痛む
「頭痛ぇ〜…」
飲み過ぎた。ただその一言に尽きる。
有休をとってから二日目の昼。苗字はようやくガンガンと鳴り響く頭の中の爆音から解放されつつあった。と言ってもまだ頭を抱えるくらいには痛んでいるのだが。一日すっかり酒と頭痛に悩まされ、心底休みをいっぱい取っていて良かったと思っていた。
重たい身体を起こして部屋に散らばる空き缶を回収する。それと少し掃除をすると何も食べていなかった身体は見事にぐぅ、と腹の虫を泣かせてみせる。
(そういえば本当に何も食べてないな)
何も食べていないという事に気づくと、身体は急に空腹を訴えてくるものだから厄介だ。
何か栄養を取らなくては。そう思いながら冷蔵庫を見ると、中身はとてもお粗末なものだった。たくさんあるのは酒の缶で、その他調味料、ペットボトル。野菜もかろうじてあるがメインになるものがない。そもそも米をたくのも煩わしいし、待っている時間耐えられそうにもない。
あまり動きたくはないが、外に行くしか選択肢は残っていなかった。適当な服に着替え、財布と携帯、鍵を持って部屋を出た。
平日の昼間なだけあって、街を歩いているのはやはり主婦が目立つ。いつもと同じ場所の景色だったが、昼はもっぱら庁舎にいる苗字にとっては昼間の町というのはなんとも不思議でしょうがなかった。
だが何はともあれまずは食事である。普段は外食などしなかったが、今日ばかりは例外だった。腹が減りすぎて気持ち悪ささえ感じる。これ以上は耐えられないと適当に通りかかった喫茶店のドアを開けると来店を告げるベルが控え目にチリンチリンと心地のいい音を鳴らした。
「いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ」
ベルに気づいた店員がカウンターの向こう側で笑みを浮かべながらそう言った。
喫茶店はどこか見覚えのある、柔らかな木目調の雰囲気。よくよく見ればカウンター越しに皿を拭いている彼女も一度見た事があった。苗字は一人カウンターに座ると、店員に渡されたメニューにザッと目を通した。
「サンドイッチとコーヒーで。今日…その安室さんは?」
「かしこまりました。安室さんなら今日お休みですよ」
「そうですか」
安室がいないと聞いてどこかホッとするような、残念なような、自分でもよく分からない複雑な気持ちが蠢いているのが分かった。
ここは一度だけ、あの買い物袋を持つのを手伝った時に一度だけ来た事があるあの店だ。無意識に入ってしまったが、身体は覚えてたのだろうか。頼んですぐに出てきたコーヒーを飲んで、ふぅと息を履けば鼻をコーヒーの香ばしい匂いが通り抜けていった。何も入っていなかった身体にも、熱いコーヒーが下へ下へと落ちていくのが分かる。飲み物でも腹に入ったせいか少しは気持ち悪さも緩和されたような気さえする。
ゆったりとした店内の雰囲気に合わせて、コーヒーを飲んでいるとふとポケットに入れっぱなしの携帯の存在を思い出した。有休を取っているから職場からの連絡はないだろうが、ニュースのチェックくらいは職業柄しないと落ち着かない。取り出した携帯の電源ボタンを押すと、画面は暗いままだった。
(げ、電池切れてる)
思い返せば酒を飲んだ日から充電を全くしていなかったような。新しい携帯ではないせいか、放っておいても充電は勝手に減る癖がある携帯だった。まさか出先で切れているとは。だがニュースのチェックは家に帰ってからでもできる。何故なら今日は休みだからである。
「あの、お客様ってこの前安室さんのお買いものを手伝ってくれた方ですよね」
電源の入らなくなった携帯をポケットにしまうと、タイミングを見計らったかのようにカウンター越しにいた彼女の明るい声が響いた。声のした方を見れば丁度白い皿が目の前に置かれた。綺麗に切られたサンドイッチとパセリ、ポテトチップスが乗ったポアロ特製サンドイッチプレートだ。腹が減って今すぐにでも食べたかったが、話しかけられているのを無視して食べるほど苗字の行儀は悪くなかった。
「え?あ、はい。そうです。」
「やっぱり!見た事あるなって思って。この前はありがとうございました。お礼と言ってはなんですが、サンドイッチ多くしておきましたから!」
「えっあー、ありがとうございます。気を遣わせてしまってすいません」
「とんでもない!ささ、どうぞ食べてみてください!うちのサンドイッチおいしいって評判なんですよ」
「へぇー」
じゃあお言葉に甘えて、と言ってから目の前に出されたサンドイッチにようやく手を伸ばした。腹が減った苗字にとっては普通のサンドイッチですらキラキラ輝いて見える。手にとったサンドイッチを一口食べると、普通のサンドイッチとは何かが違う気がした。ひとつ、またひとつとサンドイッチを食べる手が止まらない。
(なんだこれ、すごくおいしい)
空腹は最高のスパイスと言うが、それにしたっておいしい。パンはふわふわだし、レタスはシャキシャキしていて、味も何か隠し味があるのだろうか。初めて食べるおいしさだ。一個、ニ個と食べる手が止まらない。
「ふふ、それ安室さんのレシピなんですよ」
「え」
「器用ですよね〜。尊敬しちゃいます」
うんうんと一人頷く彼女に、苗字はやっぱりサンドイッチを食べながらこのレシピを作ったという張本人を思い出した。あぁ会いたいなぁ、なんて。自然に思ってしまった自分に気が付いた苗字は慌てて頭を冷やすように一緒に出ていたお冷を流し込んだ。