零れた記憶

僕は海が好きだった。

毎日、飽きもせず海に来ては

ただぼんやりと眺めていた。


昼も夜も、暇さえあれば浜辺に立っていた。




彼と出逢ったのも、海だった。



花冷えする寒い日で、

綺麗な満月が印象的な夜だった。

月は彼の醸す雰囲気とよく似ていた。



夜、彼と会う日が続いて

半月程した新月の晩に

彼の名を知った。


僕も名乗ると、彼は静かに頷いて

二人で海の音だけ聴いていた。


潮の匂いと彼の匂いが混じり、

僕は海が好きなのか

彼が好きなのかわからなくなる。



言葉は無かったけれど、僕は楽しかった。

こんな毎日が、

永遠に続くような気がしていた。

幸せだった。



そこにはいつも海が居た。


僕の大好きな海が、

彼の瞳と同じ色で、

静かに僕等を見つめていた。






それは突然だった。



ある日彼は海に攫われてしまった。

月に届かない海は、

月のような彼に恋をしていたのかもしれない。


僕に向かって勝ち誇ったように

波を寄せてくる海を

僕はもう好きだと言えなくなっていた。




海の無い町に越して来て、

もう何年になるだろう。


潮の香りも彼の顔も、

全て忘れた気でいたのに。


気を抜くと、僕の目からは記憶が零れる。


涙は、遠い海の味がした。
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