再び出会う
夜、苗字は警察庁にいた。絶賛有給消化中ではあるのだが、どうしても部屋に一人でいるとささやかではあったがあの楽しかった時間を思い出しては現実との差に悲しくなるのだ。元々寂しがり屋ではなく、去る者追わずな人間ではあったがこうも隣に、近くに人がいないのを寂しいと思ったのは初めてのことだった。
飲んでもその気持ちは晴れる事はなく、むしろモヤモヤする一方で、会えるはずはないと思いながらも幸せだった場所へ勝手に足が動いてしまったのだ。
休暇中とは言え、さすがに警察庁には私服ではいけないのでスーツを着て、警備のおじさんには忘れ物をしたと言えばすんなり通してくれた。ずっと残業をしていた苗字とはもはや顔なじみであった。
夜の庁内はとても静かだ。もちろん今日も今日とて残業をしている人もいるが、苗字のようにフラフラと歩いている人はいない。特に自分が所属している情報管理室は苗字以外は夜にはいつも撤退していた。
今日ももちろんそうである。自分の机に座ると、二日しか離れていないというのに薄らと埃がついている。
「ふぅ…」
こことももうすぐ別れなければならない。そう考えると切ない。何度も言うように課に対するこだわりはないが、降谷だけが苗字の後ろ髪を引いていた。夜の、たった数十分。それが苗字と降谷の会える時間だった。それだけだ。それだけなのに。
「降谷さん…」
どうしてこうも心を揺すぶられるのか。はぁ、とため息をつきながら机につっぷすと、冷たい机と額がくっついた。
「呼んだか」
「え」
幻聴だろうか。耳にスッと馴染む、優しげででも楽しそうな声だ。
パッと身体を起こしてきょろきょろと室内を見渡せば、部屋の出入り口付近にぼんやりと人影が見えた。ドキッと胸が高鳴ったのは急に現れた人影のせいか、その声のせいか苗字には分からなかった。その人影はゆっくりとこちらにやってきて、差し込む月明りの下に姿を現した。わずかな光の中でもそのやわらかな金髪はやはりよく目立つ。
暗闇からスッと抜き出るように現れた金色はやはり降谷だった。たかがニ、三日会わなかっただけなのに懐かしく思えるのだから自分はやっぱりあの時間が恋しかったのだろう。
「全く苗字は有休をとってたんじゃないのか?」
「忘れ物、して」
「ふぅん」
意地の悪そうな笑みを薄らと浮かべる降谷の顔は、薄暗い部屋の中でもよく分かった。淡い月明かりにその端正な顔立ちを薄っすらと照らし出されている。それはどこか神聖な雰囲気で、苗字は場違いな気がして少しでも距離を取ろうと背もたれに体重を預けた。距離と言うよりは気持ちの問題なのだが。
コツコツ。
コツコツ。
やたらと響く足音が、無意識に心臓をうるさくさせる。心音と同様大きくなる足音は、ピタリと目の前で止まって苗字は自然と目線を上にあげた。いつの日かはバナナの色だなんてふざけていったが、今はきらめく月のような金色の中に、煌めく青い瞳が苗字を見下ろしていた。わずかな光が乱反射するその瞳は、苗字を捉えて離さない。
なんでいるのか、という野暮な質問は心の中では思っても声に出して言う事は出来なかった。ただ確実に、自分の体温が少しあがっていた。触らずとも分かる。脳が沸騰しそうだった。
「あの、降谷さん」
「なんだ?」
「降谷さんはその、今日も仕事…ですよね」
(あ〜〜そんなの当然だろ。何言ってんだ俺…)
言いたい事も、聞きたい事も山ほどあるのだ。しかしよりによって「今日も仕事か」なんて、そんな事が言いたかったわけじゃないのに。心とは裏腹に口は勝手に違う事を紡ぐのだから苗字は内心頭を抱えた。
言葉にすれば、何もかもが変わってしまう気がした。この曖昧な関係も、自分の心も。
真っ直ぐに見下ろす青い瞳から逃れるように視線を泳がせると、はぁと小さくため息が聞こえた。
「苗字に会いに来たって言ったらどうする?」
「え」
「俺は今日本当は登庁するつもりなかったんだ。だけど通りかかった時、この階の電気がつくのを見たんだ」
この階は苗字以外は誰も残業する事はないのだ。もしも着くとしたらそれは働き者の誰か。そんなもの、すぐに分かる。その人物が休みだとしても、確認せずにはいられなかったのだ。
降谷が隣に座ると、ようやく真っすぐその顔と向き合う。まるで絵を切り抜いたような美しさだ。
「どうして」
「苗字、俺と一緒に来てくれないか」
苗字が言い終わるよりも早く、降谷は言葉を遮って言った。先ほどの余裕を含んだ笑みではなく、それはただただ真剣な、まっすぐな言葉だった。射貫くような青い瞳はきらりと反射して苗字の顔を反射させる。
たった一言。その言葉だけで息が詰まりそうになる。何故だろうか。なんてことはない言葉だというのに、何よりも重く、心を掴んで離さない。けれど、今はそれでいいのだ。
苗字はそっと手を差し出した。降谷の前に、握手をするように。その手を見た降谷は、一瞬ぽかんとしていたがその意味をすぐに理解した。そっと手を握ると、やはり降谷の方が冷たい手をしている。それもそうだろう。今、苗字は自分でも自覚するほど身体が熱いのだ。思わず小さな笑みをこぼしてしまう。
「俺も、少しの間だったけどいつのまにか貴方のいない夜は寂しいと思っていました」
「なら」
「どんな形でもいいんです。どうか俺を傍に、置いてくださいませんか」
今はまだ、この関係性にも、感情にも明確な名前はつけられない。その言葉が、どういう意味合いなのかも苗字には分からない。
けれどそれでいいのだ。
これからゆっくり、傍で考えればいい。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」