則正しく地を踏み鳴らす靴は、一歩一歩仲良く真っ直ぐにぬかるんだ土の上へと足跡を残している。
彼らの後ろには、惨劇があった事を打ち消すように柔らかい雨がしとしとと降り注いでいた。
ーー
この作品は 田山花袋「少女病」のオマージュとして書きました。気になる方は是非検索を。
書いている最中に北海道には金木犀はない事に気がつきましたが、夢なのであります。