星月夜に希う
上から褒められたお祝いにと、隊のみんながほとんど飲みに出てしまったこの日、僕は屯所に残っていた。やることもなかったから、見るともなしに庭に目を向けると、そこに怪しい人影が見えた。抜き身の刀を持ってそいつに近付く。切っ先を、刺さるすれすれのところで止めて「誰だ」と問えば、聞き慣れた声が返ってきた。
「沖田君、僕です。刀を下げてください」
「え、伊庭君?」
僕が刀を下げると、ほっとしたように伊庭君が笑った。
「驚いた、僕だって分かりませんでしたか?」
「影になってたから、顔が見えなくて……何の用? 土方さんたちなら飲みに行ってるけど」
「そうですか、沖田君は行かなかったんですね」
「僕はあんまり騒ぎたい気分じゃなくて」
「君が残っててくれて良かった、僕は沖田君に会いに来たので」
「僕に?」
伊庭君は不思議そうな表情を浮かべた僕を見て、困ったように微笑んだ。
それから「今日は満月なんですよ」とよく分からないことを言って……唐突に、僕を抱き締めてきた。
「え、何?」
「だから、満月なんです」
「……それで?」
「月が、綺麗ですよ」
言われて空を見上げると、大きくてまんまるとした月が静かに輝いている。確かに綺麗だ。
「伊庭君は見なくていいの? 僕に抱きついてたら、月なんて見えないんじゃない?」
「大丈夫です」
「何が大丈夫なの?」
「僕は……」
少しの間を置いて、伊庭君が僕の目を覗きこんだ。
「僕は沖田君の目に映った月を見るので、大丈夫です」
鳥肌が立ちそうなこんな言葉を、どうして伊庭君が言うと様になるのだろう。違和感もなければ、不快感も湧いてこない。
だけど納得はいかない。
「伊庭君で翳って、僕の目に月なんて映らないでしょ?」
僕の目の前には伊庭君の顔があって、きっと今の僕の目に映っているのは伊庭君だけだ。月なんて見えるはずもない。だから全然大丈夫なんかじゃない。
「えぇ、そうです。でも、僕が一番見たいのは沖田君の顔で、沖田君に一番見てもらいたいのも、僕の顔ですから」
「月はいいの? 月が綺麗だから来たんだよね?」
僕の疑問に、伊庭君がふふっと楽しそうに笑う。
「そんなの、君に会いに来る口実だって分かっているでしょう? 今日が新月だったとしても、星が綺麗ですよと言って僕は会いに来てますよ」
返事をしないでいる僕に、伊庭君がまた困ったように微笑んだ。
「やっぱり、僕の気持ちは迷惑ですか?」
伊庭君は強引な部分もあるくせに、どこか臆病だ。
いや、彼の性格を考えれば僕に気を遣っているのかもしれない。僕を怖がらせないように、なるべく嫌な思いをさせないように。そうして、僕の逃げ道まで作っているんだ。
だから、迷惑だよと言えばきっとすぐに離れるんだろう。
……伊庭君は、僕に気を遣い過ぎて気付いていないのだろうか。伊庭君の肩越しに見える満月よりも、伊庭君に目を向けている僕の本音に。
「迷惑だと思えないから困ってるんだけど」
そう囁いた僕に、伊庭君がようやく幸せそうな笑みを浮かべる。あぁ、僕はずっとこの顔が見たかったんだ。
「僕が今夜、どうしてみんなと飲みに行かなかったか分かる?」
「騒がしいのが嫌だったんですよね?」
「そうじゃないよ」
「もしかして、体調が優れないとか?」
「それも違う……伊庭君が会いに来てくれないかと思って、待ってたんだ」
伊庭君の、息を飲む音が静かな夜に響いた気がした。
伊庭君が緊張しているのが分かる。伊庭君はどうしてだか、自分だけが僕を好きなのだと思い込んでいるから、信じられないのかもしれない。
「それが冗談だと言われたら、みっともなく僕は泣きますよ」
「冗談でも嘘でもないよ」
「信じて良いんですか?」
「うん、いいよ」
「では、口付けしても良いですか?」
今、伊庭君の目にはどんな表情の僕が映っているのだろうか。
僕の目には、ここまできてもまだ怯えの滲む表情の伊庭君が映っている。
「聞くのが遅いんだよ、伊庭君は」
「え?」
驚きで薄く開かれた伊庭君の唇に、僕のそれを重ね合わせた。
すぐに顔を離して、少しだけ怒る。
「今度からは、いちいち確認しないでいいから」
「え……それは、僕がしたくなったら、断りもなく沖田君に口付けて良いということですか?」
そうだよ、と笑った僕の顔はきっと、呆れるほど嬉しそうだったに違いない。
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2017.08.16 - 2018.01.10
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