ゆるやかな首筋にあいを記す


「うー…」

「どうする?こいつ。男娼館にでも売るか」
「いや、それよりは金持ちに売った方が」

むしろ外国人に売るというのは。
伝手はあるのか?
やはり手っ取り早く金持ちの方が。

目の前であぁだこうだと下卑た会話が飛び交う中。
綺麗に編まれた茣蓙の上で、ごろりと横たわるナマエは荒い呼吸を繰り返していた。

めいっぱい口の中に詰め込まれた布のおかげで、まともに酸素を取り込む事ができないのだ。喋ろうとすれば布に邪魔されて獣のような唸り声が口から漏れる上に、吐き気までせり上がってくる始末だ。

身体を捻れば、手首と足首に巻かれた荒い縄が食い込んでじわりじわりと痛みが走る。酸素を吸う事もままならず、手足も封じられたナマエは、こみ上げる息苦しさに顔を歪めながら、ただただ男達を刺激しないようじっと身を顰めた。

「(全く、また厄介ごとに巻き込まれてしまった)」

残念な事に捕まるのにはもう慣れっこである。
面倒くさそうに目の前の男達を再度見ると、男達は会話に夢中なようだ。これは丁度いい。じっとその姿を観察しても気づくものは誰もいなかった。

大口を開けて笑う男達の格好はアイヌの住民そのものだ。
樹皮で作られた着物、アットゥシには特徴的な刺繍で彩られている。身体を飾る装飾品も、アイヌの少女であるアシリパが付けているものとそっくりである。

しかし、喋るのは和人の言葉だ。アイヌの中でも和人の言葉を喋れる者はいるが、それにしては流暢な。
しかも会話を聞いてみれば、ナマエをどこかへ売る算段を立てていた。どこが高いだの、あそこの方がもっと高く買うだの、売る先の名前と合わせて細かい情報まで飛び出している。何度も人攫いをした事があるような口ぶりだ。いや、きっとした事があるのだろう。

よく目をこらしてみれば、薄暗い部屋の中でもアットゥシの間から何か黒い模様が見える。胸元に入ったその墨は、少なくとも常人の肌にはない。倶利迦羅紋紋という刺青だ。

「(どういう事だ)」

倶利迦羅紋紋など入れているのはヤクザの類だろう。それを一人ならまだしも、揃いも揃って全員がその模様を入れている。このコタンは一体どうなっているのか。
耳を汚すような笑い声を背景に、ナマエはこのコタンに来た時の事を思い出していた。


*


時は少し前にさかのぼる。

相も変わらず天まで真っ直ぐに伸びる大木の合間をすり抜けて歩く五人は、ようやっと切り開けた場所へ出た。そこには茅葺でできた家と、高床式の食糧庫が並ぶ。アイヌの人々が住まうコタンがあった。

目的地の樺戸まではもうすぐだが、準備は万端に整えておくに限る。アシリパの提案で、立ち寄る事を決めた五人は生い茂る葉を掻き分けて、一歩一歩傾斜を下る。山の上から見た限りでは、このコタンは中々規模が大きいものだったが不思議な事に人っ子一人外を出歩いている人がいない。

季節は春。

冬と違って今の時期は植物を取り、漁をしたりと忙しいんじゃないだろうか。まさか冬眠をしているわけでもあるまいし、とナマエがきょろきょろと辺りをうかがっていると、やがて一人の髭を蓄えた男が姿を現した。

男はエクロクと名乗る、村長の息子らしい。アイヌの人間だと言うのに流暢に言葉を喋る彼は、村長の家まで案内してくれると言う。途中ギチギチに熊が詰められた檻に足を止めつつ、アイヌの作法を守り家に入る許可が下りるのを待つ。

しかし、待てども待てども家の中から反応はない。杉元とアシリパ曰く掃除には時間がかかると言うが、それにしても暇である。

杉元はアリを、尾形とナマエはひらひらと舞うようにやってきた蝶に手を出して遊ぶくらいには、手持無沙汰であった。

「蝶々だ。随分大きいな」
「どれ、捕まえてみるか」
「そーっとだぞ、そーっと…あ、そっち行った」

あっちへこっちへと舞う蝶に手を伸ばしては逃げられる。

そんな事をしていたら、家の中からひょこりと若い男が顔を出した。どうやらようやく家の中に入れるらしい。と思えば、今度は手を繋いでかがんで家の中へと入るのが決まりだと杉元は言う。

先頭を切った杉元に釣られる形で牛山が手を繋ぎ、牛山はすぐそばにいた尾形を掴む。必然的に尾形も傍にいたナマエと手を繋ぐ。そしてもう片方の手はアシリパに差しのべられた。

「はい、手貸して」
「ミョウジは手が冷たいな」
「アシリパさんがあったかいんだよ」

手甲をしているせいか、子ども体温のおかげか、小さな手のひらは心地いい暖かさを持っている。時折彼女の逞しさで忘れてしまうが、ナマエから見れば彼女はまだまだ子どもなのだ。

ぎゅ、と握れば小さな手が握り返してくれる。殺伐とした日常の中で、少しだけ心が温かくなった。

「(ふむ。アイヌの文化ってのも悪くない)」

身をかがめて入った家の中は、伝統的なアイヌの飾りが施された部屋だった。壁にはアイヌの模様が入った茣蓙が張られ、窓際には削られた木、イナウが飾られている。

部屋の中央にある囲炉裏を囲むように五人、エクロクとその家族。そして上座に村長らしき老人が座りパッパッと手を動かした。これもまたアイヌ式の挨拶らしい。パチパチと小さく弾ける火の音だけが聞こえる中、ナマエは物珍しさで目だけを動かして家の中を見た。

囲炉裏の上には丸太でできた火棚があり、そこから木でできた炉鉤、薬缶がぶら下がっている。火棚には身を開いた鮭もひっかけられていて、同じ北海道だというのにこの家の中にいると全く別の国にいるようだ。しみじみとアイヌ文化という物を実感していると、話は不思議な方向に進んでいたらしい。

唐突にアシリパが「オソマ行ってくる!」と席を立ってしまったのだ。

足早に外に出ていった彼女のせいか、家の中にとどまっていた空気がかき混ぜられた。囲炉裏から立ち上る白い煙が風に煽られた。屋根に上るよりも前に、それを吸いこんでしまったナマエは思わず口を抑える。

「んまぁ〜下品!すいませんね、普段は礼儀正しいんだけど……どうしたんだろうな」
「……気にしていない。子どものやる事だから」
「杉元、悪いが俺も外に出る。オソマじゃないが、喉が痛む」
「ミョウジ!お前もか!」
「悪いな」

ゴホゴホ。
手で口を覆いながら咳き込んで見せると、また杉元が「んもう!」と近所のおばさんのようにプリプリと怒った。

煙が目に滲んで少し涙も出るし、喉に何かが張りついたように痛むのだ。あまり人前でずっと咳き込んでいるわけにもいかないだろう。そうつらつらと理由を述べてから立ち上がると、ナマエは引き留められる前に足早に外に出た。

そのせいでまた白い煙が風に煽られて乱れたが、誰一人として咳き込む者はいなかった。ナマエも失礼な事は分かっていたが、何か嫌な気配を感じたのだ。

日の光が入っているとは言え、薄暗かった家から外に出ると燦々と降り注ぐ光は眩しい。手で顔に影を作りながら、先に外へ出たはずの彼女を探すと少し離れた所にその姿を見つける事ができた。

「アシリパさん」
「ミョウジ。なんだ、お前もオソマか?」

アシリパの元へと駆け寄ると、小さな姿がくるりとこちらを向いた。実は喉も痛くもなければオソマでもないのだが、彼は苦笑しながら「うーん。まぁそんな所かな」と誤魔化した。

彼女はヘペレセッを見上げるように立っていた。

人の腕より少し太い木を組んで作られた熊の檻は、ナマエよりも更に背丈が高い。その木々の間からは隙間なく堅い熊の毛が詰まっている。大きさが合っておらず、ギチギチと揺れる檻は今にも壊れそうだ。中にいる熊はよっぽど窮屈な思いをしているのだろう。

「なぁアシリパさん。ヘペレセッていうのはこれが普通なのか?」
「違う。神々の国へ帰った時、コタンが良い所だったと伝えてもらうために熊は丁重に扱われる。檻は身体にあった大きさのものを作る。食事だって人と同じ物か、それ以上の良い物を用意するんだ」

ぽろりと檻から落ちてきた熊の餌入れをアシリパがしゃがんで拾うと、中にはベチャベチャした何かが入っていた。ナマエは後ろに手を組みながらそれを覗き込む。

一体何でできているのか、予想もできない。なんとも形容しがたいこの餌はどこからどう見てもアシリパの言う”良い食事”にはどうにも思えなかった。

「じゃあこれは一体どういう」

ふと口から疑問がこぼれる。その時だった。

「ッなんだ!?」
「?どうした」

ひどく驚いたようなナマエの声にアシリパが振り返ると、青い瞳が大きく見開かれた。

二人の真後ろに、先ほどまで共に囲炉裏を囲んでいたエクロクの弟と、見知らぬアイヌの男が立っていたのだ。それだけならただ驚くだけだが、ナマエを見れば後ろに組んでいた手首を拘束するように縄が巻かれていたのだ。

「おい、これはどういうことだ」

まさに早業としか言いようがない。一瞬で縛られた縄は、想像以上に強く締められていた。身じろぎをすると表面の荒れた縄は遠慮なく肌を傷つけ、擦れて痛む。

「なに、少しの間大人しくしててもらうだけだ」

後ろで拘束が緩まぬように強く縄を引く男は、あざ笑うようにそう言った。周りの男たちも、悪意のある薄い笑みを浮かべている。

最初から捕まえる算段だったのか、男は皆一様に縄を持っていた。ナマエの次はアシリパだ、とじわりじわりと距離を詰め始めた。彼女もまた警戒しながら少しずつ後退する。やがて我慢ができなくなったのだろう、一人の男がアシリパめがけて駆け出した。

「アシリパさん逃げてッ」

そしてナマエもまた、強く地面を蹴った。腕は拘束されても足は動くのだ。だが勢いよく前に進むはずの身体は、グンと引っ張られた腕のせいで逆に後ろに倒れこんでしまった。

手をつく事もできずに、見事な尻餅をついたナマエが顔をあげると、「この拘束を忘れるな」と言わんばかりに手首の拘束がより強くなった。縄を引く目元に傷のある男がフンと鼻で笑う。

「おっと、あんたはあの子どもとは別の所だぜ。その前に…足と口は邪魔だから塞がせてもらう。さすがに大人は抵抗されると面倒だからな」

手馴れた手つきで地面に放り投げられたナマエの足を掴んで、持ち上げると足首をこれまた硬い縄で強く縛る。手足が縛られた姿は、まるで芋虫のようだ。手首、足首と拘束されてしまうと立ち上がることすらままならない。

おまけとばかりに大声を出そうとした赤い口内へと適当な布切れを詰め込み、上から縛られてしまってはさすがにどうすることもできなかった。

結局ナマエにはアシリパが抱き上げられ、家の中に連れて行かれる所を歯がゆい思いで見つめる事しかできなかったのだ。

「(はぁ、情けない…)」

自身もまた別の家にしっかりと拘束されているナマエは内心がっくりと肩を落とす。こうもあっさりつかまってしまうのは軍人としていかがなものか。いや、もう正確には軍人ではないのだが。自分の甘さに辟易としてしまう。

「(こんな奴らに捕まるなんて、尾形に怒られる。いや、笑われるだろうか)」

この後の事を考えると、売り飛ばされる事なんかよりも尾形に怒られる方に胃が痛む。

原因である男たちを、恨めしい思いで見てみれば未だやいのやいのと騒いでいた。酒が入っていないにも関わらず、口を大きく開け笑って随分とご機嫌だ。

時折男達が様子を伺いこちらを見るが、抵抗しない様を見るとすぐ様その視線からは外れる事ができた。大方逃げない、逃げられないとでも判断されたのだろう。

事実ナマエは抗うのも体力の無駄だと死人のように横になって、ただじっと周囲の音に耳をすませていた。

すると、ふと遠くの方からこの世のものとは思えない絶叫が聞こえてきた。大きさからして音源は近くはないだろうに、その声はビリビリと肌を振るわせるほど凄まじい。きっとこのコタン中に響き渡っている事だろう。案の定それに驚いたのか、バサバサと鳥の羽ばたく音が後に続いた。

さすがの男達にもその声と音は聞こえ、ぴたりと楽し気な笑いは止まる。

「なんだ今のは?」
「雄叫び?」
「…念のため武器持って様子見に行くぞ」

このコタンに何か異変が起きている。それに気がついたのだろう。ピリピリと肌をさすような雰囲気を纏った男達は、各々武器を持って見張りの男を除いて外にあわただしく出て行った。

男一人と喋れないナマエ。自然と家の中もシンと静まり返る。そのせいか低い銃声や何かが壊れる鈍い音はよく聞こえる。きっとこの中にさっきまでここにいた男達も混ざっていに違いない。

「(さっきのは杉元の声だな)」

なんて言っているかはさっぱり分からなかったがその声色は分かる。あの叫びと、今薄っすらと聞こえる「アシリパさ〜ん!」と少女を呼ぶ声が同じなのだ。どうやら彼女の方は心配しなくてもすぐに見つけてもらえそうだとホッと胸をなでおろした。

だが、同時に村中のあちこちから叫び声も聞こえてくるのだから、一体外で何が起こっているのやら。少し怖くもなる。

耳をすませば何かを壊すような、物騒な物音は徐々にこちらに近づいてくる。

「うー…」

味方か、はたまた敵か。どちらにせよここに人がいるのだと、場所を知らせようとしたつもりが、口から出るのはやはり言葉にならない唸り声だった。わずかに声をあげただけでも頭がくらくらするほど息苦しい。酸欠に似たような感覚に、脳裏にはあの男がちらついていた。

「(早く来てくれ、尾形)」

自分ではどうしようもできないこの拘束がひどくもどかしい。やはり身体を動かしてみても手足を縛る紐は緩む事なく、ギチギチと締まっている。笑っても怒ってもいいから、とにかくこの苦しさから逃れたい。

「くそ、一体どうなっているんだ…」

近見張りの男は最初こそ出入り口の死角に隠れるように潜んでいたが、あまりにも外の音が怖いのか、足早にこちらへとやってきた。男は腰に下げていた短刀に手に取って、ゆるく湾曲を描く、細かい彫刻が施された鞘から刃を抜く。よく磨かれた刃は、白く光っている。

まさかやけくそになって殺されるのだろうか、と嫌な考えが脳裏をかすめる。しかし、刃で切られたのは足を拘束する紐だった。ぷつりと切れた紐は地面に落ち、窮屈だった足が自由になる。

「立て」

言われるがまま立ち上がろうとするとフラリと足がもつれる。けれど男が後ろ手をしっかり握っているせいで倒れる事はなかった。ぐっと縄を引っ張られると、そちらへ倒れそうになる。ナマエの酸素が回らないフラフラした身体を盾にするように、男は後ろへ回り込むと抜き身の刃を顎の下に当てる。

「ナマエ!どこだ!!」
「!!」

どたどたと荒っぽい足音と共に、待ちわびていた声が聞こえた。その声に思わず身体を動かすと、首にチリッと痛みが走る。切れ味が良すぎた短刀が、肌に赤い線を付けたのだ。

それに気がつかない男は、敵がやってくるであろう土間に意識を集中させる。緊張が混じった唾をごくりと飲む音が妙によく聞こえた。

「ナマエ!っと、…まだ生き残りがいたのか」

男の予想通り、土間から入ってきたのは尾形だった。部屋に入った瞬間銃口をかまえ、短刀を持つ男と対峙した。

銃口は真っ直ぐに照準を合わせ、引き金から指をはずすこともない。その先にはようやく見つけた濃紺の軍服がいるからだ。男の盾になるように立たせられ、首下に短刀を当てられるその姿は、絵に描いたような人質姿である。

「銃を捨てろ!さもなくばこいつを殺す!」
「随分無様な格好だな」

そして男もこれまた典型的な台詞を言うのだから、緊張が走るこの場でも尾形はわずかに笑ってしまった。それが男には余裕の笑みに見えたのだろう。顔を真っ赤にしながら怒鳴った。

「銃を捨てろ!!」
「嫌だ」
「なんだと…ッ!?」

ドンッ

尾形は男の脅迫に一寸の迷いもなく即答した。同時に銃声が鳴り響く。その言葉が男の耳に入るより前に飛び出した弾は短刀を持つ腕を貫いた。予想だにしていなかった不意打ちが、首と刃の間に隙間を作る。

ナマエはその隙間を見逃さず、刃から逃れるように脇へ避けた。尾形ならば迷いなく撃つだろう。そう思っていたのだ。案の定向けられた銃口と、放たれた弾に驚くこともなく、生まれた隙を逃さず銃口から外れる。想像通りの動きをしたナマエに、尾形はわずかに口角をあげて槓杆を動かした。

彼ならばそうするだろう。そう踏んでいたのだが、やはり期待は裏切られなかった。ガチャンッと音を立てながら弾を装填する。盾がいなくなり頭も心臓も曝け出した男へと照準を定め、引き金を引く。この一連の流れが、尾形は驚くほど円滑で早く、そして正確だった。

「奇襲を選ばなかった時点でお前の負けだ」

ドンッ

銃声がコタン中に響き渡る。弾は今度こそは男の頭を貫いた。照準を合わせる時間など、ほんの一瞬であったというのに見事に眉間の間を通り抜けている。

暖かい何かが頭から顎まで、肌の凹凸をなぞりながら滴り落ちる頃。男の身体はその場に倒れこんだ。頭から顔へ、垂れた赤はやがて綺麗だった敷物の網目を走るように滲んでいく。

尾形は男がピクリともしない事を確認した後、すぐさまナマエの猿轡に手を伸ばした。

「待て。今それをはずしてやる」
「うー!」
「大人しくしとけ」
「……っぷはぁ、苦しくて死ぬかと思った…」

硬い結び目をほどき、口の中に入っていた布を吐き出す。
異物がなくなった口は、意識せずとも勝手に深呼吸をした。足りなかった酸素を取り戻すように、胸いっぱいに吸い込むとクラクラしていた頭が急に目が覚めたように動き出す。

「手の縄も切る」
「ん」

続いて手の紐も銃剣で切り落とし、ようやく芋虫状態から脱することができた。少しの間拘束されていただけだと言うのに、随分長い事捕まっていたような気分だ。手を動かし、歩き、深呼吸する事ができる。たったそれだけがとてもすごい事のように思えた。

自由な身体に妙な感動を覚えながら、固まった身体をほぐす様に手足をぐっと伸ばす。
すると尾形がこちらを見て猫のような黒い瞳を大きく見張った。

「おい、その首」
「首?…あぁ、もしかして切れてる?そういやさっきちょっと痛かったような」
「もう一回殺す」
「既に死んでるだろ。こんな首の傷すぐ治るよ」

引き金を引いていた手が伸ばされた先には、襟に隠れて見えにくいが一本の赤い線が入っていた。刀で薄っすらと切れた傷は、もう血は出ていないがなぞられると背筋がぞくぞくする。

くすぐったいような、痛いような。傷に触れる指先に、ナマエはなんともいいがたい気持ちだった。

やがて指は首から下へ、軍服の第一釦だけをはずしてその首を露にした。白い首に赤はよく目立つ。

尾形は何を言うわけでもなく、襟元を掴むと曝け出されたその首筋へと食らいついた。やわく歯を立て、強く吸えば短刀の切り傷よりも強く、じんわりと痛みを与える。鏡など見なくとも、傷を上書きするように赤い痕がついているのは間違いなかった。

「い”っ、尾形、痛い」
「一人で行動するからこういう目に合うんだぞ」
「アシリパさんが心配だったんだよっ」
「結局捕まってるだろう」
「それは…返す言葉もない。あっ、そうだ!杉元とアシリパさんは!?」

ハッとナマエがあからさまに驚くと、首筋に赤い痕がついたのを見て楽しげに笑った尾形は「外を見てみろ」と顎で外を指した。先ほどよりは小さいが、未だに男達の野太い叫び声が聞こえる。

何が外で起きているのか。ひそかな恐怖を抱きながらフラフラした足取りで外に出ると、そこには悲惨な光景が広がっていた。

「なんだこりゃ…」
「こいつら皆偽アイヌだ」

家の外には、男達が倒れていた。皆一様に身体を赤く染め、地面にも赤が飛び散っている。
ある男は頭を斧で割られ、また別の男は心臓を一突きにされている。破れた服の間からはやはり倶利迦羅紋紋が覗き、それが尾形の言う偽アイヌの証拠なのだろう。

それにしたって中々惨い死に方だ。男達は皆刃物で殺されており、杉元がやったのだろう事が容易に分かる。まじまじと男達を見つめると、中にはナマエを捕らえた男達も混じっていた。

「ミョウジ、尾形」
「あっアシリパさん」

一人一人、死んでいるのか尾形と検証していると傍の家からアシリパがとぼとぼと重い足取りでやってきた。尾形とナマエを見つけ、わずかに嬉しそうな表情になったがその隣にあるのは死体の山だ。また眉間に皺がより、その頬には玉のような汗が伝い落ちた。

「よかった、無事だったんだね。何もされてない?」
「あぁ。それよりこれは…」
「杉元のやつ…ほとんど一人で偽アイヌ共を皆殺しにしやがった。おっかねぇ男だぜ」
「さすが不死身の杉元と呼ばれてるだけあるな」

それに尾形もやられてるし、と冗談交じりに言えばそれは癪に障ったようだ。ナマエの背中をバン!と強く叩く。背中を襲う衝撃に「痛っ」とよろめくと、尾形は「ふん」とそっぽを向いた。

「ミョウジは?大丈夫だったか?」
「うん。大丈夫だよ」
「本当か?首に傷跡があるぞ。なんか赤い痕もあるし」
「えっ?!」

純粋に心配するアシリパに、ナマエの頬は紅葉を散らしたようにパッと赤くなった。噛みつかれたあの後、釦をかけずに外に出てきた軍服の襟元は開け放ったままだった。露わになった首筋には、くっきりと赤い痕が目立つ。

切り傷よりも、むしろそちらの方がアシリパには痛そうに思えて眉をハの字にする。
ナマエは一瞬言葉に詰まったが、すぐに襟元の釦をかけながら困ったように笑った。

「いや、これは何でもないから」
「そうか?」
「うん、平気平気」
「いや、顔が赤いな。熱でもあるんじゃないのか」

たしかに顔は触れれば熱い。熱があると言えばあるのだが、そうじゃないとナマエは言いたかった。火照った顔は、ぽんと肩に手を置いた尾形のせいなのだ。

じと、と眉間に皺を寄せてそちらを睨むと彼は「熱、あるだろう?」と素知らぬ顔をするのだから質が悪い。

尾形にとっては視線をあちらこちらへ散らし、赤く染めた頬が自分のせいだと思えば愉快でしかないのだ。

「何!?それはいけない。チセで休ませてもらえ!」
「いや、大丈夫「ダメだ。足元がフラついているだろう」

親子が熱を測る様に、顔がスッと近づくとナマエは思わず「尾形!」と声をあげてしまう。少し視線をずらせば「仲がいいんだな!」と素直な目で見るアシリパがいるのだから恥ずかしい事この上ない。

しかし、尾形は人目があるという事は大して気にしていないようだ。肩に置いていた手で前に垂れた髪を撫でつける。そしてその手は降ろす事なくまっすぐにナマエの背中と太ももの裏に触れた。

「ん?」とナマエが疑問を抱いた時にはぐっと腕に力が入り、身体が抱き寄せられる。気が付けば足は地面から離れてぷらんと宙に浮いていた。

「尾形!?何するんだ」
「足元がおぼつかないようだからな。このまま運んでやる」
「自分で歩けるって」
「心配なんだ。このくらいいいだろう」
「っそれにしてもだなぁ」
「……丁度杉元も来たからな、俺達は先に行く」
「分かった!」

身体を支える尾形の腕は、不思議と安定していて不安に思う事はない。ないのだが、いかんせん抱き上げられる経験なんてものは、男のナマエには多々ある事ではない。しかも尾形に抱き上げられるなど、首の痕よりももっと恥ずかしい経験だ。

かぁっと燃えるような羞恥心が身体の中をぐるぐると巡る。

「行くぞ。不安なら首に手を回せ」
「誰がするかっ」

食い気味に返事をすると、また尾形はやれやれと言わんばかりに首を小さく振った。

顔を少しでもあげればその端正な横顔が見れるのだが、言う通りに首に手を回したならば更に距離が近づいて肌と肌が触れ合いそうだ。意識すれば口づけだってできてしまうだろう。それはまるで物語の中で男女がするような絵面だ。

ただでさえ身体と身体が密着しているというのに、それ以上の事なんてナマエにはできなかった。ただただ恥ずかしさに唇を噛みしめて、身体をぎゅっと小さく縮こまらせる。

その姿がまるで少女のようで、尾形は彼を抱く腕に更に力を込めた。

密着したスゥ、と息を吸うとどちらからともなく苦い煙の香りが漂う。ぴたりと寄り添った体温が、二人が今ここにちゃんと生きていると知らせているようだった。



「おーいアシリパさん!ミョウジはどうかしたのか?」
「杉元!ミョウジは熱があるかもしれないんだ。首に赤い痕もあったからな、酷い事をされたのかもしれない」
「赤い痕?」
「虫刺されにしては大きかったな。あぁ恐ろしい…」
「ふぅん…。赤い痕ねぇ…。あ!ア、アシリパさん、たぶんそれそんなに心配しなくていい奴…かも」
「本当か?あれ、なんだか杉元も顔赤くないか?」
「えっ?!あ、あぁ気のせいじゃないかな?俺は熱ないよ。ね、とにかく俺達も行こう」
「そうだな」


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最初にナマエが捕まった時、ネットで発見した捕縛術を参考に書きました。本当に結構すぐ手首拘束できちゃうらしいです。