感謝する
「そういやあのタヌキ、捕まったらしいな」
堅い缶のプルタブを開けて、香ばしいコーヒーの香りと共にその苦味を楽しんでいると、隣で立っていた山田がふとそんな事を言った。目だけをそちらに向けると、真上に光る太陽がまぶしくて目を細める。
苗字と山田は警視庁の屋上にいた。屋上は想像以上に風が強く、ジャケットはボタンをとめないとはためいて鬱陶しい。それでも下に降りないのは、今はまだ勤務中だからである。時折のコーヒーブレイクは皆もするものだが、今回は話が話だけに山田が屋上に来いとメールを寄越したのだ。
「へぇ」
「興味なさそうだな。お前が一番嫌いな奴だったのに」
「もう捕まったならそれでいい」
「そんなもんかね」
コーヒー片手に屋上をぐるりと取り囲む軋んだフェンスに寄りかかって、苗字はコーヒーを飲みながら「そんなもんさ」と抑制の無い声で答えた。
山田の言うタヌキとは、苗字の左遷のきっかけになったタヌキおやじの事である。なんと降谷が追っていた、情報を流出させていた男というのがタヌキおやじの事だったのだ。モニターの映像と、苗字が左遷前に集めいてた情報が決め手となりお縄になったらしい。中々の地位に上り詰めていたその男が捕まったという事件は、警察庁内を大きく震撼させた。
だからと言って、苗字の心は自分の心でも驚くほど凪いでいた。たしかに左遷された事は腹立たしかったが、結果としてあの不思議な出会いに繋がったのだ。今ではむしろ感謝しているくらいだ。
「しっかしお前があの警備企画課に異動とはな」
「人生って分からないな」
そう、結果として苗字の移動先はあの警備企画課になったのだ。
この山田曰く降谷に脅されて決定したと言っていたが、この男が協力した事くらいお見通しである。何せいちいち忠告なんてしてくる程のお人よしなのだから。
もちろん今後の移動先には元のサイバー課に戻るという手段も残されていたのだが、苗字はそれを良しとしなかった。単純に出戻りは格好悪いのと、やっぱり降谷のいるあの忙しいながらも充実した毎日に飛び込みたいとそう思ったのだ。
「本当に。左遷されたと思ったらエリート街道ってなんだよそのシンデレラストーリーは」
「お前がシンデレラとか気持ち悪い」
「うっせ」
「でも本当、まだ夢みたいだな」
ぼーっと空を見上げると、絵の具をそのまま塗ったような、怖いくらいの青が広がっている。握る缶も、かすかに残る苦味も、全てが現実ではあるのだが。どうにも惚けてしまって仕方がない。そんな気の緩んだ顔をしている苗字に、山田は今度こそ茶々を入れる事なく穏やかに目尻を下げた。
一時はどうなる事かと友人の身を案じていたが、結果として丸く収まってようやく肩の荷が降りた気がしたのだ。これから警備企画課に入る苗字とは、中々会えない日々が続くだろうがそれでも同僚の素晴らしい移動を祝わない訳がないのだ。「おめでとう」と素直に言えば、苗字は「やっぱり素直だと気持ち悪いぞ」といつもの調子で一蹴りした。
「あ、電話だ。ちょっと出るな」
「あぁ」
コーヒーの残りが後半分ほどになった時。ふと苗字は自分のポケットに忍ばせて置いた携帯を取り出した。微かに震える画面には、非通知の文字。一瞬その文字に「はて」と首を傾げたが、ひとまず出なければ誰だか分からない。少し戸惑いながらも通話ボタンを押した。
「もしもし」
「苗字か」
「降谷さん!なんで俺の電話番号」
「山田に聞いた」
電話から聞こえてきたのはなんと降谷の声だった。警備企画課に異動になる事が決まってから、これが初めての会話だ。電話なのだから、直接会うより緊張はしないはずなのだが、声がより近くで聞こえる電話の方がより恥ずかしさが増すものだと苗字はこの時初めて思った。
山田の方をちらりと見れば、缶をあおりながらニヤニヤと悪巧みが成功したかのような悪い笑みを浮かべていた。
「まだ正式に異動じゃないが、急ぎの仕事があるんだ。頼まれてくれないか」
「もちろん」
「それじゃあ風見が俺のデスクにいるはずだから早速行ってくれ」
「かしこまりました」
ピッ
「なんだって?」
「仕事だってさ」
「さすが警備企画課。忙しいんだな」
「そうみたい」
切った電話を再びポケットに滑り込ませて、苗字も缶を煽った。少し冷めた、ぬるいコーヒーを一気に飲み干して、中身を空にする。しばらくはこんなゆったりした時間もなくなるのだろう。そう思うとこの時間も、友人も少しは恋しく思えるものだ。
「それじゃあ俺は行くよ。コーヒーごっそーさん」
「おう。時々こっちに顔出せよな」
「暇があればな」
バタバタ舞う髪を鬱陶しそうに抑えながら、苗字はフェンスに寄りかかるのをやめた。呼ばれたのだから早く行かなくては。
あの忙しくも賑やかな警備企画課のフロアへ。
「じゃあな山田。お前のおかげで楽しい毎日になりそうだ。ありがとよ」
「!」
*
「風見さん」
「苗字!ようこそ警備企画課へ。さっそくで悪いが、ここのホテルにハッキングして防犯カメラの映像を入手してくれ」
「お安い御用です。警備企画課の初仕事ですね。苗字名前、ぞんぶんに働かせていただきます!」
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資料室の男と降谷零を書きたくて書いたら友情風な話になりました。
普通ならこんなに簡単に引きぬくだとか、仕事頼むってのは絶対ないと思いますが。夢ですのでね、許してください。