このままで、このままなら


「…ん、んん?」

ぱちり。ナマエが目を覚ますと、そこは見覚えのない家だった。

寝ていたせいか妙にスッキリした身体を起こして、寝乱れた前髪を手櫛で直す。ぐるりと部屋を見渡して見れば、煤で黒くなった屋根裏に、壁際にはイナウが飾られていた。身を起こすために床についた手には茣蓙が触れている。畳より目が少し大きいが、つるりとした肌触りが心地いい。

「(…あぁ、チセか)」

どれもこれも、アイヌ独特の道具や飾りだ。ナマエはそれらをぼーっと見つめてようやくコタンにやってきた事を思い出した。たしか、そう。休憩しようとコタンに来て、偽物のアイヌに捕まって、そして。

「……」

尾形に無理やり休めと連れてこられたのだった。眠くもなんともなかったのだが、中々に身体は疲れていたらしい。すっかり眠りこけてしまった。まだ外は明るいから、実質眠っていた時間は短いはずだ。それにしても

「おい、尾形起きろ」
「……」
「おーい…」

尾形まで寝ているとはどういう事だろうか。
隣には壁に寄りかかって目をとじる尾形がいる。きっと見張りのためにいてくれたのだろうが、一緒に寝てしまっては意味がないじゃないかとナマエはその肩を揺らした。いつもはギラリと輝く瞳も、今はなりをひそめて穏やかだ。ゆさゆさと揺すっても、その眉間には皺が寄るばかりで起きそうもない。指でつついてみても、起きない。

「仕方ないな」

ここまでしっかり眠っているとなると、起こしてやるのも忍びない気持ちになってしまうのだから、ナマエは中々尾形に甘い部分もあった。

しばらく眠る尾形をじっと見つめていたが、さすがに見飽きたナマエはそっと伸ばした手で形のいい頭を撫でてやる。いつも尾形は自分の髪を直す時、頭を撫でるように直すのだ。きっと、これは尾形なりに落ち着くのだろう。

さわさわ。さわさわ。想像より柔らかな、髪をなでる。やはり具合がいいのか、スッと手に頭を擦り付けてくる。本物の猫のようで思わずフッと笑ってしまった。頭を撫でるなんて事は起きている間にはしようとは思わないが、寝ている間はいいかもしれない。ナマエはすっかりと大きな猫をかまっているような気分になって、めいっぱい撫で回した。頭から、耳の付け根をさすり、頬のラインをつたって深く残る顎の傷跡をなぞる。さすがに喉を撫でたからと言って、喉をごろごろならすなんて事はなかった。

「ん…」
「!」

さすがに触りすぎたか、尾形が小さく声をあげた。薄く開いた唇から、吐息と混じって声が漏れる。それに驚いたナマエは一瞬びくりと肩を揺らした。じっ、と声をこぼした赤を見つめると、また規則正しい呼吸を取り戻す。少しカサついた、鈍い赤い唇。

「……」

あまり意識したことはなかったが、この唇がいつもこの肌へと吸い付き、キモチいい事をもたらすのだ。そっと、そっと顎に触れていた手を這わせて親指で唇のふちをなぞる。若干唇の皮がめくれているが、指の腹で押して見ればふに、とやわらかい。今度は指で上唇と下唇をつまんでみる。

「ぷ、ふ…ふふふ。面白い」

するとなんとも間抜けな事に取りのくちばしのようで可愛らしい。これは寝ているからこそできる事だろう。実に愉快だ。ナマエは最初こそ笑う事を我慢していたが、やがて耐えきれなくなって吹き出したように笑ってしまった。

けれどずっと掴んでいるのも可愛そうだとやんわり手を離す。すると抑えをなくした薄い唇は開き、鮮烈な赤が覗いた。それは未だ触れる指先へと伸び、

「ん!?」

猫のようにぺろりと舐めた。

「人が寝てる所を襲うなんて随分いい趣味だな」

楽しげに瞳を三日月型に歪めた尾形は目の前の手首をガシッと握る。

「うわっ!?」

そして力任せにぐいと引っ張られたナマエはバランスを崩して壁に寄りかかる尾形へとなだれ込んだ。


ドサッ


「おーい尾形!ミョウジは起きた、か…?」
「あっぶないなもう…ん?杉元?」
「…よぉ。今取り込み中だぜ。見りゃわかんだろ」

あやうく頭と頭をぶつけそうだったが、どうにかもう片方の手を壁について踏ん張った。ぶつからなかった事に「ふぅ」と安心しながら、ナマエは突如として割って入ってきた杉元の声にゆるりと顔をあげる。

チセの玄関に立つ杉元は、何故かひどく驚いた顔をしていた。目をまぁるく見開いて、ぽかんと口を開けている。しかし、それもすぐにわなわなと震え始め、あっと言う間にその顔を赤く染めあげた。その顔を隠すように、首元に巻かれていた襟巻を口元まで引っ張り上げると、「邪魔したな!」と言い逃げしていってしまった。まるでいけないものを見てしまった少女のような、初々しい反応である。

「なんだ?」

ナマエがはてと小首をかしげると、尾形はクックッと喉を鳴らして楽しそうに笑っている。何がおかしいというのか。呆れたようにナマエが視線を玄関から尾形へと戻せば目と鼻の先に不敵な笑みがあった。瞬く瞼の際に並ぶ睫毛の一本一本がよく見える。瞳へと影を落とすように、スッと伸びた睫毛は綺麗だ。けれどそれが見えるという事は、それだけ距離が近いと言う事だ。

「近い!」

想像以上に近いその距離は、穏やかな息遣いすら耳と肌で感じる事ができる。ナマエは思わず顔を勢いよく背けると、尾形が「あぁ?」と煽るような低い声で空気を震わせた。

「いつも近いだろうが」
「お前のいつもはいつの事を言ってるんだ」
「何って夜の「あー杉元が呼んでたから行くか」おい」

未だ掴まれたままの腕を振りほどき、どうにか立ち上がると地べたに座ったままの尾形がナマエをじ、と見上げた。子どもが親に無言で訴えるような、無言の主張がこめられたその瞳は揺らぐことなくまっすぐに見つめる。
それをいつも通り軽くあしらうことも無視する事も彼にはできたが、今日は何かと尾形に世話になりっぱなしだった。助けて、起きるまでここで待っていてくれたのだ。手くらいは貸してやろう。尾形の前にそっと手を差し出せば、あちらこちらにタコができた、皮膚の固い指先が触れる。今度はナマエがその手をぎゅぅと引っ張れば、尾形も重い腰をあげてようやく立ち上がった。

「行こう、尾形」
「チッ」

全く何が気に入らないというのか。随分と盛大な舌打ちをした彼を連れて、ナマエが先にチセを出ると、ぶわりと血の匂いが混じった風が肌を撫でる。寝たせいで頭の隅へと追いやられていたが、ここでは少し前に惨劇が起きたばかりなのだ。大量に流れた真っ赤な血は今や地面に吸い込まれて、大きなしみを作っていた。無造作に生える草には、赤がこびりついて葉の上にまだら模様を描いている。
視線を右に、左にと動かしてもごりろと横たわる死体があるのだからここは一瞬地獄かと思ってしまう。死体なんてものは見慣れてはいるが、じっと見ていたっていい気分はしないものだ。あまり直視しないよう、けれど踏まないよう気を付けながら遠目からでもよく目立つ巨体へと近づいた。

「牛山さん」
「ん?あぁ、お前らか。起きたなら手伝え。片付けの時間だ」

牛山は羽織っていたジャケットを脱ぎ、裾をめくりあげた姿で鍬を振り上げ穴を掘っていた。手足は泥だらけで、額には薄っすらと汗をかいている。彼のすぐ隣にはもういくつも大きな穴が掘られていた。更にその隣では杉元が土を掘り起こしている。二人が眠っている間、杉元と牛山は黙々と穴を掘っていたのだろう。

コタンを救ったからと言って、何もしないまま去るわけにはいかないのだ。何せ大量の死体ができあがってしまったのだから、片づけないわけにはいかない。パッと見た限り、コタンに潜んでいた偽アイヌの男達は十数人ほどだろうか。これらをコタンに残された女性達の手で埋葬するのは重労働だ。

「杉元、鍬かして」
「い、いい。ミョウジと尾形は死体運んでこい」
「何、さっきの気にしてるのか?あれは事故だ」
「気にしてねぇ!」

疲れているだろうから交代する、と手を伸ばすと杉元があからさまに狼狽えながら手にもった鍬ごと身を引いた。ぐい、とその顔を覗き込むように距離を詰めればまた杉元は一歩後ろに引くのだからナマエは面白くなってしまった。ニヤニヤと悪戯っぽい笑みを浮かべて、もう一歩もう一歩と近づくとやがて杉元が自分の掘った穴に足を取られて転んでしまった。

「あ、悪い」
「遊んでないで仕事しろお前ら」
「俺はちゃんと仕事はしてるぞ。全く、ミョウジと尾形にだけ言ってくれ」
「ナマエ行くぞ」
「はいはい」

ナマエと尾形は一旦杉元と牛山の元を離れると、倒れたままの男達の死体へと手を伸ばした。首根っこや、手足を掴みずるずると引きずっては杉元達が掘った穴へと放り込んでいく。コタンの女たちも同様に死体を運び、やがて倒れていたヤクザ達は全員が地面の下に眠る事となった。全てを埋めたその大地は、すっかりあたり一体に土が盛られている。

ここに倒れた男達のほとんどは杉元が殺したというのだからナマエはにわかに信じられなかった。初めて出会った時も、今も彼は基本的には普通の軍人なのだ。夕張の時は確かにその強さは本物だと実感した。時折水浴びの時に見るその傷跡からも、ありとあらゆる怪我をしてきたことも分かる。けれど“不死身”とまで言われるその本気の姿をまだ直接見た事がなかったのだ。しかも当の本人は川のそばでコタンの女たちと一緒にトゥレプ(オオウバユリ)料理を作っているのだからなおの事釈然としなかった。

ぼーっと楽しそうにはしゃぐその姿を尾形と一緒に見学していると、何やら料理を作る場所を変えるらしい。皆一様に道具と材料を持って川からチセの中へと戻っていく。そしてチセに招かれた時のように皆で火を囲んで、その料理ができあがるのを今か今かと待てば、完成したのはオオウバユリのでんぷんを蒸し焼きにしたクトゥマ(筒焼き)という料理だ。

木を削って作られた箸でつるりとこぼれないように気を付けながらつまみあげた。焼きたてのクトゥマはほんのりと湯気が立ち上っている。火傷しないように少し冷ましてから口に運べば、ほんのりと口の中に甘さが広がった。続いて澱粉をフキの葉で包み焼いたものが出され、杉元とアシリパ、そしてコタンの女たちは味噌をつけるとおいしいだなんだと大騒ぎしている。

尾形は黙って包み焼きを食べながら、同じく隣で静かにしているナマエへと顔を傾けた。こういう時、彼はいつも「ヒンナだ」だの「甘い」だの何か感想を言う事が多いのだが、どうかしたのだろうかと思えば彼の視線はぼうっと楽しそうにはしゃぐ杉元達を見ていた。

「どうした」
「いや、大人数で食事をするの、なんだか久しぶりだなと思ってな」
「あぁ…」

言われてみれば、たしかにそうだ。二人きりで始まったこの旅は、今や杉元達と一緒だがこんなにも騒がしく、明るい食事は久方ぶりだ。絶え間なく話し声が響き、シンと静まる間を与えない。時折響く笑い声はチセの屋根を通り抜けて家の外にも響いている事だろう。彼と彼女たちは楽しそうに笑っている。

尾形は適当にあぐらの上に頬杖をつきながら、「戻りたいのか?」とナマエの頭の中を見透かしたように問いかける。彼らにとっての大人数の食事とは、まだ軍にいた頃のあの野太い声が飛び交う食堂の風景だ。代り映えしない顔ぶれに、やかましい声。彼にとってはじろじろと見られて落ち着かない食事だっただろうに。あの時の記憶なんて忘れてしまえばいい。長い睫毛が顔に影を落とす、その横顔を見つめながらその言葉を喉の奥へとぐ、と飲み込む。

「いいや。全然。未練なんてないよ」

皿の上でクトゥマを食べやすい大きさに切って、適当に口に運んでもぐもぐと租借すると、ナマエはフッと口元に笑みを浮かべた。口の中であつく、あまくとろけるクトゥマは彼の好きな味だった。

「ただ、どこにいても尾形が隣にいる事はなんら変わりはないのだと思ってな」
「!」

あたたかい食事、あたたかい家屋。隣を見れば、何も言わないが心地のいい人がいる。なんと贅沢な事だろうか。鼻を抜けるヨブスマソウの香りを楽しみながら、温かくなる心におのずと目じりもゆるりと下がる。

「クトゥマ、だっけ?これはヒンナだなぁ。尾形もそう思うだろ?」
「……あぁ、うまいな」



「さて問題は村長に化けていた網走からの脱獄囚、詐欺師の鈴川をどうするかだが」

食事を食べ終えた一行は、先ほどまでの和やかな雰囲気から一転、このコタン乗っ取りの犯人である鈴川を巡って話し合いが行われていた。生かすべきか、皮を剥ぐかで揉めているのだ。もちろん皮を剥いでしまえば逃げられる恐れもなく手っ取り早いと尾形もナマエも思っていたが、事はそう簡単には運ばないらしい。網走から脱獄した他の囚人の情報があると言ったのだ。金塊を追う杉元には捨て置けない言葉である。一瞬ぎらりとその顔に影がさす。

「どうするんだ、杉元。逃げられたら面倒だぞ」
「嘘なら舌を引っこ抜いてやるさ。閻魔様がやるか俺がやるかの違いだろ?」
「そう。ならいいけど、……サラッと怖い事言うな」

ひとまず鈴川のはこのまま連れて行かねばならないようだ。逃げないようにと銃口でちょいと突いてみれば、あからさまにビクリと肩を揺らすのだから、どうやら銃の脅しはよく効くらしい。「ヒィ」とか細い声をあげる老体を容赦なく突きまわしていると「おい」と尾形が渋い顔をしてナマエの手を掴む。

「おい。その男にあんまり近づくな」
「近づくなって逃げられるだろうが」
「離れても打てるだろ」
「物陰に隠れられたら面倒」

鈴川を挟んで尾形とそんなやり取りをしていると、一行を見送るコタンの女性達の中では何故か牛山の女性人気が物凄い事になっていた。皆が一様にチンポセンセイと頬を染める姿はナマエにとっては中々に異様な光景である。これには女女と常日頃から言っている牛山はすぐに反応していたが、何故か鈴川と杉元に腕を掴まれてズルズルと連行されていく。

その後ろをゆったりとした足取りで歩く尾形とナマエは、やっぱりどちらが鈴川を脅すかで揉めていた。