人魚姫

※「人魚姫」ベースのパラレル


その頃の僕は、何をしても楽しいと思えなくなっていた。

海の近くに住んでいるのをいい事に、まるで何かから逃げるように僕は毎日浜辺に行く。
大きな波が来たならばいっそ攫われても構わない……そんな気持ちで波打ち際を歩く日々が続いていた。
いつものこと、足元ばかりを見ながら歩く。
特別に天気の良い日は偶に沖の方へ目を向けて、光を浴びて蒼く染まる海をぼんやりと見続けることもあった。


この日は、とても天気が良かった。

約束事のように沖を見て、その蒼さに溜息を吐く。
また歩こうと足元を見れば、あんなにも蒼い海が僕の足首に触れる頃には透明になっている。

そうなる理由は学校で習った筈なのに、僕はもう忘れてしまった。
既に解明されている現象でも、やっぱり不思議だと思う。

そんなことを考えながら歩いていると、人が倒れているのに気付いた。

最初は死体だと思った。
死体なんて一度だって見たことは無いのに、この時の僕は少しおかしかったのかもしれない。特に驚く事も無く近付いて行ったから。

近くで見てみるとそれはとても綺麗で、こんなに美しくなれるのならば、僕も死んでしまっても良いかもしれない。

しゃがんで死体の顔に触れてみると、とても冷たかった。
肌触りはまるで陶器のようで、死体ではなく人形だったのかと思う。
けれど唇をなぞった時、細く息をしているのに気付いた。


生きている……


その時、やっと僕は慌てたんだ。
どうして良いのか分からなくて、人工呼吸をするべきかと思ったのに、やり方を知らないから出来そうにない。

結局僕は、その人物を自宅に連れて帰ることにした。
温めた方が良いのだろうとシャワーを浴びせた時、その男が薄く目を開く。
意識が戻ったらしい彼に、僕は色々と話し掛けてみた。

最初に知ったのは、彼は声が出ないということだった。
けれど言葉は通じるようで、僕の質問に頷いたり首を振ったりして答えてくれる。

どこから来たのか覚えていない。
自分が誰なのかも、何故ここに居るのかも分からない。

話し掛けて分かったのは、何も分からないという事だけだった。




それから何となく一緒に暮らすようになった。

暮らしていて不思議に思ったことが一つある。
僕は記憶を失った事が無いから、勿論絶対とは言えない。それでも自分が誰だか分からなければ、必死になって思い出そうとするものではないのだろうか。
けれど彼にはそういった焦りも必死さも、全く見受けられないんだ。

何故――?
だけどつまらなかった僕の生活が、彼と会ってから楽しくなっていた。
だから、このままで良いんだ。

謎は謎のままだから楽しいのであって、知ってしまえば案外大したことが無いじゃないか。
彼がどこの誰かなんて、知らないままが一番良い。
そうして分からないまま、ずっと僕と一緒に暮らしていけば良いんだ。


それから幾月過ごしただろう。
何時まで経っても彼は無表情で、ふと他の表情も見てみたくなった。

「おはよう」と声を掛けて、彼がこちらを向いた瞬間にキスをしてみる。
驚くかな? 嫌がるかな? 色々想像していたのに、少し不思議そうな顔をされただけで終わってしまった。

それでも、いつもと違う表情を見る事が出来て僕は嬉しくなる。
そしてキスが日課になった。

何度しても彼は嫌がったりしないから、偶に少しだけ深いキスもした。
ただそれだけなのに、僕は幸せだった。


いつの頃からだろうか、彼が窓から海を見詰めることが増えていると気付く。

「そんなに見たいなら、海に行ってみる?」

訊けばこくんと頷かれた。
はぐれないように、なんてわざとらしい言い訳をして、彼と手を繋いで海辺に降りる。

海を見る彼の表情は、見たことのないものだ。
また新しい表情を見られたというのに、この時僕に湧いたのは嬉しさではなく不安だった。

何故不安になったのかは解らない。解らないけれど、海を見続ける彼を僕はただ見続けた。
目を逸らしたら、消えてしまうような気がしたから。

彼の髪の色はここらでは見ない色だったから、最初は海の向こうから来たんだろうと思っていた。
航海中の船が嵐にでも遭って、流れ流れて彼だけがここに辿り着いて助かったんだろう。そんな風に思っていた。
言葉が通じるのは、きっとこの国に来る為に勉強していたからだ。
そう、こんなのはよくある話だ。


だけど、違うかもしれない。
もしかしたら彼は、海の中から来たのでは――

思った直後にばかばかしいと、自分の考えに苦笑が漏れる。
それなのに、どこか否定しきれない。

彼の声が出ないのは海の魔女に舌を抜かれてしまったからかもしれない。
日課になったキスで彼に舌があるのは分かっているのに、何故かそんな考えが浮かんだ。

人魚姫は丘の上の王子に恋をして、そして声を失った。
彼は何を望んだのだろうか。

もしも声が戻ったら、彼は一番最初に何を言うのだろう。
僕の名前を呼んでくれたら嬉しいけれど、教えてないのだから言える訳が無い。

とりとめも無く、脈絡も無く、確証も何も無いというのに、僕はずっとそんな事ばかりを考えていた。

だけど仕方が無い。
瞬きをする為に目を伏せた彼の、その睫毛の長さも、睫毛の影が落ちる肌の白さも、声は出ないのに何かを言いたげに少し開かれる唇の形の美しさも。
見れば見るほど、どこか人間離れして見えてしまうから。

戻ろう?

声を掛けるとこちらを向いて、静かに頷く彼の手を引いた。
初めて会った日のようにひんやりとして、温度を感じられないその手に、いつか彼が海に戻ってしまうイメージが湧いてくる。

もしもそんなことになったならば、僕はきっと後を追うよ。
そして海の魔女に頼んで、君と暮らす夢を見よう。

その願いと引き換えに、僕は何を差し出せるだろうか。

2010.12.07

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